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第45話

こんな家に来なければ、自分にさえ会わなかったら、葛西が死ぬことはなかったのに。何度唱えてもそれは同等の重みで夏衣の心の中に住んでいる、最早後悔などと呼べるものなどでもなくなっていた。血の気が引いた頭がふらふらとただ重たく、ズキズキと疼き出した脇腹に気を持っていかれる。それでも斉藤は夏衣の目の前で笑っていた。確かにあの手が金属を握って葛西を殴って殺した、それなのに夏衣は何も出来ない。襟首を掴んで揺さぶることですら、満足に出来ないでいる。自らの無力に眼の奥がじわりと熱く滲んでくる。それを見ながら斉藤は、一層口元の笑みを深く濃いものへと変えた。 「私を恨むのは筋違いではないですか、夏衣様」 「・・・煩い・・・」 「貴方がお選びにならなかったのでしょう」 「・・・黙れよ・・・―――」 斉藤が何を言いたいのか、夏衣には分かった。口の中に苦いものが込み上げてくる。俯くと床に何も入っていない胃の中のものを、そのまま吐き出してしまいそうだった。目の奥がちかちかとただ痛い。何も思い出したくはないはずなのに、夏衣の脳内は勝手にあの中庭の景色を再生させる。夏衣は頭を抱えて後退しようとしたが、腰がベッドに当たるばかりでそれ以上後ろには下がることが出来なかった。裸足の足の裏が妙な冷たさを感知している。目覚めた時どうして生きているのだろうと思ったけれど、もう一度その時どうして生かされているのだろうと感じた。まだ当主は自分のことをこうやってじわじわ甚振るつもりなのか、一体いつまで、いつまでここでこんなことを繰り返さなければならないのか。そう考えると目の前が真っ暗になる。その中で斉藤だけがぼんやりとした鈍い光を放って、ただ真っ白い床の上に立っていた。 「貴方が葛西を殺したんじゃないですか」 びいんと夏衣の頭の中に斉藤の声が響く。はっとして顔を上げると、斉藤はもう笑っていなかった。気持ちが悪いほどの無表情で、冷たい目で夏衣のことを眺めていた。どうして斉藤がそんな顔をしているのか、夏衣には分からない。斉藤を責める権利はあっても、斉藤に責められる覚えなどない。夏衣は止めてくれと何度も叫んだ、それを聞き入れなかったのは一体どちらのほうなのか、葛西を呆気なく切り捨てたのは一体誰なのか。それなのにどうしてそんな風に理不尽に詰られなければならないのか、夏衣にはとても理解出来ない。夏衣は呆然とそこに立ち尽くしたまま、それに思わず首を振っていた。 「・・・違う・・・俺は、俺は、葛西を・・・」 「ではどうして選んでやらなかったのですか、可哀想に。あの真面目な男は貴方のことを信じていたのに」 「違う・・・―――」 「違いませんよ」 斉藤の目が冷たく光っている。 「貴方は選ばないという方法で、結局はあの男に手をかけたんですよ」 「違う・・・そんな・・・そんなこと、俺じゃない・・・俺じゃ・・・」 「怖かったんでしょう、死ぬことが。自分のほうが可愛かったってことじゃないですか」 「違う!止めろ!俺じゃない!」 がたがたと両足が震顫しはじめて、夏衣はガンガンと煩い何かが響く頭を抱えて、そのままそこに蹲った。もう床の冷たさなどは問題にはならなかった。開けっ放しの目が徐々に赤く染まって、そこから透明の液体がだらだらと流れ始める。濡れた視界の向こうに斉藤が一体どんな顔をして立っているのか、夏衣にはもうそんなことはどうでも良くなっていた。本当は分かっているつもりだった、そんなことは今更誰かにわざわざこんな風に知らしめられなくても、夏衣自身で分かって自分ではそれにきちんと決着をつけているつもりだった。あの時葛西は何も言わずに俯いていた。葛西は何も言えなかったのかもしれないが、もし葛西があの時口を利けていたのなら、葛西は口を割って一体夏衣に向かって何と言ったのだろうか。そう思うと恐ろしかった。そう考えると恐ろしかった。夏衣がその時天秤にかけたのは、本当に春樹の将来だったのだろうか、本当は自らの命ではなかったのだろうか。そして選んだのではないのか、そうやって自分は暗に選んだのではないだろうか、どんな方法でも生きることを、葛西を見殺しにしても生きることを、そうやって選んだのではないだろうか。ひゅっと嫌な音がして、呼吸器官が狭まる。下から何かがせり上がってくる気がして、夏衣はそれを止めることが出来ずに叫んでいた。 「―――・・・あっぁっぁぁああ!」 斉藤はそれをひとつも笑みなど浮かべないまま、実に冷たい目で見下ろしている。短い息と悲鳴を夏衣がその口から吐き出し始めて、ようやくそこで斉藤はその表情にいつもの微笑を戻した。そして自己嫌悪で錯乱する夏衣の前にゆっくりと手を伸ばして、そして更ににこりと優しく微笑んだ。 「参りましょう、夏衣様」 「当主様がお待ちですよ」 すっかり冷たくなった風が、徳川の短い前髪を揺らしていた。目の前で俯く夏衣は、小さく呼吸を繰り返している。その人が一体何を思案しているのか、分からなくてただそれに訳もなく焦燥する。震えるその尖った頼りない肩を、抱き締めたくても触れることが許されないので、徳川は見ていることしか出来なかった。随分長い話だった。気が遠くなるくらい、それには長い年月が込められているような気がした。それが人ひとりの重さなのだろうと徳川はすっかり何も考えられなくなった頭で、辛うじて思っていた。今は何も言わない鼠色の石に姿を変えている男は、そういう形で夏衣の心に巣食っている、未だ。それが羨ましいと言ったら、夏衣は一体何と言うのだろう。笑うだろうか、怒るだろうか。不道徳だと自分でも思う、けれど男はまだ死んでいない、おそらく夏衣の方に冷たく重い十字架を乗せたまま、夏衣と今後も一緒に居るつもりなのだろう。そんな形でもどんな形でも、男は夏衣の中に残っている。夏衣は男のことを忘れないだろう、おそらく思い続けて覚え続けて夏衣の心をそうやって苦しめ続ける。そんな残酷な方法でもこの人のそこに爪を立てられれば満足だなんて、思う自分はすっかりどうにかなっている。夏衣がその肩を揺らして、ひとつ大きく息を吐いた。この弱い人が本当は頼りなくて無力な人が、その昔光に見えたそれに少しの間縋ったって、そんなことを誰にも咎める権利などないように思えた。ただ残念に思えるのは、何故彼だったのかということだった。どうして自分ではなかったのだろう。徳川にはまだ思えていた、夏衣が何を言いたいのか分かる。でもそれを器用に察して、ここから何もない振りをして立ち去ることなんて、自分には出来そうもない。 「だからね、徳川」 言いながら夏衣はそっと墓石に手を伸ばした。鼠色の冷たい石の上を夏衣の白くて細い指が、そっと撫でていく。 「ここには何にも入っていないんだ、俺の自己満足で勝手に立てたの」 「葛西は俺に全部くれたのに、あれは本当に葛西の全てだったのに」 そうして夏衣は何処か眩しそうに目を細めた。夏衣がそうして眺めていたものは、いつだって葛西の透き通る瞳だったことを、終ぞ葛西は知ることが出来なかった。夏衣のとっては眩しくてとても直視出来ない、だからいつも僅かに夏衣は目を細めていた。葛西はそれを最後まで不思議に思いながら、知ることは出来なかった。夏衣が本当は一体何を考え、思っていたかなんてことはどうでも良かった。その目に何が映っているのか、本当はそのことのほうが重要だったのに。自己主張の出来なかった夏衣の、一番多くを語っていたのは、良くも悪くも結局はその白鳥の証明である瞳そのものに違いなかった。そうして夏衣はその眉間にゆっくりと皺を寄せた。全てを捧げてくれた葛西のために、白鳥である夏衣が払った犠牲というのは本当に軽い、奥歯を二本と肋骨を二本欠如しただけの程度の低いものだった。そして結局夏衣の手の中に残ったものは、葛西が捧げてくれた葛西自身ではなく、重たい罪への悔恨だけだった。あれから10年もの月日が過ぎ去ったけれど、何故だろう、その間に沢山のことがあって夏衣はそのたびに喜んだり悲しんだりしたけれど、何故かそれは消えても葛西の優しくて幼稚な笑顔だけは消えなかった。未だに時々夏衣の中から出てきて、葛西は生前と同様の無邪気さで簡単に夏衣を苦しめた。怖かったのだ、もしかしたら葛西は自分のことをひとつも恨んでいないのではないかと思うこと自体が、本当は何より恐ろしかったのだ。 「・・・俺は葛西の骨すら拾ってやれなかったんだ・・・」 酷く悲観的に呟かれたそれが、冷たい風に攫われていく。

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