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第34話

腕を離してしまった。その中で夏衣は余りにも現実感のない様子で、葛西の側に立って葛西のことを見ていた。泣こうにも喚こうにも、そんなことをするエネルギー自体が体の中の何処にも存在していなかった。ただ呆然として夏衣のことを見ていた。美しいその人は美し過ぎるがゆえに、余りにも悲しい生き物だった。そういえば、確かにそうだった、はじめから。 「・・・葛西」 薄暗い部屋の中で、夏衣の桜色の唇が不意に開いて自分の名前を呼んだ。どうして夏衣がこんなにも薄暗い部屋の中でしか、平穏でいられなかったのか、葛西にはようやくそれが分かった気がした。全ての輪郭が闇に徐々に溶け出す日、夏衣は葛西の腕を振り払った。しかし何故か夏衣はそこに立っていた。当主のところに行かなければならないと言いながら、斉藤のそれに平然と返事をしておきながら、夏衣はそこに手を伸ばせば触れられるほど近い位置にまだ立っていた。 「あのね、葛西は俺の目が綺麗だって褒めてくれたことがあったでしょう、いつか」 不意に夏衣はとうとうと語りはじめた。葛西はそれに理解がつかずに、ぼんやりと夏衣の顔を見ているだけのことしか出来なかった。一体夏衣が自分に何を伝えようとしているのか、集中すべき神経は葛西の意思では動かすことが出来ないほど衰えてしまっている。 「でも俺は、俺はね、葛西」 「お前の目の色のほうがずっと綺麗だと思うよ」 冷たい夏衣の指先が、葛西の頬の上をつうと滑った。するとそれに触発されたかのように、葛西の中で何かがぶつりと途切れたような音がして、次の瞬間には永遠に潤うことはないと思っていた目から、一筋涙が零れて夏衣が丁度なぞったところを滑って落ちていった。分かって欲しいなどと、どうしてなのかなどと、本当はこのひとに聞いてはいけないことだった。選択出来ない夏衣に、選択肢を広げて見せたりしてはいけなかった。夏衣が動揺も躊躇も見せなかったのは、何でもないそれが今まで行われてきたことの延長に過ぎなかったからだった。夏衣は誰かによって変えられるほどの糊代を持った人間では、15の少年でありながら最早ないのだ。それに気付かされてみれば、ただそんな単純なことだった。夏衣が眩しそうに懐かしそうに、葛西がいつか褒めたその発色の良い桃色を細める。それが徐々に歪んでいく、涙が溢れて止まらなかった。 「葛西をはじめて見た時、何て目の透き通っている人なんだろうって思った」 「俺は葛西ほど目の透き通った人を見たことがないよ、多分これからも見ることはないと思う」 「本当、本当だよ」 無表情だと思えたその顔は、何処か焦燥に歪んで見えた。苦しんでいるのは、苦しんで良いのは自分などではない、このひとだけだ、夏衣だけがそれに対する苦しむ権利を有している。勝手な自己解釈はその夏衣を更に、追い込むことになるだけだ。そんなことだけにしかならない。思わず下唇を噛んだ葛西の頭の中に、カンカンと自棄に大きな音で警鐘が鳴り響く。それが煩くて耳を塞いでしまいそうになる。けれどその一方で夏衣の優しい声が響いているのを感じている。こんな切迫した状況下でまだ、夏衣は自分に優しいことを言おうとしている。本当は苦痛で堪らない現実から目を背けたいのは、葛西ではなくて夏衣のほうだというのに、まだ。それをどうして良いのか分からなくて、葛西は目から溢れる涙を強い動作で払った。引っ掻いた畳にぼたぼたと音を立てて涙の粒が落ちていき、そこに瞬く内に吸収されてシミを作っている。 「でも葛西は自分で気付いていないかもしれないけど、お前の目、どんどん濁ってくるんだ」 「俺を見る時の葛西の目、どんどん濁ってくる」 翳りはいずれここを侵食して、葛西の目を変えてしまうのだろうと思った。そう思うと悲しくてならなかった、その目を向けられる自分の存在のことを疎ましく思った。どうして葛西の目が濁ってしまうのか、それはここの空気のせいで、そしてもっと明確に言及すれば夏衣のせいだった。夏衣にはそれが分かっていた。あれだけ美しく透き通っていた葛西の目を濁らせてしまうほどの、自らの存在の醜さや汚さに身震いばかりしていたように思う。その葛西は平気で夏衣の目が綺麗だと言った、流石にそれにはゾッとした。いけないと分かっていても葛西にそれを許したのは夏衣本人で、この大罪は共犯だが、罰せられるべきは紛れもなく自分ひとりだと思っている。葛西はただそれを願っただけだ、強くただ、届かないから願っただけだった。その手に縋りつくべきではなかった、今までと同様に無機質にだけ安定を求めているべきだった。夏衣はあの胃酸の匂いのする浴室で、雨の粒だけ数えていれば良かったのだった。そうすれば葛西を引き込むこともなかったし、葛西を迷わせることもなかった。葛西の目だって濁らなかったかもしれない。どう考えても夏衣の行動は軽率で軽薄で向こう見ずだった。夏衣はその時それを痛切に感じていた、ひとつ許せばふたつ許すこともみっつ許すことも、最早同じになってくる。葛西はどうするのだろうか、その手を取って夏衣をここに引き止めて、ふたりで白鳥の前に引き摺り出されてそこで一体何を釈明するつもりなのだろう、分からなかった。そして白鳥は一体自分達にどんな処罰を下すのだろう、恐ろしくてまさか、想像など出来そうもなかった。夏衣はただそれに怯えていた、直面すべきはこの現実だ、他のものなどではない。 はじめて会った時より遥かに黒ずんだ目をした葛西は、まるで夏衣の言っていることが分からないかのように、涙を零しながら二度ほど瞬きをした。その目が開かれれば、この薄暗がりにでもどろりと表面に黒いものが浮いているのが良く分かる。葛西のそれは夏衣のものとは違って、薄い茶色で何処にでもありそうな虹彩だった。けれど葛西のそれは光の下で見ると、とても美しく透き通っているが良く分かるのだった。それが成人をとうに通り越しているはずの葛西をより無邪気に時に幼稚に見せていたのだったが、夏衣はそれが羨ましかった。それは完全に白鳥の空気を知らない人間だけが持つことを許される目の色であり輝きだった。夏衣はそれを嫌悪するほどまでに、決して手に入らないそれが羨ましかった。せめて葛西にだけはその色をどうか保って欲しいと思った、この家の空気を吸い続けて葛西の目が、他の使用人と同様に暗く濁るのが恐ろしかった。けれど結局は葛西を寂しさに誘って、夏衣自身が爪を立ててそれを傷付け闇の進入を許した。葛西はその黒く濁る目でまだ笑っていた。そして葛西には無知さや幼稚さだけが、残されて浮き彫りになっていた。 「嫌なんだ、もう。葛西の目がこれ以上濁るのは」 「・・・御免、俺が見ていられないんだ・・・」 酷く悲痛を伴って呟かれたそれに、葛西はじわりと体の中が熱くなった。それは一体何だったのだろうか、どういう種類の感情だったのか、葛西がそれを知るより早く、夏衣はその口を割った。そして葛西は三度目になるそれを、もう一度聞くことになる。 「後で手続きをするから、寮に戻って荷物を纏めておいて」 「・・・なついさま・・・」 「良いね、もうお願いだから嫌だなんて言わないで」 「・・・―――」 夏衣は結局使用人である葛西に対して、そういう種類の命令を下したことはなかった。その最後の最後まで、夏衣の口調は白鳥嫡男の有するべきものとは掛け離れていた。嫌だと言う筈だった唇がひとつも動かないで、夏衣のことを良く見れば見るほどそんなことはまさか言えなくなる。 「葛西、もう俺の側に居ちゃいけない」 「・・・そん・・・、夏衣、さま・・・」 「その方が葛西のためになる、今なら大丈夫だよ。お父様にも露見してない」 「嫌だ、嫌です!そんな、そんなことになるくらいなら、死んだほうがマシです!」 夢中でそう叫んだ葛西を見ながら、夏衣は眉尻を下げて微笑んだ。 「御免ね」 それが全ての答えだった。

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