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第43話

春樹。それは夏衣の三つ下の弟に当たる人間の名前だった。確かに白鳥本家に生まれながら、何処か底抜けに明るくてその分器量の悪い、夏衣の愛すべき弟の名前だった。あの小さな体に、まだ何も知らない無垢な体に、白鳥はおそらく夏衣と同様のことを強いるつもりなのだろう。そう思うと無意識に頬が引き攣った。一度は確かに死んでも構わないと思った、むしろ自分が率先して命を差し出すべきだと思った。けれどこんなところで自己満足にそんなことをして、残された春樹は一体どうするのだろうか。何ひとつ悪くないあの子のことを、自分と同じ暗闇に突き落とすのか、それは誰の手でもなく自らの手を使って。震顫する腕に力が入らない、だとしたら選べるか、それでも自分は葛西のことを選べるのか。 「本当にその男がそんなに大事なのか、良く考えろ」 思い出す必要などな何処にもなく、勿論熟考すべき問題などでもないはずだった。葛西は確かに一度や二度ではなく、夏衣のことを救ってくれようとした。それは完全なる事実であった。頑固で聞き分けの悪いところもあったけれど、何度もその透明な目から涙を零しながら、夏衣のためだと真摯に繰り返していた。はじめてだった、葛西は夏衣にとって外を見せてくれようとした紛れもなく始めての人間だった。だけどその葛西を守るために、自分は己の命だけではなく春樹のことも犠牲に出来るのか、そもそもそこに何の関係のない春樹のことを、自分の勝手な都合で犠牲になどして良いのか。 「・・・あ・・・あぁ・・・」 答えなど見えている。選ぶことがなど出来ない。―――出来ない。 動かぬ体を殆ど気力のみで無理矢理に動かして、夏衣はスモークガラスを潜った。そこで先刻と全く変わらぬ椅子に腰掛けたままの格好で、白鳥は余りにも不自然に穏やかな表情で笑っている。先ほどまでの激昂が嘘のようだ。夏衣は必死にその足元に手を付いて、そこに額を擦りつけた。無理矢理曲げた体の左側が軋んだ嫌な音を立てたが、最早痛みとは別の次元に存在していた。 「どういうつもりだ、夏衣」 「お願いします・・・お願いします!お父様!今後一切、一切白鳥から逃げようなんてそんな馬鹿げた考えは起こしません!」 必死で言葉を選び繋げながら、夏衣は勢い良く顔を上げた。それは馬鹿げた考えだった、明らかに夏衣と葛西が一時思ったそれは、余りにも軽率で愚鈍な行いだった。夏衣にはそれが分かっていた、葛西がそれを何処まで理解していたか最早定かではないが、勿論葛西も白鳥の空気を吸っている人間である。それが白鳥によってどのように解釈されるか、そしてその暁にどんなことが待ち受けているのか、勿論想像出来なかったわけではないだろう。しかし何故、だとすればどうしてふたりはそれを選んでしまったのか、選ぶことしか出来なかったのか。おそらくはそれは他人には理解の出来ないことである。その時ふたりをそこに誘ったのは、余りにも愚かな光だった。白鳥はその笑みを潜めて、自棄にそこで真剣な表情をしていた。それに背筋を冷たい手のひらで撫でられているかのような、嫌な気分に晒される。しかし夏衣はそこで諦めることも、考えを改めることも出来なかった。血のこびりついたその手のひらで白鳥に縋るしか、最早道は残されていなかった。 「一生、死ぬまで俺はお父様のお側に居ます!お父様のために何でもします!何でも出来ます!・・・だから」 俯いた夏衣の肩が、頼りなく揺れた。 「だから・・・殺さないで・・・葛西のことを、お願い、お願い、です・・・許して、くださ、・・・い・・・」 ひくりと夏衣の全身が揺れて、力なく崩れると夏衣は遂に白鳥の足元に伏せってしまった。そんな格好になってもまだ、涙声で必死にそれに縋りついている。それが夏衣にとっては最後の頼みの綱だった。白鳥が猛威を振るっているはずのそこで、何故か白鳥がまた夏衣にとっては唯一の希望だった。白鳥はそれに気付いているはずなのに、確実にその夏衣のことが目に入っているはずなのに、何処かそれを現実感のない様相で眺めていた。まるで映画でも見ているかのような、そんな格好だった。その隣で月花が黙ったまま目を伏せている。白鷺も何も言わずにその夏衣を取り押さえる様子も無く、ただ側に立っている。その中で夏衣の声だけが頼りなく響いて聞こえている。暫く白鳥はぼんやりとした目でそれを見ながら、何も言わなかった。そうして暫くした後、唐突に椅子から立ち上がると畳に膝を突き、夏衣の顔を無理矢理に引き上げた。涙と血液で濡れた夏衣の顔は、それでもその双眸が曇ることのない限り、永遠に美しいものであると誰もに変わらず思わせた。不安そうにその桃色が揺れて、嗚咽が一度夏衣の喉を突いた。白鳥はそれを見ながら、にこりと微笑んだ。 「なぁ、夏衣。お前が私のために何でもするのは当然のことだろう」 「・・・え・・・」 「お前は一体私のために何が出来ないと言うんだ?」 「・・・―――」 「決まったな」 引き攣った夏衣の顔を涙だけが別の意思を持っているかのように、つうっと滑って落ちていった。白鳥はそれを見ながら満足げに口元に微笑を浮かべた。それは余りにも美しい微笑だった。そうしてそのまま夏衣の頬をあっさりと放すと、立ち上がってこちらに背を向けた。すぐさま白鷺が進行方向に回り込み、白鳥が入ってきた時と同じ襖を開いた。行ってしまう、行ってしまう、白鳥はこのままここを立ち去る気だ。圧倒的無力を思い知らされてもまだ、夏衣はそこに希望を見ずにはいられなかった。葛西がこのまま見捨てられるなんて、白鳥にだけではなく自分にまでも見捨てられてしまうなんて、そんなことがあって良いのか。死んでも良いとまで言ってくれた葛西の手を、自分はこんなにも呆気なく離してしまうのか。まさか、まさか。そんなことは信じられない、信じたくない。夏衣は必死で白鳥のその背筋の伸びた背中を見つめて叫んだ。何でも良かった、葛西が助かる方法なら何でも良いと思っていたはずの夏衣は、白鳥が提示したそれを選ぶことが出来なかった。 「お父様!」 白鳥は振り返らない。ただそこで足を止めただけだった。 「夏衣、お前はそこで良く見ておけ」 「お前のせいで人が死ぬところを」 「良く見てそして、良く覚えておけ」 白鳥は言った。静かに言った。そして白鷺の開いたその襖の向こうに、見る間に完全に消えてしまった。夏衣はゆっくりと体の向きを変えて、葛西であったもののほうに向き直った。にこりと斉藤が微笑む。それは暖かい春の日だった。目の前で行われているはずの暴行のことを、一瞬忘れてしまいそうになる、それほど穏やかで優しい春の日だった。そういえば葛西が夏衣のところにやって来たのも、こんな穏やかな春の日だった。あれから一年もの月日が経過して、本当に色々なことがあった。出会った頃はまさかこんなことになるなんて思っていなかった、おそらく双方とも。中庭に植わっている桜の木が、不意の風に吹かれてそれに攫われたピンク色の花びらが、ひらひらと舞い踊った。そういえば葛西は言っていた、夏衣様の目と同じ色ですねと、そういえば言っていた。本当は自分の目はそんなに綺麗な色ではない、そんなに葛西が頬を綻ばせて言うようなものの名前では決してない。頬が酷く濡れているような気がしたが、もう泣いているのか泣いていないのか、自分では良く分からなかった。どうして葛西ではいけなかったのだろう、どうして葛西が自分の世話係などに任命されたのだろう、どうして葛西のことを拒絶出来なかったのだろう、どうして自分は葛西のことを選ぶことは出来ないのだろう。もしも会わなかったら、本家などに来なかったらその目はそんなに濁ることはなかった、おそらく葛西は今も元気に何処かでその憎めぬ明るさを振り撒きながら、誰かに愛されているはずだった。それが一体何処で折れ曲がってしまったのか、夏衣には分かっている。それはもう逃れようもない自らの責任だ。どうか罵ってくれ、愛していると一度は呟いてくれたその唇で、今度は自分のことを酷い言葉で詰ってくれ、そうでないとこんなことに均衡など見出せない。一度も言うことが出来なかった、何度も葛西が告げようとしていたその気持ちの答えを、葛西と同じ言葉を自分も繰り返せば良いだけだったのに、それでも夏衣はそれを言うことは出来なかった。一度も好きだと愛していると、外なんかに連れて行かなくても、何も出来ないと嘆くことなんてしなくても、君の存在こそがその存在こそが救いだったのだと、何にも勝る救いだったのだと、どうして一度も葛西に、告げることが出来なかったのだろう。 桜の花びらが舞っている。そうして銀色はゆっくりと、葛西目掛けて振り下ろされた。

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