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第33話

葛西は畳を叩き続けている。まるで何かを払うようなその仕草に、夏衣は何も言えなかった。もう止めろとも言えずに、ただそんな葛西の側に立ったまま、黙ってそれを見ていた。受け入れるべきはこの現状だった。夏衣にはいつもそれが変わらぬ尺度と重さで見えている。しかしおそらく葛西はそうではなかったのだろう。一瞬の熱に魘されるように、一時のそれが永遠に続くものだと錯覚した。余りにもそれが穏やかで優しい日々だったから、錯覚した。この現実が崩れる時のことを、まるで想定出来ていなかった。それは誰でもなく葛西自身の甘さを起因とする問題で、夏衣はそれに何も言うことは出来ない。言ってもおそらく葛西には理解されない。だからただ見ていた、その人が分かり易く苦しむさまを、ただ見ていることしか許されなかった。そんなに悲観することはないのにと思う一方で、夏衣はその時妙な恍惚感の中に立っていた。自分にはこんな風にこの現状を苦しがってくれる人間がいるのだということが、夏衣に奇妙とも思える安堵をその時齎していた。葛西が呻けば呻くほど、良心は締め付けられたが、それとは別の感覚で頭の奥はぼんやりするのだった。それは葛西が望んだ方法とは掛け離れていたが、結果的には葛西の存在はその時夏衣に光彩を見せたことになる。おそらくは強がりだった夏衣の防衛の言葉を葛西はすぐさま嘘だと一喝したけれど、それは以前より夏衣の中では確かなものとして放たれていた。しかし夏衣が自分自身の現状を平気だと思うこととは、それは一線を画している。 「―――」 葛西は畳を叩き続けている。夏衣は何かそれに声をかけようと、肩を抱くことは許されないから、葛西に何か言葉を掛けようとその言葉を頭で考えるよりも早く、唇を割った時だった。 「失礼致します」 締め切った襖の奥で、誰かの声がいつもの調子で夏衣を呼んだ。はっとして顔を上げる。襖は依然締め切られており、そこから光は中に入って来ていない。勿論おそらくは使用人のものと思われるその声の主の姿も夏衣は確認することが出来ない。小さく息が口から漏れた。ふと気付けば葛西も夏衣の足元で、拳を振り下ろすのを忘れてしまったかのように、畳に爪を立てたまま微動にしない。何故か見透かされているような、妙な不安が高まるのは先ほど白鷺と対峙したからで、それ以上の理由はないだろう。言い聞かせるように何度も思って、夏衣は意識的にひとつ大きく息を吐いた。襖の奥の声は、じっと押し黙ったまま夏衣の返答を辛抱強く待っている。 「・・・どうしたの」 「斉藤で御座います」 変声期をまだ迎えていない夏衣の声は、静寂により一層中性的な雰囲気を持って放たれた。落ち着いたそれには微塵のぶれもなく、今までの焦燥が嘘のようだった。それに襖の奥から返事をしたのは、白鳥の世話係だった斉藤という男のものだった。びくりと葛西の背中が揺れた。何だろうと夏衣が一瞬目を落すが、葛西の表情までをそこから読み取ることは出来ない。葛西の頭の中で、何度かあった斉藤とのやり取りが再生されて消えていく。白鳥世話係の男が何を伝えに夏衣の部屋まで来たのか、葛西は無意識の中で知っていた。それに内側から突かれて、額に汗が滲み出す。誰か嘘だと言ってくれと思ったけれど、思っただけで、この現状には誰も口を開かない。葛西の安定を揺ぎ無いものにしてくれる人間は、悲しいけれど誰もいない。聞いてはいけないと思ったけれど、思っただけで、唇が異様な震顫を伴って葛西にそれ以上の発音をさせなかった。次に斉藤が何を言い出すのか、葛西には分かっていた。それは夏衣をあの部屋へ誘うための呪いの言葉だ。 「お疲れのところ申し訳ありません、夏衣様」 「・・・どうしたの」 「当主様がお呼びで御座います」 「・・・―――」 おそらくは葛西よりもはっきりと、夏衣はそれを認識していたのだろう。葛西ですら気付けたことを、夏衣が理解出来ていないわけがない。けれど夏衣の声は整然としていて、全くそこに動揺など感じられずにただ強く響いた。その様相は余りにも達観し過ぎていると思った、その聡明さは最早過剰だ。どうして夏衣が嫌だと言わないのか、それにひとつも抵抗する素振りがなく完全に屈服しているのか。勿論理由など聞かずとも分かっている。分かっているけれど、葛西はそれに中々納得出来ない。顔を上げると夏衣は妙な無表情で、姿の見えない男を見定めるように、襖の奥を見つめていた。時々その少年が何を考えているのか、本当に掴めなくなって困惑する。そんな時葛西は及ばない自分を恥じるより他ないと思わされるだけになる。 「分かった。すぐに行きます」 「お願い致します」 どうしてなのか、どうしてなのか。葛西には理解出来ない。夏衣は一度もこちらを見ようとしなかった。それが夏衣のやり方で、そういう方法で自身を保っているだけなのだと、その時はどうしてもそうは思えなかった。斉藤が去ったらしい襖の奥に、今度は夏衣自身が向かうために、その足はただ向けられている。それは何の躊躇いも迷いもなく、ただそこに向けられている。どうしてなのか、葛西には分からない。ただその細い手首を掴んだ。夢中でそこにしがみ付いた。夏衣の視線はここにはない。 「葛西」 「嫌です・・・どうして、どうしてなんですか、夏衣様!」 「葛西、声を。そんなこと言ったって・・・―――」 夏衣は依然前を見据えている。そこには何があるのか、葛西には分からない、分からなくても構わない。祈るような気持ちだった、殆ど祈るような気持ちで夏衣のその小さな背中を見つめていた。信じていた、夏衣のことを。それはもう盲目的な気持ちと姿勢で、愛していたから信じていた。この手は振り払われないと思った。夏衣はこの手を振り払って、自分を裏切って白鳥を選ぶはずがないと葛西は信じていた。白鳥が巨大な存在であるということは理解しているし、その前で自分もそして夏衣ですらも無力であるということだって分かっているつもりだった。それを抜きにしても、夏衣の中で自分の存在は白鳥を超えることが出来ると、何故か思い込んでいた。それでも夏衣は目の前でろくに動揺も見せずに、淡々とそれを許容し足を向けようとしている。あの橋の向こうの部屋に、夏衣はこれから行くつもりなのだ。どうしてなのだろうか、夏衣も葛西と同じ尺度で自分のことを考えてくれているのだと、葛西は思っていた。だから葛西に許してくれたのだと、信じていた。涙を依然拒否し続ける目の奥が、じりじりと焼けたように熱かった。それほどの視線を注いでもまだ、夏衣の背中は葛西を黙殺したままだった。 「嫌です、愛しています、貴方のことを!」 「葛西、誰が聞いているか分からないんだ・・・」 「良いです、そんなことは!」 「・・・」 「ここに居てください!俺のところに居てください!」 それが己だけの我侭なのだとは、葛西はその時思っていなかった。流石に黙った夏衣を無理矢理に反転させて、正面から抱き締めた。夏衣の口から短く声が漏れる。それでも止めなかった。どうして分かってくれないのか、夏衣のことを酷く理不尽に感じていた。夏衣が白鳥を拒否出来ないことは、葛西も分かっていたはずだったが、それ以上にただ回転を早めた気持ちに勝てないでいた。細くて小さい夏衣の体がすっかり葛西の腕の中におさまってもまだ、葛西は心痛し続けていた。分かっていた、こんなことでは夏衣の何も得られないと、そればかりか自分の中の別のものを失っていくばかりだと、分かっていた。だから葛西はそこでそれ以上のことは出来なかった、夏衣の体を抱き締められてもその唇や首筋に触れることは許されなかった。葛西の中の白鳥を裏切ることの出来ないぎりぎりの感性が、葛西をそこに押し留めていた。 「ここに居てください、何処にも行かないでください」 いつの間にか静寂に満たされた後ろ暗い暗闇の中で、葛西は低く呟いた。腕の中で夏衣の体がそれにびくりと反応したのが分かった。 「・・・御免ね、葛西」 しかし夏衣がその口から漏らした言葉はそれだった。葛西は目の前で一体何が起きているのか分からずに、夏衣の顔を凝視していた。夏衣は信じられないほどの無表情で、葛西の頬をそっと撫でた。冷たい指先だった。 「腕を離して、俺は行かなきゃならないんだ」

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