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第46話
それは随分と長い沈黙だったと思う。その小さく狭い背中に、徳川は掛ける言葉が見当たらなくて、ただ途方に暮れていた。夏衣に纏わりついていたその暗闇の正体を、少しだけ見せられた気がする。それは夏衣自身が頑なに信じて疑わない、罪の意識だろう。白鳥が自身の目の前で文字通り奪って見せた、そのひとりの男の命の重さを、夏衣は覚えている、おそらくそれは夏衣が果てるまで夏衣について回る気なのだろう。それの何と長い歳月のことだろう。考えただけで眩暈がしそうだ。夏衣がその乾いた目を瞬かせる。それが一瞬泣いているように見えたのは、どうしてなのだろう。気のせいなのだろうか。
「葛西は俺を救おうとしてくれたのに」
「俺は葛西を裏切った。白鳥が怖くて何も出来なかった」
そこで夏衣はひとつ短く息を吸った。
「殺したんだ」
その美しいばかりの桃色を伏せた目の辺り、そこに蔓延る妖艶な雰囲気と寂寞の影、夏衣はいつからそれを携えて生きているのだろう。いつまでそんな格好で生きているのだろう。狭くて小さい背中が、やや湾曲して徳川はそれに手を伸ばしかけた、思わず伸ばしかけて指先が痙攣した。葛西という男のことを、徳川は知らない。おそらく白鳥の資料を捜索したところで、消去された男のデータは引っ張ってこられないだろう。そうして白鳥にないということは、もう世界中の何処にもないということだ。男のことを知る術は、おそらく全て絶たれている。向こう見ずで軽率だった男のことを、徳川は簡単に馬鹿だと思えたけれど、何故かそれは悲しみを伴った感情だった。夏衣をこんな風に苦しめることになると、男は想像出来なかったのだろうか。もしかしたら男の狙いはむしろそこに在ったのではないだろうかと、勘繰りたくなる。簡単に代えられる世話係筆頭という曖昧な立場の自分を、夏衣の柔らかい心に爪を立てることで、それを濁らせることで、夏衣の中でこそ生き続けることを選んだのではないだろうか。それこそ馬鹿げたその行為を、何故だか自分は良く分かる気がするので、そう一蹴することは出来ない。どんな方法でも良いから、葛西を救ってやりたいと夏衣がいつか望んだように、その時葛西が望んだことはそのどんな方法でも良いから、どんな残虐な方法でも良いから夏衣の中に残りたい、そんなことではなかったのか。だとしたら男の行為は結果的に成功し、夏衣の中に男の影は未だに黒く濃くそのまま存在し続けている。もう良いだろう、満足だろう、いい加減このひとを許して離してやってくれと、徳川は思いながらモノを言わない鼠色の石を見ていた。
「そんなこと、ありません、絶対」
否定した声は震えていた。夏衣はその口角だけを器用に上げて、不自然に笑うと小さく有難うと呟いた。この苦しみは何処まで行けば終着するのか、おそらく誰にも分からないことなのだ。そこからどのようにして夏衣を連れ出せるのか、考えてもそれに答えなどはじめからないのだ。
「斉藤君ね、君のことが嫌いなんじゃないよ、徳川」
「・・・はい」
「きっと毎日退屈で詰まらないから、からかって遊んでいるだけなんだ、気にしちゃ駄目だよ」
「・・・分かって、います」
まだ声は震えている。夏衣が柔らかい声を上げて少しだけ笑ってそれに呼応した。その痛々しく白い喉の辺りが、それに伴って上下するのをただ徳川はぼんやり見ていた。
「君はまだ若いし、境遇も葛西に何処となく似ているから」
「・・・―――」
それは嘘だと、徳川は思った。夏衣はその時何でもないようにそう言ったけれど、そんなことは嘘に違いないと思った。おそらく自分は夏衣の手を引いて、圧倒的な白鳥という存在から逃げ出すことなど出来ないだろう。その手を夏衣が握っていてくれたとしても、だ。その違いは、おそらく葛西と自らを完璧に線引きする。そこに生まれる差異など明確だ。だから届かないのか、この気持ちはひとつも届かないばかりで、夏衣は向こうで少しだけ寂しそうに笑っているだけ。どうしてそんな顔をして自分を見ているのか、徳川には分からない。だったら余計に自分は葛西とは違うのだと、思わずにはいられない。
「でも徳川、お前が俺に対してそんな風に思っているってことを知った以上、お前のことをこれ以上側には置いておけないよ」
「・・・夏衣様・・・」
夏衣は静かにそう言った。何故かそれに妙なデジャブを感じながら、徳川は夏衣の腕を掴もうとしてまた指先が痙攣するのが分かった。頭で考える以上に、体が夏衣に触れる事を良しとしていない。夏衣がそれを察したようにゆっくりと振り返った。その人が15の時、一体どんな色香でそこに存在していたのか知らない。けれどそこにあったのはこちらの神経を完全に宥めるような、そしてそれ以上のことを何も考えさせなくなるような、妙な力のある瞳だった。夏衣はそれを細めて静かに言った。余りにも落ち着き払った夏衣のそんな姿を、徳川は一瞬依然何処かで見たことがあるような気がした。
「そんな酷い・・・酷いこと・・・言わないでください・・・」
「うん、御免ね」
「俺は、俺は貴方のために生きているんです。貴方の側以外で呼吸することに意味があるとは思えません!」
「・・・徳川」
「お願いします、お願い、します。側に・・・置いてください・・・」
夏衣はもう笑わなかった。ただ優しい顔をしたまま、俯く徳川の頬にそっと触れた。それは思ったよりもずっと冷たい指先だった。思わず目の奥が熱くなって、徳川は震えた。
「俺のために生きるってことは、俺のために死ぬことと殆ど同義なんだよ」
「それでも良いです、それでも、良いんで、す。死ぬことなんて、ひとつも怖くない・・・」
ぼろりと目から涙が溢れて零れていった。それが夏衣の冷たい指先を濡らす。夏衣は徳川の頬を余りにも優しい手付きでなぞると、それの跡をすっかり消した。
「御免。俺はもうこんな風に傷付きたくないんだ、分かるだろう、徳川」
「・・・なつい、さま・・・」
「御免、そう思ってくれるだけで凄く嬉しい。有難う」
「・・・嫌だ・・・嫌です・・・」
伸ばした手が呆気なく空を切って、ゾッとした。夏衣はそれを見ながら眉尻を下げたまま、ゆっくりと微笑んだ。
「徳川、お前はあの車で家まで帰るんだ、俺はタクシーを拾って駅まで行くから」
「・・・なつい、さま・・・」
「分かるね。後生だからもう俺のこと、これ以上苦しめないでくれるね」
そんな風に言われたら、一体他にどう返すことが出来たのだろうか。徳川はそこに突っ立ったまま、去っていく夏衣の漆黒のスーツが揺れるのをただ眺めていた。どうして男の存在以前に、自分は夏衣に出会うことが出来なかったのだろう。夏衣の手を引くのはそうすれば、本当は自分だったのではないのか。自分だけは自分こそは、特別な存在で夏衣のことを救える、そうしてそれを夏衣もきっと望んでいる。どうしてそんな馬鹿な幻想を抱いていられたのだろう。徳川はそこで子どもみたいにしゃくり上げながら、もう見えなくなってしまった夏衣の背中を探した。夏衣の背中には徳川の知らない男の影がある。その男は歳の割にあどけない顔をして、夏衣の後ろでにこにこ微笑んでいる。夏衣はその男を背負ったまま、その男に対する重い悔恨を抱いたまま、整然と並んだタイルの上を歩いていく。その先にあるのは一体何だろう、本当にいつか葛西の望んだ夏衣の幸福に、その道は繋がっているのだろうか。そんなことは最早、誰にも分からなくなったことだった。
それは穏やかな春の日だった。男が夏衣のところに始めてやって来たのは、こんな未来にまさか続いているなんて誰にも予想させない、それは穏やかで暖かな春の日だった。男は透き通った美しい目をして、襖の向こうに広がる桜と夏衣の目が同じ色だと言って笑った。思えばそれは最初で最後の、幸福という名前の記憶だった。そんなところに夏衣と葛西がいつか目指したものがあったことを、今更気付いてももう笑ってくれる葛西は側にいない。葛西はいなくなってしまったから、夏衣の側には誰も居ない。
どうしてなのだろう、君が死んでしまった世界で、俺はまだ生きている。
君がいつか褒めてくれた、あの時と同じ瞳の色で。
fin.
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