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第36話
車内は異様なほど静かだった。
「・・・夏衣様、着替えがありますから、着替えておいてください。流石にその格好では目立ちます」
不意に静寂を破って葛西が発した義務的な言葉に、夏衣は抵抗することなくそれを受け入れている自分を、どう処理して良いのか分からなくなっていた。ただ頭は真っ白で、考えることをいつの間にか放棄してしまっている。そんなことは無駄だと中枢はどうやら理解しているらしい。後部座席に畳まれた状態で置かれていた普段余り手を通すことのない洋服に、葛西に促されるまま手をかけようとするとふとその上に何か乗っているのが見えた。青色の手帳みたいなそれを拾い上げ、ただ何ともなしにそれを開いた。
「・・・葛西、これ・・・」
聞くまでもなく分かってしまった。そこには夏衣の写真が貼り付けられていたが、名前の欄には全く別人の名前が書かれていた。良く観察すれば他の欄にも全くの出鱈目が書き連ねてある。余りにもよく出来ているが、これはどう見ても偽造パスポートである。ふと見ればもうひとつ赤いものがあり、それには葛西の写真が張ってあり、やはり別の人間として葛西はそこにいた。一体いつからこれを用意していたのだろう。夏衣はパスポートを持つ手が震えていることを悟ったが、それが一体どんな感情からくるものなのか分からなかった。今日のことを葛西は一体いつから計画していたのだろう。てっきり昨日のことでの突発的な熱が、葛西に今日の選択をさせているのだとばかり考えていたが、これを見る限りではそうとも言い切れないようだ。葛西はおそらくずっと以前から、夏衣を本家から連れ出すことを考えていたのだろう。そうしてこんなものを作って、ひとりで満足していたに違いない。それを葛西が本気で実行に移そうと思っていたかどうか最早定かではなかったが、結局はこれが使われることになったという点では、どちらでも同じことだろう。夏衣はそれを見ながら震撼し続ける手のひらをぐっと握り締めた。その時夏衣を支配していたのは、もうただの恐怖ではなくなっていた。
「良く出来ているでしょう、それ」
「・・・ホントだ・・・本物みたいだ・・・」
「ちゃんと通りますよ」
こんなふうにふたりで普通に話していると、今の状況がまるで嘘みたいだと夏衣は思った。馬鹿みたいかもしれないけれど、夏衣はその時その一瞬のことに顔を引き攣らせながらも、何処かで確かに安堵している部分もあった。声は依然として不安定に揺れ続けていたけれど、夏衣の中で何かが徐々に固まっていくのが自分でも良く分かった。するとそれに気付いたらしい葛西が、不自然に表情を綻ばせたのが分かった。
「それを使って一緒に海外に逃げましょう」
「夏衣様は何処が良いですか、俺は温かいところが良いなぁ。海が綺麗な南の島が良いです」
そんな夢のようなことを、葛西はこの場の雰囲気に全くそぐわない様相で、自棄に陽気に言う。それを聞きながらぐっとパスポートを握り締めて、夏衣は歯を食い縛った。一体自分をここに追い込んでいるのは、恐怖以外の何物なのだろう。ぽたりとそれに涙が落ちて、夏衣はそれが自分の目から落ちたのだと随分時間をかけて理解した。葛西の言うようにそんな風に全て上手くいくとは、どうしても思えなかった。それは夏衣の体が知っている刷り込みの結果なのか、思うことが出来なかった。だけど信じてみたかった、葛西が明るく笑いながら言うその夢物語のことを夏衣も同じ尺度で信じてみたかった。それに返事をしようと思って、声が擦れて妙な呻き声しか口からは出なかった。楽しみだと海など暫く見ていないから久しぶりに泳いでみたいと、夏衣だって笑いながら言いたかった。その気持ちばかりが空回って、夏衣を内側から突き涙を落とさせる。
すると不意に笑顔だった葛西は、それを深刻そうな表情に変えた。ハンドルを握る手にぎゅっと力を込める。バックミラーでは夏衣が何も言わずに、何も言えずにただ目を擦っている。夏衣が泣いているのを見るのは、そういえばはじめてだと葛西は黙ったまま考えた。一度襖の奥で夏衣が嗚咽を繰り返すのを黙って聞いていたことがあるが、あの無力な自分はもうここにはいない、何処にも居ないのだと葛西は自分に言い聞かせる。夏衣のために何が出来るのか考えていた、夏衣の世話係に任命されたその時から、自分の人生は全て夏衣のための人生だったから、夏衣には一番に幸せになって貰わなければ意味がなかった。全てを取り除くことが出来なくても、自分が側にいることで夏衣の負担が少しでも軽減すれば良いとただ純粋に思っていた。結局葛西はそれを成すことが出来たのか、自分でも良く分からないが、夏衣のためにと思って夏衣のために何も出来ないと感じて、ただ絶望に打ちのめされていたあの頃とは違う。今自分は確かに夏衣のためにハンドルを握って、夏衣のために車を走らせている。その車内で夏衣が幾ら涙を零したって、葛西はそれに自分の強い信念を踊らされることはない。ないのだとはっきり言える。この道は希望に繋がっている、この道の向こうには夏衣の幸せが待っている、それは本家にいることでは得られないばかりか、遠ざけられるだけのものの名前だった。夏衣にもそれを見せてあげたい、夏衣に出会うことが出来て本当に多くの葛藤がそこには存在したけれど、自分は幸せになれたのだから、確かに夏衣と過ごした日々は幸せだったと言い切ることが出来るから。だから夏衣にもそれを知って欲しい、その温かいものを夏衣にも分かって貰いたい。夏衣の涙を拭うはずの手のひらでハンドルを握って、その時葛西が考えていたのはそんなことだった。
「夏衣様がおっしゃったように、今の時間だと屋敷には使用人は居りません。誰にも気付かれていないはずです」
「このまま空港まで行って、始発に乗りましょう。そこまでは流石に白鳥様でも目が届かないに違いありません」
「そこまでいけたら、俺達の勝ちです」
バックミラーの中で夏衣が、はっとしたように顔を上げる。その顔には葛西には最早区別のつかない、複雑な感情が入り交ざって存在している。その自身の中に広がる矛盾した思考に、夏衣ですら理解がつかない様子だった。葛西はそれに向かって出来るだけそれらしく微笑んで見せた。どうすれば夏衣の中に巣食うその不安感を拭ってやることが出来るのか、葛西には分からないが、もうそれに辛苦する必要などなくなる。もう少しでなくなるのだ。何処でも良かったのだ、本当は。夏衣の悲しみのないところなら何処だって良かったのだ。バックミラーの中で夏衣がそっと頬の涙を拭った。そして少し俯いて、やはりその美し過ぎる瞳に長い睫毛を伏せることによって影を落とし、そうしてゆっくりと頷いた。
「・・・うん」
本当は葛西だって恐ろしかった。いつその肩を後ろからトントンと誰かに叩かれるのではないかと思うと、恐ろしくてならなかった。下唇を噛んで、血が出るほど噛んでもまだ、黙って俯いたまま夏衣の側で何も知らない顔をしていたほうが、こんな風に波風立てるよりも本当は双方にとって良かったのではないかと思わなかったことだって、勿論ないわけではなかった。夏衣が車を戻せと怒鳴った時、葛西は一歩もそれに引かなかったけれど、本当は何処かで夏衣の言う通りにすべきだろうと思っている自分もいた。けれどその全てを選択しなかったことで、葛西はその時救われたのだと思った。自分の考えや行動は、確かに少々逸脱していたかもしれなかったけれど、それは間違ったことなどではなかったのだと確信出来た。夏衣がそうして頷いてくれたから、この先に広がるのはもう闇ではないと思うことが出来た。それが繋がっているのが明るくて美しい、幸福だったら良いのに。いいや幸福であるべきなのだと、このひとこそが、このひとだけが、幸福になるべきなのだと葛西は強く思った。だから自分はもう恐れない、夏衣の後ろに広がる男の正体に怯えたりしない。
「一緒に暮らしましょう、夏衣様」
「・・・うん」
「俺、何処でも良いです。夏衣様の好きなところに行きましょう、そこでふたりで暮らしましょう」
「・・・うん・・・う、ん・・・・」
そうすればきっと楽しいから、もう何にも恐怖することはないから、もう辛い思いも涙を流す必要すらない。夏衣が嫌悪するならその全てを自分は変えることが出来る。白鳥にさえ勝てたら、あそこから夏衣を引き離すことさえ出来たら、もうそれ以上の事は起こらない、二度と起こらない。自分はきっと夏衣に、夏衣の幸福を約束出来る、それはもう永遠に。
自らの私服とパスポートをふたつ抱いて、夏衣は後部座席に俯いたまま座っていた。先ほどから震撼が止まらない。涙も溢れて前が見えない。けれどどうしてなのだろう、もう怖いとは思わなかった。何故だろう、葛西がはっきりと夢物語を繋げるのに、もうそれが幻だとは思わなかった。
この大罪は共犯だ。
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