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第41話
まさか白鳥が夏衣相手にそこまでの仕打ちをしようとは、白鷺とて予想していなかったのだろう。それに白鷺の目が一瞬見開かれる。その白鷺がいつもよりも遅い決心とともに、何か言おうと口を開いた時だった。殆ど同時にその肩が後ろからぽんぽんと叩かれる。白鷺の注意がそれによって目の前の白鳥から離れる。その後ろで今まで黙って座っていた月花が、まるで目の前の暴行など見えていないかのような、いつも通りの自棄ににこやかな顔のまま音もなくすっと立ち上がった。白鳥の視線が白鷺から、今度は月花に移る。そしてその眉間に不機嫌そうに皺が寄せられた。月花はそれに気付かぬふりをして、白鳥に自棄に馴れ馴れしい動作で近寄って行った。
「何だ、月花」
「まぁまぁ、当主様。お気持ちは分かりますけど、その辺で勘弁したりましょう」
へらへらと笑いながら月花は白鳥に向かって、夏衣にやったようにひらひらと軽く手を振った。更にそれに機嫌を悪くしたように、白鳥が顔を歪める。
「私に意見する気か、上等だな」
「ちゃいますって。これ以上はもう夏衣さんの体が持ちませんよ」
「だから殺せと言っている」
「ご冗談を、大事な跡取りでしょうに。先ほどので肋骨の一本や二本は折れてるんちゃいますかね。それで内臓傷付けでもしたらえらいことです。早う病院連れて行きましょ」
一層険しくなった白鳥の桃色の瞳が、月花から畳の上に転がって依然咽続けている夏衣に移った。そこで夏衣が呻き声を漏らして体を折って、苦しそうに喘いでいるのにも関わらず、それでもその時の白鳥の表情は面白いほどに、冷たく固まったまま全くの変化がなかった。その目が意味していたものは、一体何だったのだろう。その目がその時映していたものは、もしかしたら夏衣ではなかったのかもしれない。月花が言ったように、夏衣はその時左脇腹辺りに異様とも思える違和感を抱いて、放っておくと口の中に溜まり続ける血液を畳の上に吐き出し続けていた。それによって更にずきずきとそこが抉られているように疼き、それに歯を食いしばっているうちに、その間から鮮血が外に出ようとして溢れている。短く喘ぎながら夏衣は思わず、濡れた畳に爪を立てた。そこに爪のひとつでも食い込ませて、必死でここに止まろうとしていた。そうでもしないとずるずると足から、何か別の生き物に持って行かれそうだった。それでもまだ見える景色で白鳥の双眸だけが、嫌に秀麗に夏衣に憎悪を訴えかけている。白鳥といえどもそれ以前に、男は夏衣の祖父に当たる。祖父は自分のことを好いているものだと思っていた。だから秋乃でも春樹でもなくて、自分なのだと夏衣は常日頃思っていた。その白鳥が幾ら夏衣の犯した罪が大罪だろうとも、こんなにもあっさりと自分のことを消去する選択を取るとは思っていなかった。これは完全に夏衣の甘さである。白鳥を半分以上舐めてかかっていた、自分こそは自分だけは、何処かで大丈夫だと思っていた。開けた口の端から零れた新しい血液と、動物染みた呻き声、それを見ながら白鳥は俄かに口角を持ち上げた。
「アレは何処にある」
「・・・アレですか」
今度は何故か月花のほうがふっと無表情になり、何処か遺憾とも思える声色でそう呟くのが聞こえた。アレとは何なのだろうか。夏衣は畳の上で寸分に動くことも叶わず、ただ目の前で行われている遣り取りの意味を追いかけることで精一杯だった。
「用意は万全に整っております。お呼びになりますか」
それに図ったように白鷺が手を付いたままの格好で白鳥に下から問いかける。
「呼んでやれ。夏衣の意識があるうちにな」
はっきりと白鳥は笑っていた。目の奥にはまだ完全に夏衣を蔑むものを含みながら、その口角だけが不自然とも思える要領で引き上げられる。それに今更悪寒を覚えた。それに短く白鷺が返事をして、おもむろに立ち上がって目の前の襖を開いた。そこにはただいつものように、中の喧騒とは随分引き離された雰囲気を持っている中庭が広がっているだけだった。外を流れる穏やかな空気が、入り口を見つけて徐々に屋敷の中に忍び込んでくる。白鷺はポケットから携帯電話を取り出すと、小声で内容までは聞き取ることが出来なかったが、それで誰かと連絡を取っているようだった。ややあって白鷺は電話を切ると、開け放した襖をそのままにこちらに戻ってくると壁に備え付けられたパネルを操作して、天井からスモークガラスを下ろした。自動でそれは下りて来ると、畳から1メートルほどの隙間を開けて止まった。誰かがここに来るのだとそれで流石に分かったけれど、三人が言っているらしい誰かのことを夏衣は思い描くことは出来なかった。畳に転がったままの夏衣には、まだ開け放たれた襖の向こうに広がる中庭が、ガラス越しではなく直接見ることが出来た。
「すぐに来られるそうです」
「そうか」
短く白鳥がそれに返事をして、夏衣の額を脂汗が滑って落ちて行った。
いつの間にか白鷺が持って来た椅子に、白鳥は優雅に腰掛けている。相変わらず血を吐き出し続ける夏衣のことは見えているのだろうが、それは白鳥にとっては最早ただの観賞物にしかなっていなかった。白鷺がガラスを潜って廊下に向かった。誰かの足音が夏衣の耳にも届いていた。そうして四人の前に姿を現したのは、きっちりとしたスーツを身に纏った斉藤だった。斉藤は白鳥の世話係だったがおそらくは謁見出来るような家柄でもないのだろう、だからガラスが降ろされたのだ。しかし何故、何故今斉藤が呼ばれているのか、夏衣には全く分からなかった。その斉藤はそこでガラスの向こうと白鷺に向かって一礼すると、血塗れになっている夏衣に視線をやってひとつも驚くことなくただにこりと微笑んだ。
「準備は出来ているか」
「えぇ、勿論です、白鷺さん。どうぞ皆さん、こちらに運んで来て下さい」
白鷺のそれに満面の笑みで答えると、斉藤は大袈裟とも思えるアクションで左方向に向かって手を振った。まだ誰か来るらしい。ガラガラという何か台車でも押す音がして、その時夏衣の目に飛び込んできたのは、まさにその四輪の台車に乗せられたひとりの男だった。
「・・・う―――・・・うわっぁぁっぁああっつ!」
気が付けば叫んでいた。最早体の痛みなど忘れていた。いつの間にか軽くなった肢体が、今までの束縛を忘れたかのように自棄に自由に動いた。動かぬはずのそれで畳を蹴って、夏衣は走り出そうとした。それを上から突然押さえつけられる。がつんと顎から畳に打ち付けられて、ぱっとあたりに鮮血が飛び散った。突然の衝撃に目の前がちかちかする。ぎりぎりと締め付けられた左手と頭蓋骨が痛い。それでも動く右手だけでも、夏衣は伸ばした。必死で伸ばした。届かないと分かっていても、伸ばさずにはいられなかった。唇から無意味な音が零れ続ける。目から透明の液体がぼろぼろと流れ出し始めた。そこに居たのは葛西だった。そうは言っても、最早それには葛西の片鱗など何処にも残っていなかった。ただ夏衣には葛西だと思えた。直感的に理解出来た。その隣で斉藤が夏衣の手が空を切るのを、にこにこと楽しそうに見ている。葛西は別れたままの服装で四輪の台車に乗せられて、そこに居た。確かに居たが、それは最早葛西とは呼べないただの塊だった。髪の毛は半分以上根元から引き千切られて、頭皮が真っ赤に濡れて光っている。至る所におそらく金属性の何かで殴られたような痕が広がり、顔の左半分は皮膚が爛れて最早原形を留めていなかった。妙な方向に折れた腕が強引に後ろに回され、服の上から鎖で締め上げられている。見れば左足も台車からはみ出して、関節とは別の方向に折れていた。だらしなく開いた口の中に殆ど歯の形は見つけられなく、そこから垂れた舌が酷く鋭利な断面をしている。鼻は削ぎ落とされ、右の耳も良く見れば無くなっていた。何故なのか分からない。葛西が何故ここに、しかもこんな形で居るのか分からない。けれどそれは現実だった。どう考えてもこれは現実に違いなかった。夏衣は鮮血を撒き散らしながら手を伸ばした。夏衣の声が聞こえる距離に充分居るはずの葛西は、何故か俯いたまま微動にしなかった。
「離せ、離せぇえ!葛西、葛西ィ!」
暴れる夏衣を上から押さえつけて、白鷺は全くの無表情だった。
「ご無礼を、お許しください。夏衣様」
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