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第37話
辺りはまだ薄暗かった。まだこの時間では空港が開いていないだろうということで、空港近くのパーキングエリアに葛西は慣れた手つきで高級外車を止めた。葛西が運転席ではぁと大きく息を吐く、その肩が不安定にそれにつられて揺れたのが分かった。
「ちょっと俺、外見てきます」
「葛西・・・」
「あ、お腹空きましたよね。何か適当に買って来ますよ」
そう自棄に明るく言って、葛西はシートベルトを外すと扉に手をかけた。その左腕を後ろから掴んで、夏衣は制止を促した。葛西は一瞬びくりとしたが、大人しく扉に手をかけたまま止まっている。掴んだ腕が震えているのが夏衣にも分かった、葛西がそれを悟られないようにしようとしているのも分かっていた。けれど手を伸ばさずにはいられなかった。その時の葛西は自棄に強い言葉を放って、それで自身を安定させようとしているみたいだった。見ていられないほどのその焦燥が一体何処から沸いて出てくるのか、夏衣にはそれが少し分かる気がした。夏衣も確かにその白鳥という巨大組織に恐怖していたが、葛西だってそれは同じか、もしかしたら夏衣より強固に幼少の頃からその体に教え込まれているのかもしれない。そう思うと不憫でならなかった。
「葛西、こっち向いて」
「・・・夏衣様・・・」
おずおずと葛西が夏衣の目を正面から捉える。その目の下には分かりやすく隈が広がっていた。また昨夜も眠っていないのだろう、葛西はすぐに体調の悪さが表面に浮いて出るから分かり易いのだった。夏衣はそれを見ながらひとつ溜め息を吐いた。
「そんなの後で良いから、少し眠ったら。後ろおいでよ」
「・・・いえ、そんな・・・」
「全然眠っていないんでしょう、葛西」
「・・・でも・・・それは・・・」
葛西の目がどうしたら良いのか分からずに揺れ動いている。夏衣はそれを見ながらふっと頬を綻ばせた。葛西の眉尻がまたそれに合わせて下がる。
「・・・はい」
そこでやっと夏衣は葛西の左腕を握っていた手の力を弱めた。葛西はそのまま運転席を出ると、迷いながらも後部座席の扉を開けた。夏衣は後部座席の一番端に座って、葛西のことを奥から眺めている。妙な気分だった。高揚していながら何処か一部分は完全に冷め切っている、妙な気分と同化していた。恐る恐る中に入ると見慣れない洋服に身を包んでいる夏衣が無言のまま、膝をぽんぽんと叩いた。
「・・・何ですか・・・」
「膝枕してあげるって言ってるの。頭ここに乗せたら?」
いつものように夏衣が何か企んでいる表情で、もう一度膝の上を叩いた。
「えぇ・・・そんな・・・そんな、とんでもないです!」
「今更何なの。時間になったら起こしてあげるからさ」
「・・・夏衣様・・・」
目を伏せる夏衣のその目尻から零れる余りにも少年には似つかわしくないその妖艶な雰囲気が、薄闇により一層引き立っている。それは葛西の欲情を煽るだけでなく、時々葛西を悲しくもさせた白鳥の残した爪痕だった。もうそれにも後ろに広がる白鳥にも、何も怯える必要はないのだ。その白鳥でさえ、届かない場所に行ける、行ってみせる。葛西は手を伸ばして、その頬にかかる夏衣の榛色の髪の毛をそっと避けた。夏衣はそれには何も言わず、ただ黙って二度ほど目を瞬かせた。キスがしたいと思った。その唇が何の味もしないことを良く知っているのに、どうしてこんなに欲しくなるのか葛西も良く分からない。ただ触れたいと思うこの気持ち以上に確かなものはそこになくて、それに参ってしまっている。今はそんなことをしている場合ではないのに、ないはずなのに、夏衣の色香が葛西の中にどんどん進入して来て内側から葛西の欲動を突き動かしている。
「・・・好きです、夏衣様」
「うん・・・」
そっとその桜色に色付いている美しい湾曲を描いた唇に触れる。夏衣がその睫毛の長い目蓋を落として、目の色は見えなくなる。夏衣とここでこんなことをしていると、今まであったこの延長に自分たちは存在しているだけなのかもしれないと思う。それは恐ろしい考えだった。葛西はそれを振り払うように、夏衣の唇を割って更に深く口付けた。ずっと遠いと思っていた。きっとこの人は自分の所有にはおさまらないと思っていた。勿論今だって同じくらい遠いと思っている、夏衣が最早自分のものであるなんてそんな傲慢なことを言えるような立場ではない。だけど確信的にあの頃の自分と今の自分は違うのだと思える。それだけで充分だった。夏衣はおろか自分ですら殆ど諦めていた、夏衣をそこから救いたいと思ったけれど思っただけで、何も出来ないというその現実に。だからそれがそれこそが詰まらぬ虚構だと存分に知らしめてやる、それは誰でもなく一度はそれを放棄した自分自身に。身を捩る夏衣の肩を掴む、細いそれが葛西の手のひらの下で揺れる。
「・・・っ、はぁ・・・ぁ・・・」
その唇から零れる熱い吐息にじんじんと指先が痺れるようだった。夏衣の頬を撫でていた手を、すっとその首筋に沿わせる。真っ白いそこが夏衣が呼吸を繰り返すたびに、微弱に上下しているのが分かった。
「夏衣様・・・」
「駄目だよ、葛西。お前疲れてるんだろう、これ以上は駄目」
濡れた夏衣の目が呆れたように、しかし確かに自分を捕らえている。その頬にもう一度唇を落として、葛西はそれに素直に頷いた。失礼しますと口の中で小さく呟きながら、夏衣の揃えられた太ももの上に頭を乗せ、狭い後部座席の中で足を丸める。眠気がまるで感じられないこと以上に、全く眠れそうな気がしなかった。ちらりと夏衣の様子を伺うと、夏衣は自棄に自愛の篭った目で葛西のことを見ていた。夏衣の手が伸びてきて、葛西の髪をゆっくりと梳いた。その穏やかで連続的な動作に、いつの間にかうとうとしはじめてきた。
「なついさま・・・」
「なに」
「手を、手を繋いでも良いですか・・・」
「手?良いけど、どうして」
良いながら夏衣の左手に自分の右手を重ねる。指の間に指を滑り込ませると、更に夏衣に触れていられる面積が広がってその分安堵出来た。葛西はそのままそこで目を閉じた。
「・・・起きた時・・・もし貴方が居なくなっていたら・・・凄く怖いから・・・」
「・・・―――」
ぎゅっと握った手の温度だけを頼りに、葛西は夢の中に落ちていった。大丈夫だと幾ら呟いても、一向に体が騙されてくれないのは何故なのだろう。夏衣はそれに目の奥が熱くなって、けれど泣くことは叶わなくて、葛西の髪を懸命に梳くことで気分を少しでも紛らわせることに努めた。そこでその人が一体何を思って居るかなんて、そんなことは他人が分かることではないのだ。きっと分かってはいけないのだ、そんなことは。近くで見た葛西の目は、いつの間にか綺麗な薄茶色を取り戻していた。透き通ったその目が映していたのは、自分の顔だった。夏衣はすんと鼻を啜って、窓からまだ薄暗い外の景色を見やった。いつの間にか季節は巡って、葛西と出会った春が訪れている。あの時はおそらく双方ともこんなことになるとは思っていなかっただろう。おおよそ今の事態は、誰にも予期出来なかったことに違いない。白鳥は一体どう思うのだろうかと、夏衣はパーキングエリアの端に伸びる桜の木を見ながら考えた。許されることだとは勿論思っていなかったけれど、白鳥に対して後ろめたい気持ちは何故だろう、その時夏衣の中には微塵も生まれてこなかった。
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