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第39話

「嫌だ!俺も一緒に、一緒に連れて帰って下さい!夏衣様!」 夏衣の背中は余りにも強固に、ただ前を向いていた。今までも夏衣のそういう勇壮さを目の当たりにすることはあったけれど、今度のこれはそれとは一線を画していると思わざるを得なかった。呼んでも呼んでも夏衣はまるで葛西の声など聞こえていないかのように、ひとつも反応しなかった。揺ぎ無さ過ぎて最早無意味にしか思えなかったけれど、葛西は震える手で涙を拭って夏衣に何度も同じことを叫んだ。夏衣のための人生だと夏衣に出会ってから自然に考えるようになった。それはおそらく葛西が幼少から両親に教えられていた刷り込みの結果なのだろうけれど、葛西は一度もそれを疑うことはなかった。夏衣のために自己犠牲を払うことが、何故か全く怖いと思わなかった。震える右手の傷が、その証拠である。夏衣は馬鹿だと言ったけれど、葛西は嬉しかった。自分は立派な世話係だと思えた、思うことが出来た。夏衣のためになら出来ないことはなかった。葛西のそういう信念が、結局は葛西に白鳥を裏切らせることになった。葛西にこんな恐ろしい強行を選択させることになった。葛西の中で比重が夏衣に大きく傾き、遂にその天秤は壊れてしまっていた。それを他の誰が、どう修正出来たというのだろう。葛西ですら成す術がなかったというのに。葛西が恐れていたのは、最早白鳥などではなかった。白鳥などどうでも良いと葛西に思わせるほど、その時葛西の中で夏衣は大きな存在だった。本当に恐れていたことは、夏衣の側を離れることだ。そんなことになるくらいなら、死んだ方がマシだと何度か夏衣に伝えたことがあるが、その度に夏衣は困ったように眉尻を下げて、そして労わるように少しだけ口角を上げるのだった。その時夏衣が一体何を思っていたかなど、葛西は知る術がない。けれど夏衣はその表情の下で、一体何を考えていたのだろうか。 「嫌だ!俺だけ置いていかないで下さい!」 「・・・葛西」 低い声だった。葛西はぱっと顔を上げた。夏衣がその時呼んだのが、自分の名前で間違いないことを何故か信じられなかった。 「そのパスポートは露見したら大変なことになるから、使わないほうが良いよ。一ヶ月もしたら葛西の名前を白鳥の役員名簿から消すことが出来るから、暫くは何処かで身を潜めていて」 「夏衣様・・・?」 「それからちゃんと手続きをしてパスポートを取るんだ。白鳥に切られた以上、ここで生きていくのは大変だから、海外のほうが安全だよ。好きなところに逃げれば良い。分かったね」 「・・・―――」 分からない、そんなことを言われてもひとつも理解することなんて出来ない。葛西は首を振った。涙がぼろぼろと落ちていく。白鳥に切られたら、もう自分は夏衣の側では生きられない。そんなことの人生に、夏衣以外のために使う時間のことに、一体何の意味があるというのだろう。夏衣はそれを、一体何だと思っているのだろう。確かに自分は代えの利く世話係だ。筆頭だからといって特別な高官職であるわけではない。だからなのか、だからなのか、だとしたらそのなんという惨い仕打ちなのだろうか。奥歯を噛んだぎりぎりという嫌な音が、頭蓋骨まで響いている。そんなことをどうして自分が認めると夏衣は思っているのだろう。 「嫌です!嫌です!絶対、嫌だ!俺も一緒に帰ります!夏衣様と一緒に、帰ります!」 「言うことを聞くんだ」 「嫌だ!夏衣様!」 するとその時葛西の掴んでいた肩が、俄かに動いて夏衣がこちらを向いた。ゾッとするような無表情の中に、夏衣はもういないのだと悟ることが出来なかった。夏衣は確かに自分の髪を優しく梳いてくれた、頬を撫でてくれた。その唇が本当は何の味もしないことだって、葛西は良く知っている、知っているはずなのに、その時の夏衣は完全に白鳥の所有に戻っていた。勿論元々夏衣はそうだったし、自分のものであるという認識は余りにも葛西の傲慢であるが、それを抜きにしても明らかに葛西のものではもうなくなっていた。葛西の手の届く範囲にもう夏衣は居なかった。それを葛西に簡単に理解させるその桃色の瞳には、もう光は宿っていない。落ち着き払った夏衣の妙な雰囲気に、ただ圧倒されそうになる。嫌だと言った声が震えて擦れた。そんな弱弱しい音では夏衣のところには到底届かない、届くわけがなかった。涙が溢れて、その夏衣すら滲んで見える。どうすれば分かって貰えるのか、もう葛西には分からなかった。その弱い音でも繋げ続ければ夏衣は分かってくれるのだろうか。 「葛西、俺は腐っても白鳥だから当然お叱りはあるだろうけど、それだけだ。でも葛西、お前は帰ったら確実に命はないよ」 「分かったら俺の言う通りにするんだ、良い子だから」 冷たい夏衣の指先が葛西の頬に触れて、そこに張り付く水滴を拭った。葛西は首を振った、懸命に首を振った。 「それでも良いです」 「・・・葛西」 「貴方と離れるなら死んだことと同じです。どちらでも一緒なんです」 何度も伝えたはずのそれを、やはり夏衣は理解していなかった。葛西は最後だと思った、これで自分が受け入れられないのなら、最早本当に成す術を失ってしまう。自分の全てをかけても夏衣がそれに頷いてくれなかったら、本当にそれは死んだことと同義だった。それ以上のことを葛西は言えないし、おそらく他の人間も言えない。それは葛西の全てだった、間違いなく。 「言ったでしょう、俺、貴方のためだったら死ぬことなんてひとつも怖くありません」 「貴方が帰ると言うなら、俺も一緒に帰ります」 それに何故か夏衣は眉尻を下げて、酷く寂しそうな顔をした。どうしてそんな顔をされなければならないのか、葛西には分からなかった。けれど夏衣がそれに確実に感化されているのは分かった。葛西にとってはそれだけで最早十分だった。救いたいと思った、夏衣がそのどうしようもない苦痛の中で喘いでいることを知ってしまったから、それを自分はただ救いたいと思っただけだ。それの一体何処がいけなかったのか。葛西には知る術がなく、誰もそれを教えてはくれない。ややあって夏衣がその唇を開いた。小さな音だった。 「葛西が俺のことを連れ出してくれて、本当に嬉しかった。有難う」 一瞬で葛西は理解した。夏衣は自分をここに置いていくつもりなのだと、自分の全てをかけてもまだ、夏衣の決断は揺るがないのだと。流石に焦燥したが、最早葛西に打つ手はない。 「そんなこと言わないで下さい!これで終わりになんてしないで下さい!」 冷たい夏衣の指先が、今度ははっきりと葛西の頬を滑ってその水滴を拭い去った。夏衣の表情からはもう既に寂寞は消えていた。その感情は当に通り越してしまっていた、それはどちらでもなくお互いに。嫌だと言った声が喉に張り付いて、外に全く出てこなくて葛西は焦った。焦燥すればするほど、声は何ひとつ音にならなくて、音にならないそれは夏衣に全く届かなかった。ただ気持ちばかりが急いて、一体自分がこの期に及んで夏衣に何を伝えようとしているのか、葛西自身も混濁した意識の中から上手くそれを掬い上げることが出来なかった。呆然とただそこに立っていることしか最早許されなくなった葛西を、夏衣は自棄にその桃色の瞳に慈愛を滲ませて眺めていた。そうしてそっと葛西の肩に手をかけると少し背伸びをして、そのまま葛西の唇に自身のそれで触れた。一瞬のことに涙も思考も葛西の中の全ての動作が、本人の意志とは無関係に停止する。熱はそれを感知する間も殆どないほどすぐに離れて、互いの所有に戻っていった。夏衣はそこで微笑んでいた、思えば微笑んでいられるような状況下では勿論なかったから、おそらくはそれは夏衣の強がりだったのだろうけれど、その時夏衣はそんなことを葛西に感じさせないほど、余りにも穏やかに微笑んでいた。まるで嘘みたいだった、本当に嘘みたいだった。明日もこのまま笑って出会えるのではないかと錯覚してしまうほどに、夏衣のそれは不自然の中で自棄に自然に見えた。葛西は震える指先で夏衣に手を伸ばした。これで終わりなんて、これで終わりにされるなんて、あんまりだと何度も言ったけれどそれが夏衣に届かなかったことで、葛西はそれを現実として受け止めざるを得なくなってしまった。夏衣の桜色の唇が割れる、聞きたくないと思ったけれど葛西は耳を塞ぐことすら出来ない。 「さよなら」 いつものように現実感のない様相で、夏衣はにこりと微笑んだ。

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