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第44話
天井は遠く高く、全く知らない様相をそこに留めていた。目覚めた部屋の中は自棄に眩しい白の蛍光灯の光る部屋で、夏衣はそれに目を慣らすために何度も瞬きをしなければならなかった。頭の中に不快な和音が響いている。ふうと息を吐くと、ずきりと脇腹が痛んだ気がした。見れば自分はいつの間にか見知らぬ白い着物を纏っており、それを捲ったところには痛んだと思われる箇所に厳重に包帯が巻いてあった。おそらく意識を手放した夏衣をここに運び入れ、手当てを施したのは月花だろう。最後まで側に居てくれたのは、そういえばその男だった。ぼんやりと夏衣はベッドに横たわったまま天井を眺めていた。考えることなどひとつだったから、それから懸命に逃れようとしていた。泣き過ぎて目の奥と喉が痛くて、ひりひりとした慢性的な刺激を夏衣に与え続けている。生きているのだと思った。こんなに光が眩しくて、こんなに体が痛いのだから、おそらく自分は生きているのだろうと思った。同時にどうして生きているのだろうかと思った。白鳥が目の前で殺せと白鷺に言うのを聞いた時、流石に血の気が引いたけれど、どうして白鷺はそうしなかったのだろうかと考えた。そのほうが幾分も楽だったのに、今更目覚めてまでこんな思いはしなくて良かったのに。もう二度と目覚めない夢に、落ちるみたいに呼吸を止めていたかった。どうして自分は生きているのだろう、何故生かされているのだろう。
葛西は死んでしまったのに。
その時ガラリと音がして、引き戸が開いて奥から誰か部屋の中に入ってきた。夏衣は殆ど無意識のままそれを、首を動かして追いかける。月花かそうでなくても月家の誰かが自分の調子を伺いにやって来たのだろうと踏んでいたが、そこに現れたのはいつものように意味深な笑みを顔に貼り付けた斉藤だった。斉藤は夏衣が起きているとは思っていなかったのか、夏衣の目が開いていることに気が付くと、一瞬そこで足を止めてから夏衣に向かって一礼した。そんな斉藤の顔をじっと見ているうちに、夏衣の中に埋もれていたものが徐々に頭を擡げ始める。斉藤は頭を上げると人の良さそうな顔のまま、ベッドに近付いてきた。
「お目覚めですか、夏衣様。ご気分はどうですか」
「・・・最悪だ・・・」
「そうですか、何かお体に合わない薬でもあったのでしょうかね。そのように伝えておきますよ」
にこにこと笑いながら、斉藤はベッドの側に立って夏衣を見下ろしていた。記憶の最後の方は、何故かどうやっても思い出すことが出来なかった。もしかしたら記憶していないのかもしれない。ただ斉藤が容赦なく振り上げた銀色に光る美しい棒状の何かが、葛西の無防備な肉塊を何度も嬲るその音だけは、未だに耳の奥に残っていて夏衣を責め立てている。だから夏衣は葛西が息絶えたところを、直接的には見ていないかもしれない。そうすれば葛西はもしかしたら死んでいないのかもしれない、そう思ったがそんな鈍い光はあっけなく吹き消されて、夏衣の周りはまた暗闇に戻る。誰に言われるまでもなく、夏衣は良く分かっている。白鳥はそんな風に他人に情けをかけたりしない。あの白鷺でさえ簡単に殴ってしまうほどの圧倒的権威の上に居る、その白鳥が簡単に自分の意見を翻したりしない。そんなことは良く分かっている。だから直系の孫に当たる夏衣にですら、白鳥は慈悲を見せたりしない。もしかしたら生かされていること自体が、白鳥が夏衣に与えた恩恵なのかもしれないけれど、一方でそれは夏衣にとっては苦痛でしかないところを加味すると、おそらく白鳥は現状の夏衣のことを分かっていて、それで居て尚息を続けさせたのだ。それは生かすことで夏衣をより苦しめるために。考えながら夏衣は斉藤の視線から逃れるために、ベッドの上で体を無理に反転させた。白いシーツを握る手が、僅かに震顫しているのが分かる。
「・・・葛西は・・・どうした・・・」
しかし聞かずにはいられなかった。分かっている、葛西はおそらくもう何処に居ようとも息はしていない。けれどそう斉藤に尋ねることしか、最早夏衣は出来なかった。斉藤が夏衣の背中を見ながら、その口角を一層引き上げたことを夏衣は知る由もない。
「死にましたよ。おや、夏衣様はご覧になっておられたのではないでしょうか」
「・・・覚えていない」
シーツを握った手が、余りにもがたがた震えて、夏衣は自分でも半ば怖くなりながらそれを右手で押さえつけた。もうそれに対して一体どう思って良いのか、夏衣にすら分からなかった。どう思っても許されない気がした、一体誰に許しを乞うつもりだったのか分からないけれど。
「・・・今何処に居るの、葛西。もう、火葬は済んだの」
「・・・あぁ・・・」
何故かその時斉藤は驚いたような感嘆の声を漏らした。訝しく思った夏衣が体を反転させて、斉藤のほうを見やると斉藤はその目を三日月にして微笑んだ。
「すいませんねぇ、まさか要るものとは思わなくて・・・」
「・・・え・・・?」
そして視界が黒に染まる。
「丸めて鳥のエサにしてしまいましたよ」
もしかしたら体は何処か軋んだ音を立てていたかもしれなかったが、夏衣は体の上に乗っている毛布をばさりと払い落として、思い切り握った右拳で斉藤の頬を殴っていた。斉藤はそれに特別防御するわけでなく避けるわけでもなく、呆気なく殴られてそのまま白い床の上に尻餅をついた。肩を大きく上下させながら夏衣はそれを裸足で床に立ったまま、ただ激昂した血がおさまるのを待っていた。ややあって斉藤が殴られた左頬を撫でながら、座ったままの格好で視線だけを引き上げ夏衣を視界におさめた。その唇はまだ笑っている。それに静まりかかっていた血が一気に沸騰し、夏衣は衝動のまま斉藤の襟首を掴んでいた。
「お前、それでも人間かよ!」
「人を・・・葛西をそんなゴミみたいに捨てて・・・―――!」
しかし斉藤はその頬を悠長に撫でているだけで、夏衣の癇癪など何処吹く風、全く相手にしていない様子だった。それが余計に夏衣の神経を逆撫でる。
「何とか言えよ・・・」
ふうと斉藤が溜め息を吐いて、夏衣はそこでようやく斉藤の襟首を離した。斉藤は勿体をつけるようにゆっくりと立ち上がって、ぱんぱんと大して汚れていないスラックスを叩き、わざとらしく歪んだネクタイの様相を元に戻した。夏衣はそれをひとつも見逃さずに、ただ鋭い目付きのまま眺めていた。
「・・・お言葉ですが夏衣様、そんなにあの男が大事だったのなら、どうして選んでやらなかったのです?」
「・・・―――っ!」
白鳥の勝ち誇った顔が見えてくる。結局夏衣はその足にしがみ付くことしか出来なかったことを思い知る。そうしてそんな風にしてまで、白鳥に許しを乞ったのに白鳥は整然とした強固な意志のまま、呆気なく葛西の命を奪ってしまった。それは蝋燭についた火を吹き消すのと同じくらい簡単に。夏衣の顔が引き攣り、血が一気に重力を伴って落ちていく。くらくらと揺れる視界に足元を掬われて、夏衣はふらふらと頼りなく後退するとベッドに腰が当たり、そこに捕まってようやく立っている状態を保つことが出来た。思い出したように脇腹がじくじくと痛み出して、瞬く内に額に脂汗が浮かんでくる。こんな体であそこまで動けたものだと自分でも感心してしまうほど、その時の夏衣の体は本当にもう満身創痍だった。葛西はその偉大な存在である白鳥のことを裏切ってまで、自分に全てを捧げてくれたのに、文字通りそれは葛西の心と体の全てだったのに、夏衣はそんな葛西のことを結果的には切り捨ててしまったのだ。あの命や未来だけは決して奪ってはいけないと思っていたはずの夏衣が、その時葛西を選ぶことをすることが出来なかった。何故なのか、何故だったのか。それは白鳥が不意にそこに春樹という存在を介入させようとしたからである。白鳥が自分のことを一体何だと認識しているのか、夏衣は分からなかったが、春樹となるとそれに輪をかけて理解出来なかった。ふたりがふたりで話す機会もそれ相応に設けられているらしいが、そこで春樹と白鳥が一体どんな話をしているのか、夏衣は知ることは出来ない。それと同様の尺度で白鳥が春樹のことをどのように思っているのか、夏衣には分からない。白鳥は仄めかしただけなのかもしれないが、春樹は充分夏衣の代わりになる存在であるということは、夏衣にとっては新しい種類の恐怖だった。けれどその時確かに自分は、葛西ではなく、自らのためにその全てを捧げてくれた葛西ではなく、何も知らずに無邪気に笑っている弟を選んだのだ。それはもう何ひとつ間違いなく、葛西のことを裏切ったということだ。
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