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第38話
朝方の空港は静かだった。それにしても余りにも静か過ぎると、夏衣は葛西の走らせる車の後部座席の窓から、その景色を眺めていた。まだ空港はそこ自体が機能していないかのように、異様とも思えるほどの静寂で包まれている。葛西もそれに先刻から首を捻っている。
「・・・可笑しいですね、確かにまだ時間は早いですけど・・・」
頭の中を一瞬過ぎった嫌な想像、それを断ち切るように夏衣は首を振った。葛西の車は辺りに全く人間の気配がない銀色に光る建物の間を、ゆっくりと過ぎて行っている。取り敢えず中央ゲートまで行ってみようと、車を駐車場に止めると、そこからは偽造のパスポートを握り締めてふたり並んで歩き出した。暫く行くと丁度中央ゲートの前に、黒い車が止まっているのが見えた。
「あ、夏衣様、車があります。ひとが・・・―――」
何故か妙な歓喜と安堵を含んだ葛西の声が、不自然にそこで途切れる。葛西の言ったように、そこに確かに車は止まっていた。しかし葛西はそれ以上言葉を繋げることは出来なかった、出来るはずなどなかった。夏衣もそれを葛西の隣で、それを視界に入れていた。その見覚えのある黒い車、それは今自分たちがまさに乗っていたそれと同じ種類の車、夥しい数のその黒の高級外車が、一度はそれが希望に繋がっていると信じていたふたりの行く道を、文字通り塞ぐように止まっていた。そうしてその中央に、誰かひとり小柄な男が腕組みをして手持ち無沙汰に立っている。それを現実として捉えた時、捉えざるを得なかった時、葛西の頬が今までにないほど引き攣ったのが分かった。夏衣は何も言えなかった。余りにも驚愕として、最早音など忘れていた。男が腕組みを解いてそしてこちらを見据えたまま、にこりと微笑んだ。ゾッとした。指先の神経から脳まで一気に悪寒が通り過ぎて、夏衣はがちがちと自らの歯が今まで聞いたことのない音を立てて震えていることに気が付いた。
「こんな時間に何処へお出かけですか、夏衣様」
「・・・斉藤・・・」
「残念ですけど、今日の便は全便白鳥で押えさせて頂きました。欠航のようですよ」
あぁ、と唇から声が漏れて、夏衣は気を抜くとアスファルトに倒れ込んでしまうのではないのかと一瞬思った。目の前がぐらぐら揺れていて、気持ち悪いほどの方向感覚のバランスが失われている。斉藤はそこで笑っていた、いつものように。葛西が後ろからその夏衣の肩を抱く、震えた手の震撼が直接夏衣に伝わってきて、それはより一層夏衣を不安にさせた。黒い車の扉が続々と開かれ、そこからサングラスをかけたスーツの男達が出てくる。それは斉藤を中心に、夏衣と葛西の目の前で徐々に増殖していった。何てことはない、これはただの敗北だ。葛西はそこまで行けたら俺たちの勝ちだと言った、だとすればこれは敗北だ、それ以上の何物でもない。何物にもなりはしない。夏衣は揺れる頭を右手で押えて、ぐっと足に力を入れて顔を上げると、自棄に楽しそうにしている斉藤の顔を正面から見据えた。何てことはない、何にも怯える必要はない。全てが元に戻るだけのことだ、だから大丈夫なのだと自身に言い聞かせてそこに立っていた。そもそも元々が、白鳥嫡男の夏衣がただの一介の世話係である葛西と関係を持つこと自体が不自然だったのだ、不自然は自然に戻さなければならない。自分は白鳥の所有に戻らなければならない。だから大丈夫だ、今以上に酷いことなど今後起こりはしないのだから、これ以上辛苦することが自分を迎えに来ることはないのだから、だとしたらそれは安堵とイコールということなのだ。自分の肩を掴んでいる、葛西の手が震えている。その表情までを見る勇気は無かったから、夏衣はそれにそっと自らの手を沿わせた。大丈夫だと、何も怯えることはないのだと、そうして葛西にも早く悟って欲しかった。
「お迎えに上がりましたよ、夏衣様」
「一緒に本家に戻って頂けますね」
疑問系だったがそれは肯定を完全に促しているものだった。葛西の手が夏衣の肩を強い力で掴んでいる。夏衣はそれに一瞬目を伏せた。しかし次に夏衣が決心とともに上げたその瞳には、もう何の感情も宿っていなかった。まるで空ろなその桃色がそれでも美しく光っている。
「分かった」
余りにも強過ぎる意志を伴って、その言葉はそこに居る全員の耳に届いていた。それを捉えた斉藤が、より一層その意味深な笑みを深くする。夏衣はまるでそれに見えない力で引っ張られているかのように、斉藤とその向こうに広がる黒の集団に向かって一歩足を踏み出した。
「夏衣様!」
夏衣の肩を依然強い力で掴んでいた葛西が、殆ど悲鳴のように夏衣を呼んだ。夏衣はそれを振り返ることなく、背筋の伸びた背中で聞いていた。葛西は無言で首を振った。いつの間にか流れ出した涙で、頬がべたべたに濡れている。夏衣が幾らこちらを見ていなくても、言葉にしなくても、分かってくれると思っていた。だから何度も首を振った、その肩をまさか放すことなど出来なかった。
「斉藤くん」
しかしその時夏衣が呼んだのは、葛西の名前ではなかった。
「何でしょうか、夏衣様」
「お父様は俺を連れて帰れって言ったんでしょう」
「えぇ、勿論です」
「なら俺はこのまま大人しく本家に帰るから、葛西のことは見逃してくれないかな」
さぁっと血の降りる音がして、目の前が一瞬真っ白に染まる。幻に見えてくる。掴んでいるものが何か分からなくなる。何か言わないと、と思って開いた口から、最早何も出てこないことは葛西自身が良く分かっていた。夏衣は一度も振り返らなかった。その榛色の髪の毛が、この状況に全くそぐわない穏やかで温かな風に吹かれて、まるで偽者みたいに美しく舞っている。それが目の奥に焼き付いて、まるで取れそうにない。叫んだ、声にならなかったかもしれないけれど、葛西は全身全霊を込めて何も語ってくれない夏衣の閉じた背中に叫んだ。そういえばいつも夏衣はそうだったのかもしれない、罪も罰も全部自分で被るつもりでだから葛西のことを許していてくれたのかもしれない。軽率だと自分を責めながらも、優しく髪を梳いてくれていたのかもしれない。けれどそれがその時、葛西にとっては夏衣の優しさなのだとはとても理解出来なかった。それよりもむしろ夏衣がそう言うことで、突き放された感覚さえした。葛西は何も関係はないのだと、暗に言われている気がしてそれが何より許し難いことであった。自分のせいにしてくれれば良いのにと思った、全て葛西の至らぬ感情が夏衣を今の状況に追い込んでいる。夏衣はもう自分の側を離れろと言った、車を戻せと言った、それを拒絶したのは葛西自身だというのに夏衣はそれさえ自分で被ろうとしている。それが孤高の強さだとは思えなかった、最早それはただの傲慢だった。葛西は震える手に力を込めて、必死で夏衣の体を自身のほうに手繰った。これを離したら終わりだ、今度こそ終わりだ。しかし夏衣は強固に前を向いたまま、何故かそんな時だけ余りにも整然と葛西を拒否していた。
「夏衣様!夏衣様!嫌だ、嫌です!」
斉藤はそれを見ながらにこりと微笑んだ。
「えぇ、宜しいですよ。夏衣様の仰るとおりに致しましょう」
「嫌だ!何で、そんな、勝手だ!夏衣様!」
「有難う」
「嘘だ!」
本当に嘘だったら良かった。その尖った小さい肩を夏衣はもう震わせていなかった。これが白鳥の人間だと思わされた。夏衣は動じることなど躊躇うことなど、その時微塵も見せなかった。まるでそれを予期していたかのように、余りにも怖いほど落ち着き払っていた。これが夏衣の中の諦めの形なのだと、何度も唱えて理解していたはずのそれを改めて知らしめられている気がした。しかし葛西はそれに簡単に屈することなど出来なかった。喉の奥が痛くて、ひりひりしてもう声が出ないかもしれない。けれど葛西は叫び続けた。肩を掴んでいるはずのその人が遠くて遠くて、余りにも遠過ぎてそれは葛西に叫ばないと届かないような気にさせ、また叫んでも夏衣にそれが届いているとは到底思えなかった。
それでも葛西は夏衣の背中に向かって叫んだ。
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