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第32話

白鷺が本家に居るということは勿論、男もそこに居るということである。 肩がまだ震えていた。何てことはない、ずっとそうだったことが、また元に戻っただけだ。落ち着けと再三自身に唱えながらその背中を追いかける。ようやく辿り着いた自室の中央に、夏衣はまるで何かに取り残されたかのようにぽつんと立っていた。 「・・・夏衣様・・・」 躊躇しながら葛西はその背中に声をかける。他にも沢山言うことがあった、言いたいことがあった。けれど声が格好悪くも擦れて、それ以上自分でも何か言える気がしなかった。その背中は先刻白鳥の側近と対峙したとは思えないほどの、余りにも弱弱しい骨格をしてそこに在った。遅れて部屋に入ってきた葛西の気配を器用に感じ取ったらしい夏衣は、まったくこちらを見ずに短く葛西に襖を閉めるように言った。葛西は言われるまま、足元に夏衣の鞄を降ろすと開けっ放しだった襖を閉めた。ゆっくりと祈るような気持ちで振り返ってみると、そこに夏衣は依然何かを欠損した状態で立ち竦んでいた。少なくともその時の夏衣の様子を、葛西はいつも通りだとはとても思えなかった。襖が閉められたことによって、俄かに自室の中が薄暗くなり、夏衣はその中央でひとつ大きな息を吐いた。重たい空気が震える。当主が会合に出かけた時に、おそらく今日のことを想定していたはずだった。出かけた白鳥当主が出かけたまま帰って来ないなどと、勿論一度も思ったことはなかった。帰って来るということは、出かけたことを聞いた時に真っ先に想像出来る未来の事実だった。それがどうしたことなのか、葛西は本当に何故かその時までそのことを失念していた自分を見つけた。一体自分は何を勘違いしていたのか、改めて思い知らされた気分だった。白鳥の側近ですらまともに相対することの出来ない自分が、何と戦っていたのか、何と戦っていたつもりだったのか。ただ羞恥と自己嫌悪に胸が詰まる。白鷺は夏衣の後ろに立っていた葛西の存在には気付いていたはずなのに、一度もその白鷺の注意を奪うことは出来なかった。最後まで白鷺はまるで葛西など見えていないかのように、その抑揚のない声で夏衣の内側を簡単に抉って行った。情けなかった、見ていることしか出来なかった自分に、おそらく夏衣を救うことは出来ない。そこから救う術など、一生かかっても見出すことは出来ない。白鷺の存在はそういうことだった、そういうことを葛西に簡単に認識させた。唇を噛み締めてそこから幾ら血を流しても、夏衣のためにはならない。葛西の出来ることの範囲では、夏衣の震える肩を抱くことすら許されていない。 「・・・葛西」 「・・・―――」 はっとして顔を上げると、こちらに背を向けていたはずの夏衣は、いつの間にか自分のほうを見て、眉尻を少し下げて笑っていた。目の奥がじんじんと痺れる思いがした。何かを伝えたい唇は先走って開くものの、そこから言葉は一向に生成されないばかりで、ただぱくぱくと動いているだけだった。 「酷い顔してる、葛西」 そう言うと夏衣はその暗がりの中で、可笑しそうにゆっくりと目を細めた。また眩しそうな顔をしている。兎角葛西の前で夏衣がそういう表情をすることは多かったが、依然葛西は夏衣の桃色の目が一体何を映しているのか分からないままだった。本家の中だ、しかも今は白鳥がここに居る。凄く遠いがそれ以上に近い場所で、白鳥は確実に息衝いている。葛西も夏衣もそれを意識的に感知することは出来ないが、無意識はその存在を良く覚えている。白鳥の重圧や威厳というものを、この流れる空気の中から器用に読み取っている。白鳥がいる本家の中で、葛西は夏衣の目の前で膝を突くことしか出来ない。抱き締めてその体を、慰めることも許されていない。そしてその禁忌を犯すことを、またこの空気が許さない。 「・・・なついさま・・・」 擦れた声で幾ら名前を呼んでも、夏衣まで届いている気がしなかった。項垂れた葛西のことを、夏衣もただ見下ろしている。夏衣もまたその震えるままの指先で、葛西に触れようとはしなかった。それが正しい形だった、元の形だった。何にも変わることはなく、悲観することもない。ただ全てがゆっくりと元に戻っただけなのだ。分かっている、頭では良く分かっている。けれどそれは現実なんかではなかった。白鳥がこの屋敷に居た時、まだそこに居た時、自分は一体どんな気持ちで夏衣と向き合っていたのだろう。その少年の体から漏れ出す隠微な雰囲気を吸わされながら、どんな顔をして毎日迎えに行っていたのだろう。たった一ヶ月前のことなのに、それが何十年も昔のことのように思えて、葛西はその時ひとりで途方に暮れていた。どうして許していたのか、この心は傷だらけの夏衣のことをどうして見過ごすことが出来ていたのか。それどころか自分の欲望ばかりをこの人の上に吐き出して、一体何をそこから得ては満足していたのだろう。分からなかった。そんなろくでもない自分のことが、白鷺よりも白鳥よりも、余程恐ろしい。目の奥がひりひりと痛みを通り越して熱くなってくる。それでも葛西の目は濡れることはなかった、何故だろう。いつの間にか涙腺は壊れてしまったのかもしれない。葛西に泣くという稚拙な感情表現すら、許さなかったのはおそらく葛西自身なのだろう。 「大丈夫だよ」 その時夏衣ははっきりとそう言ったけれど、まさかそれが大丈夫には見えなかった。けれどどうしてそんなことを言うのか、今更聞くことは出来なかった。項垂れて目を瞑って、溢れてくる焦燥にただ耐えていた。このひとの気持ちや心を、どうやったら救えるのだろうかと考えていた。確かに考えていた。けれどそれがいつの間にか自身の満足に摩り替わっていて、それは夏衣自身から結果的に自らを遠ざけることになっただけだった。葛西はそれをゆっくりと自覚する。自分には何も出来ないのだと、今までにも散々言い聞かせてきたけれど、本人の夏衣にすらそれを広げて見せられたことがあるけれど、その時葛西の目の前を覆っていたのは、それよりも遥かに黒くて深い、それは見紛うことのないただひとつの絶望だった。 「・・・そんなこと、仰らないで下さい・・・」 「嘘を・・・吐かないで、下さい」 せめて本当のことを言って欲しかった。けれど夏衣が辛いと泣き出したって、葛西はそれをどうすることも出来なかったから、結局そういう葛西の無力さが夏衣を勇壮に立たせることになっていたのだったが。自分の力ではどうにもならないことを嘆くのは、時間の無駄以外の何物でもない。目に涙は一向に浮かばないくせに、殆ど涙声で葛西が俯いたままぼそぼそと漏らすそれを、夏衣は目を細めて黙って聞いていた。葛西の爪が不意に静寂を破って畳を引っ掻き、ばりばりと嫌な音がした。それを見ながら夏衣はそういえば浴室の扉も同じように、葛西によって掻かれていたことを思い出した。随分昔の思い出のように、それは不鮮明にしか蘇らない。何故だろう、頭に霞がかかったように、夏衣はそれを上手く引き出すことが出来ない。溜め息をひとつ吐いて見下ろした葛西の右手に、あからさまな手術痕が残っている。夏衣はそれを見つけて、一瞬胸が焼かれるような思いがした。また葛西がそんな向こう見ずな行動を起こしてしまいそうで、空恐ろしくなる。何でもない、本当に冷静になって良く考えてみれば、そんな風に悲痛に嘆く必要などないのだ。考えながら整然とそこに立っている両足に視線を落とした。それは夏衣の強い意志を汲んで、しっかりとそこに根付いている。勿論震えてなんかいない。それを見ている夏衣自身が、何故か異様に安堵させられる。何でもないことだった、何でもないことのはずだった。だってこれは元々そうだったことの延長なのだから、夏衣にとってはプラスでもマイナスでもない。だから葛西がこんな風に痛ましく顔を歪める必要などない、何処にもない。それを必死に心の中で唱えても葛西は笑ってはくれなかった。嗚咽のような声ばかり漏らして、しかしその真っ赤に充血した目からは、不思議なことに一筋の涙も零れない。まるで心と体で別のことを思案しているようで、夏衣はそれから目を反らしたい衝動に駆られた。 「嘘じゃないよ、だって、ねぇ」 「・・・嘘です・・・」 俯いたまま葛西は頑なに首を振った。夏衣の中にじわりと焦燥が生まれる。それに気付かないふりをして、夏衣は出来るだけにこやかに続けた。 「元に戻っただけだよ」 「・・・嘘だ・・・」 「だから、ねぇ、大丈夫だよ」 「・・・―――」 どんと葛西の右手が畳を叩いて、けれど夏衣はそれを止めることは出来ないで、ただ貼り付けた笑顔のままそれを見ていた。どん、どんと葛西は何かを振り払うように、思い出したように拳で畳を叩いた。そういえば引っ掻くことを止めた葛西は、ガラスも同じように叩いていた。葛西の腕が振り上げられる。

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