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第35話

耳元で何やら不思議なモーター音が、先刻からずっと夏衣の鼓膜を振るわせ続けている。頭も体もだるくてまだ眠たいのにその音で、夏衣は目が覚めてしまった。見慣れた天井が今日は見えない。どうしたものか、ぼんやりと床に転がったまま夏衣は考える。その間もモーター音は途切れることなく響いていた。それにはっとして夏衣は勢い良く起き上がった。夏衣の体に申し訳程度にかかっていた紺色の毛布が、それに合わせてばさりと落ちていった。まさかそれを拾い上げる余裕などない。目の前の景色が、凄いスピードで流れていっている。指先が震えた、一体これは何なのだ。夏衣がその日目覚めたのは、間違いなく白鳥の高級車の中だった。 「お目覚めですか、夏衣様」 自棄に冷たく抑揚のない声が、不意に車内に響き渡った。その声に夏衣は恐る恐る運転席を見やる。夏衣の位置からは後頭部だけが見えたが、それに夏衣は思わず呼吸器官を詰まらせるところだった。見れば自分はまだ寝間着代わりに着ている浴衣のままで、窓の外は自棄に青色がかった薄闇で満ち満ちていた。おそらくまだ早い時間帯なのだろう。夏衣は震える指先をぐっと握り締めた。微塵にも動揺などしてはいけないと思った。余計なことは単なる刺激にしかならないことも分かっていた。だからあえてその目の前に広がる現実を見ないふりをすることに決めた。 「御免、俺寝坊しちゃったのかな、葛西」 葛西は振り返らなかった。夏衣のその強い言葉にも、何も言わないままただ僅かに首を振った。どうしてなのか、何か言って欲しいと思ったけれど、車内は響き渡るエンジン音以外は随分と静かだった。 「じゃぁ何か緊急の会合でもあるの、起こしてくれれば良かったのに。俺寝間着のままだよ」 依然として葛西は黙っている。夏衣は頭がずきずきと疼き出すのを感じた。冷静だった思考も徐々に歪み始める。それでも夏衣は少しでも自身を取り戻そうとして、はぁと大きく息を吐く。ハンドルを握る葛西に目をやると、余りにも整然とした姿で背筋を伸ばしそこに座っているのが分かる。この男が昨日あんなに涙を零して夏衣の腕に縋っていた男と同一人物だとは、誰も思わないだろう。そのくらいその時の葛西は、自棄に揺ぎ無い姿でそこに在った。それは最早不自然と思えるほどだった。 「こんな時間に何処に行くつもりなの」 語尾が震えて上手く言葉にならない、夏衣の焦燥はそんな形で露呈し始めていた。葛西はやはり黙っている。それに夏衣は自身の疼き続けた頭に、一気に血が上るのを感じた。それを振り払うように夏衣は震える指先を丸め込み、それで作った頼りない拳で車の扉を内側から殴った。ダァンと無機質に響いたその音に、微かだが葛西の背中がぴくりと痙攣した。 「何考えてるんだ、早く車を戻せ!」 遂に夏衣は全くモノを言う気配のない葛西に、そう大声で怒鳴っていた。はぁと息を吐いても、自分の中に残る熱は依然として発散される気配がなく、そこに留まり続けている。葛西は暫く何も言わなかったが、その肩から整然とした雰囲気が徐々に失われていっているのを、夏衣はただ感じていた。その二の腕が見る間に震え出して、車は急速にスピードを緩め始める。そこでようやく夏衣はこの車が走っているのが、高速道路であるということに気付いた。隣を凄いスピードでトラックが過ぎていくが、時間が早過ぎるせいなのか、車の姿はそう多くない。葛西の表面を滑る震顫が、遂にその手のひらに辿り着いてハンドルを握る手がぶるぶると震え始めたが、それでも葛西はそこを強く握って離さなかった。葛西も何かを鎮めるように、ひとつ深く息を吐いた。夏衣はただそれを見ながら待っていた、葛西が頷くのをただ待っていた。 「嫌です」 しかし葛西はそう言い切った。そしてそれは全くぶれる様子のない、強固とした意志を伴った言葉だった。夏衣はそれにただ唖然とする。葛西は確かに白鳥の使用人らしくないと思っていたが、その中身は流石に上から教育を施された人間であることは確かだった。それは葛西の振る舞いを見ていれば自然と分かることだった。それが覆される日が来る日が来るとは思わなかった。葛西はその日、そこではじめて白鳥である夏衣の命令に背いたことになる。余りにもそれが突然であり予期せぬ出来事だったので、夏衣はそれを瞬時には理解出来ずに、ただ強くそう言い放った葛西の後頭部を眺めていた。 「・・・な、何・・・言ってるの・・・葛西・・・」 「意味はそのままです。夏衣様の命令を俺は受け入れることが出来ません。車は戻しません」 震えた夏衣の声とは対照的に、葛西は随分と落ち着き払っていた。本家の人間はこれを知っているのか、知らないとしてもおそらくはすぐに露呈することに違いない。嫡男が消えたとなれば、それはすぐに当主の耳にも入るだろう。同時に葛西の喪失も明るみになる。車が一台無くなっていることをそれに加味すれば、一体何が起こったのか、頭を使う必要などないくらい簡単に分かる。葛西の心中をこんな無意味な選択をさせるところまで、不安定にしたのは夏衣自身である。それは夏衣が一番良く分かっていた。けれど夏衣は葛西をただ単純に切り捨てたわけではない。それが葛西の未来にとって、結局は繋がることだからと希望を込めて切り捨てた。自分の腕に泣いて縋った葛西のことを、夏衣はその手で払ったのである。けれど葛西は分かってくれると思っていた。葛西が余り頭の良い青年ではないことは分かっていたが、それを抜きにしても夏衣の言葉がそれ以上の重みを伴って葛西のところまで届き、きっと葛西はそれを理解してくれる。それと同時に切り捨てた夏衣のことも分かってくれる。そしていつかそんなことがあったことなど、忘れてくれる。そう信じていた。そう信じなければ夏衣だって、そんな惨い決断をすることなど出来なかっただろう。しかし何故なのだろう。葛西は夏衣の期待を裏切って、しかも一番悪質なやり方で裏切って、運転席でハンドルを握っている。目の前が真っ暗になって、一瞬のことに前が見えなくなる。それは余りにも安直な行動だ、余りにも軽率な行動だ。一体誰がそんな葛西のことを許すというのだろう。 「ば・・・馬鹿なこと言うな、葛西は俺の世話係筆頭でしょ・・・。俺の命令が聞けないことがどういうことか・・・分かってるの。命令を聞くんだ、車を本家に戻して、今ならきっとまだ皆寝てるから、そうすれば・・・―――」 声は依然として震え続けていた。語尾を不安定に途切れさせた夏衣は、祈るような気持ちで葛西のことを見ていた。けれど葛西はそれに首を振った。余りにも分かり易く、葛西は夏衣のそれを否定した。 「何で・・・」 「じゃぁどうすれば良いのか、夏衣様が俺に教えて下さい」 「・・・葛西・・・?」 すんと短く葛西が鼻を啜った。語尾に含まれた僅かな湿り気に、そうして夏衣は葛西の本来の姿を見る。葛西は酷く分かり易く泣いたり怒ったり笑ったりする。そんな人間を知らなかったから、夏衣にとって葛西は新人類だった。その透き通った目に映る全てのことに一喜一憂して、忙しなく表情を変え続ける葛西のことを側で見ているだけで、夏衣もとても楽しかった。だから知らなかったし分からなかったけれど、葛西のように生きていれば毎日とても楽しそうで羨ましかった。それの一体何がいけなかったのか、何処が間違っていたのか、夏衣は最早分からなかった。分からずに葛西の背中に祈ることはもう止めた。この静かな車内で、葛西の肩だけが未だ僅かに震えている。だから葛西にはもっと楽しいことだけを見ていて欲しかった。正しく傷付き痛みに喘ぐ葛西を見ているのが、自分の傷を広げられているようで本当にただ辛かった。 「どうすれば良いのか、俺に教えて下さい!他の一体どんな方法で貴方のことを救えるのか、知っているなら夏衣様、俺に教えて下さい!」 叫んだ葛西の目から透明な涙が零れて、頬に跡をつけていく。またこのひとを傷付けている、それは他の何でもなく己の爪で。夏衣は首を振った、何度首を振っても葛西にそれが伝わることはないのだと悟るしかなかった。 「これは誘拐です。俺は世話係ではなく誘拐犯です。だから俺は夏衣様の命令は聞きません」 静かに葛西が呟く。 「すみません」 余りにも正しい方法で。

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