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第40話

「おかえりィ」 橋の向こうの完全に白鳥当主の敷地内にある一室に、夏衣は案内されていた。暫くそこで待つようにと白鳥の第三側近に素っ気無く言われて、夏衣は側近の姿が完全にそこから消えるまで待って、それから襖に手をかけた。おそらく誰も居ないだろうと踏んでいたその藺草の匂いがする部屋には、既に先客が端に鎮座していた。驚いて夏衣が呆然とそこに立っていると、男はちらりと夏衣に目をやって人の良さそうな顔でにこりと微笑んで手を振った。何故男がここにいるのか、夏衣は理解出来ないまま襖を閉めて部屋の中央に正座をした。 「もうすぐ来はるわ、もうちょっとそこで待っとき」 ひらひらとした余りにも軽い動作で、男は夏衣に微笑みかけた。そういえば男の顔を見るのは久しぶりだった。夏衣から見ればもうかなり高齢の男は、その割には何処かそれ以上の愛嬌のある男で、昔からその男のことを夏衣は嫌いではなかった。 「・・・月花(ツキハナ)さん、どうしてここに」 「まぁ、自分もよう分かってるとは思うんやけど、俺が呼ばれたっちゅうことはそういうことやで」 不意に月花はその顔を翳らせて、表情は些か険しいものへと変貌する。夏衣はそれに緩んでいた空気がぴんと引っ張られるのを感じた。月花は白鳥の分家に当たる白鳥月家の当主に当たる人物だった。月家は代々医者家系で月花もまたかなり腕の立つ名医だと聞く。白鳥が月花に全幅の信頼を置いて、自らの健康面を任せているのは、最早月花が分家の人間であるということとは関係のないことのように、それは時々思えるほどだった。夏衣も何処か体調が優れないとなると、月花に診察を受ける。他の医者にも他の月家の人間にすら、その権限は与えられていない。それが月家当主の大きな役割でもあった。その月花のことだから、白鳥当主の直接の完全なる管轄に当たるここに入るのにも、夏衣と同レベル程度の自由を与えられている。しかしどうしてその月花がこんな朝からここに座っているのか、本人が明言したように誰かを回診に来たというわけでは勿論ない。それはこれから起こることを夏衣に予感させる、恐ろしい存在感だった。男は確かに昔から夏衣には優しかったが、それは夏衣が白鳥嫡男であるという前提を、どうしても感じさせる上での好意だった。勿論男は簡単には翻らない。 「今更やけど覚悟しときぃ」 「・・・はい、分かっています」 これが現実、口の中に溜まった苦いものを飲み下して、夏衣はその時そう言うことで精一杯だった。葛西の手前、流石に命までは奪われないと言い切ったけれど、ここに月花が居るということは、どういうことなのか夏衣にも分からないわけではない。死ぬことなんてひとつも怖くないと言った葛西の顔が、不意に浮かんで消えていった。自分は同じことが同じように言えるのだろうか、だとすればおそらくこんなに指先は震顫していないだろうと、震えるそれをぎゅっと握りこんで、夏衣はひとつ深く息を吐いた。 「来はるわ」 小さく月花が呟いて、夏衣は震える指を畳に揃えて頭を下げた。視界がぼんやりと薄暗く染まる。その向こうで月花が一体どうしていたか分からない。おそらく夏衣と同様に頭を下げて白鳥を待っていたのだろう、足音は近づいて来て丁度月花が座っている右の襖の手前で止まった。それがゆっくりと開かれる。まずそこから顔を出したのは白鷺だった。相変わらず表情のない男である。ちらりと月花を一瞥すると、それにゆっくりと頭を下げた。既に頭を上げていた月花はそれににこやかに笑って手を上げる。字継ぎと分家では分家のほうが、些か位が高い位置に属している。そうして白鷺は襖の隣に座って、頭を下げた。夏衣はそこでようやく顔を上げる。白鳥が部屋に入ってきたのと、それは殆ど同じだった。男は相変わらずの気だるげな雰囲気を纏っていたが、その時夏衣に向けられた目はゾッとするほど冷たかった。白鳥が一体自分のことを何だと思っているのか、夏衣は恐ろしくて白鳥に尋ねたことはない。けれどその時の白鳥の目付きは、轢き殺された野良猫の死体を見る目つきよりも、更に酷いものだった。誰も暫く何も言わなかった。月花でさえその頬を引き攣らせて、白鳥が動くまで待っていた。空気が徐々に重く肩に圧し掛かってくる、その重圧に耐え切れなくなりそうで下唇を噛む。白鳥が一歩前に出た。白鳥は老齢からくる体の衰えのせいか、最近歩く時は杖を突いていることが多い。足を動かすのと同時に、その杖が夏衣の前に迫ってくる。白鷺が少し態勢をずらして、開けっ放しだった襖を閉めた。白鳥がもう一歩前に出た。夏衣はそれにすぐさま後退したい気持ちに駆られたが、それ以上に恐ろしくて指一本も動かせずに微弱に震えていた。白鳥が夏衣を特別視しているのは、流石に夏衣自身も分かっていた。それが一体どんな種類の感情から来るものなのか、夏衣には良く分からないが、白鳥は夏衣の目の色を褒めてその頬を優しく撫でる。夏衣はその時、そういう白鳥のことを何処かで信じ切っていた。お叱りを受けるのは当然と思いながらも、その一方でまさかその白鳥が、自分にそこまで酷い仕打ちをすることはないと思っていた。それは傲慢にも夏衣の中に生じていた甘さだった。 「夏衣」 白鳥がそう自分の名前を発音したことを、夏衣は知ることはなかった。その一瞬白鳥の手が振り上げられて、右手に握られたその上質な素材で作られた杖で、白鳥は夏衣の頬を思い切り殴った。月花がそれに眉を潜めて目を反らす。畳に転がった夏衣は一瞬何が起こっているのか、全く分からなかった。ただその瞬間、夏衣の目に映る景色は様変わりしていた。口の中が唾液で一杯になって、飲み込めずに思わず口を開いた。するとだらりとその唇を伝って、中の液体が畳の上に流れ出る。唾液と思ったそれは血で、瞬く内に夏衣の視界は血液の赤で埋め尽くされた。思わず口を閉じようとして何かが引っかかった。 「かはっ・・・―――」 ぼろりと口から飛び出したのは、生暖かい血を貼り付けたふたつの歯、血の水溜りに落ちたそれは全く白く光る要素を欠いて、ただ赤黒く生々しい形を留めていた。その血液の匂いが鼻腔を突いて、思わず口を押える。喉までせり上がった胃液を無理矢理飲み込んで、夏衣はもう一度畳に転がった無防備な姿勢のまま酷く咽た。それを白鳥は立ったままじっと、表情の読めないその美しい桃色を細めて眺めていた。 「良く帰って来られたな。この阿婆擦れが」 「はぁ・・・ぁ・・・お父、さま・・・」 「煩い、立て」 言われるまま両手に力を入れて、ぐぐっと上体を起こす。ふらふらになりながら夏衣が時間をかけて立ち上がると、白鳥は容赦なくもう一度その杖を振り上げると、今度は夏衣の腹目掛けてそれを振り下ろした。 「がっ、―――!」 横腹にそれが直接当たり、ろくにガードも出来ない夏衣はまるで人形みたいに襖に背中を打ち付けて、そのまま畳の上にごろりと投げ出された。白鷺が杖を振り下ろした白鳥の後ろから、夏衣の血がこびりつくそれを掴んで無言のまま抑える。まだ怒りがおさまらないのだろう、白鳥は白鷺の制止を振り切ろうと上体を捻った。 「離せ、鷺」 「いけません、白鳥様。それ以上はお体に触ります」 事あろうがその時白鷺が心配していたのは、血反吐を吐いて転がっている夏衣ではなく、高齢になるに従って体力が落ちつつある白鳥の体調だった。白鳥はそれに盛大に舌打ちをすると、取り敢えずはそれを降ろして伏せったまま短く喘ぎ続けている夏衣に一瞥をやった。 「ならばお前が殴れ、鷺」 「・・・しかし・・・」 流石にそれには戸惑ったように、白鷺は一瞬言葉を見失った。その瞬間を白鳥がまさか逃すはずがない。結局もう一度それは振り上げられて、今度はそれで白鷺の頬を殴っていた。しかし白鷺は夏衣のように呆気なく畳みに伏せるわけではなく、ただ暴力以前の姿のままそこに正座し続けていた。一瞬のことでその赤色に染まった唇の端からだらりと血が流れたのを、無言で右手の甲を使って拭き取る。白鳥の肩は急激な運動による疲れなのか、大きく上下を繰り返していた。そうして激昂している割には落ち着いた低い声で、白鳥は遂に口にした。 「構わん、殺せ」

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