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第42話
「わっぁああっぁああぁぁ!」
殆ど半狂乱になって、夏衣は強固に夏衣をそこに据え付けようとする白鷺の手を拒絶して暴れた。傍目から見れば少しも動かない体を、畳の上でただ無力にばたつかせているだけの妙な格好にしか映らなかったが、夏衣はその時確実に目の前のものを認識していた。それは葛西であると、誰にも何も言わないうちに、言われないうちに、何故か直感的に理解していた。それを聞きながらガラスの後ろで月花は、眉間に皺を寄せて微動にしない葛西であったはずの塊に、おもむろに視線を移した。
「なぁ、斉藤くん。それホンマに生きてるんか、ちょっとやり過ぎちゃうん」
「えぇ、勿論生きていますよ。まぁ結構強い薬を使わせて頂きましたから、殆ど生きているだけですけど」
斉藤は何でもないようにスモークのかかったガラスの向こうにいる月花に、自棄ににこやかに言ってのけた。そうして何処からともなく銀色の細長い棒を取り出して、それで台車に乗ったままの葛西の体を軽く突くようにして見せた。その返答を聞きながら、月花はひとつ大きく溜め息を吐いて殆どが灰色に染まりつつある頭をがしがしとかいた。ちらりと隣に座っている白鳥を見ると、てっきり笑っているものだと思っていたが、その表情はいつも以上に何処か深刻に歪められていた。しかしおそらくそれは目の前の男の安否を気遣っているわけではないだろう、勿論白鳥はそんなに優しい人間ではない。生きていることすら本当は許せないで居たのだろう、自身の寵愛する夏衣の体を暴いた自分以外の始めての男は、無力にぐったりとそこに据えられている。
「斉藤!」
ガァンと音がして、夏衣の拳が畳を叩いた。一体何処にそんな力が残っているのか、全く理解出来たものではない。しかし何故かその時夏衣は当主でも目の前の男でも、自分を押さえつけている白鷺でもなく、何故か肉塊の隣で微笑んでいる当主の世話係の名前を呼んだ。斉藤は今頃気付いたかのようにゆっくりと夏衣に目を向けて、その細い目を僅かに開いた。
「お前、お前、約束・・・約束、しただろ!」
「約束?」
笑いながら斉藤が首を傾げる。夏衣の腕を両方とも、白鷺は後ろから器用に押さえつけて、夏衣はばたばたと上半身だけで喘いでいる。
「何でしょうか、身に覚えがありませんねぇ」
頭の中に一瞬稲妻が落ちたのだろうと思った。目の前が光って、夏衣は何かから逃れようとして、おそらくは物理的にその時夏衣を拘束していた白鷺ではなく、もっと他の別の何かを振り払おうとして無茶苦茶に暴れた。それに一瞬白鷺が怯んで、夏衣の体が一瞬自由になる。立ち上がろうとして夏衣の体に今まで忘れ去っていた激痛が走って、一歩も進めずそこに夏衣は呻き声を上げながら倒れこんでしまった。目の前に葛西が居る。俯いてその瞳に夏衣は映っていなかったが、そこに確かに葛西は存在している。荒く呼吸を繰り返しながら、夏衣は懸命にそれに向かって手を伸ばした。おそらくはじめから白鳥はふたりとも連れ帰るようにとの命令を出し、斉藤はそれに従っただけだ。そこに何か別の意図が介入されていようがいまいが、結果的には同様の結末に集約している。葛西が助けてくれようとしたから、そこから自分を救ってくれようとしたから、だからせめて最後に葛西の未来だけは命だけは、自分が守らなければならないと思った。それなのにどうしてなのだろう、どうして葛西の方が酷い格好でそこに居るのだろう。目から涙が溢れて上手く呼吸が出来ずに、歯の間から涎と血液の混ざった液体が流れ出てくる。葛西は何も悪くない、許したのは全て自分だ、ならばこの罰は夏衣ひとりが受け止めるべきものだ。それなのに何故葛西が、何故葛西がこんな目に遭わなければならないのか、ならなかったのか。
「う・・・うぁ・・・あぁ・・・」
そこで一歩も動けずただ懸命に目の前のものに手を伸ばしている夏衣を、もう白鷺は押さえつけようとはしなかった。ただいつもの無表情でその蠢く背中を見ていた、まるで芋虫みたいだと思った。ちらりと後方の白鳥に目をやるが、スモークガラスが邪魔をしてそこに白鳥がいることは分かっても、その白鳥が一体どんな表情をしているのか分からない。だらりと垂れ下がった腕が、するべき仕事を見失って頼りなく揺れている。その時だった。後方で声がした。それは目の前で苦しむ人を呼ぶ声だった。
「夏衣」
「!」
びくりと夏衣の背中が一瞬痙攣して、ぴたりと夏衣は動くのを止めた。代わりに全神経で白鳥の声を捉えようと躍起になっている。
「お前がそんなにその男のことを大事にしているとは思わなかったよ。悪かったな、随分と手荒な真似をしてしまったようだ」
「・・・白鳥様・・・?」
「どうだ、お前そんなにその男が大事なら、ホラ手を取って逃げたらどうだ」
くつくつと白鳥はその肩を震わせながら、酷く名案を思いついたかのように、自棄に明るい声でとんでもないことを言い出した。それには斉藤も一瞬真顔に戻り、月花も驚いたように目を見開いた。けれどそれを聞いて一番驚愕していたのは勿論夏衣本人であった。動かぬ首を無理に動かして、振り返ったその先に白鳥の顔はない。ただ泥の煮えるような音で白鳥が笑っているその声だけが不気味に響いている。どう考えても可笑しいと思った。白鳥はそんなに優しいことを言う人間ではない、そんなに慈悲深い人間などではないのだ。だとしたらこれは一体何なのだろう、一体何の気紛れなのだろう。
「どうだろう、お前に選ぶ権利を与えてやろう」
「その男の手を取って逃げたら、勿論お前のことは殺さざるを得なくなるが、お前の勇気に免じて男の命は助けてやっても良い」
白鳥の声が自棄に静かなこの場所に響いている。それは穏やかな風が吹き抜ける、その時行われていた圧倒的暴力など似つかわしくない暖かな春の日だった。誰も何も言わなかった、誰も微動にしなかった。夏衣は流れる涙さえ止まり切った割には濁った視界で、俯いている葛西であったものの形を見ていた。
「月花、お前ならあれをどれくらい治せるんだ?」
「・・・えらい無茶言わはりますね・・・まぁ二足歩行程度なら保障出来ますけど」
「充分じゃないか、どうだ、聞こえているか、夏衣」
そんなことを突然言い出した白鳥の心中など、察することがまず不可能だろう。勿論答えなど決まっている、選択する前から夏衣にはそのひとつしか見えていなかった。今更こんな体に意味などないのだ。元より生きていたいと思うより、死んだ方が楽だろうと考える時間のほうが長かった。白鳥がどうしてその時そんな妙な気紛れを起こしたのか、夏衣には理解出来ないがようやく自分には運が回ってきたのだと思った。口の中は相変わらず鉄の味に満たされていて、鼻腔をつくその鮮血の匂いが、何度も夏衣の胃の中の物を引っ張り出そうとしている。葛西は夏衣のためなら死ぬことなんて怖くはないと言った、白鳥のことも怖くない、一番怖いのは貴方の側を離れることだと、葛西は言った。しかしそれはふたりとも五体満足で存命であることが前提の話だ。本当に命を落としてしまっては、何の意味もない。唇から無意味な言葉の羅列が漏れながら落ちていく、夏衣はそこに伏せったままもうもがかなくても良いことに、若干の安堵すら覚えていた。
「ホンマに夏衣さん消してええんですか、当主様。大事な跡取りやないですか」
「構わん。なぁ、夏衣」
「・・・―――」
「お前の代わりは幾らでも居るんだ。お前が死んだら今度は春樹を呼ぶだけだ」
春樹。
思考が一瞬にして停止する。
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