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第31話

どうしてそんな日々が続くことを、一度でも錯覚してしまったのだろうか。そんなのはただの虚構に過ぎなかったのに、余りにも穏やかなそれに気付けば心を支配され切っていた。白鳥当主が会合に出かけて、およそ一ヶ月が経とうという日の午後だった。その日もいつものように学校まで迎えに行っていた葛西の車に乗って、夏衣は本家まで帰って来ていた。寒さも緩和し、日差しは穏やかさと暖かさ取り戻していた。その日は朝から庭師が本家を訪れていて、夏衣が学校から帰る頃になってもまだ、彼らはそこで黙々と作業をしていた。玄関の扉を葛西が開け、夏衣がそれを潜るとそこで夏衣の帰りを待っていた女中が揃って頭を下げる。それには何も言うことはなく、夏衣のスクール鞄を持つ葛西を従えて、夏衣は良く磨かれた廊下を滑るように歩いた。白鳥嫡男である夏衣の部屋は、白鳥当主ほどではないが少々奥まったところに位置している。必然的に何度かその長い廊下でスーツの人間や、女中と擦れ違うことになる。彼らが明らかに若年の夏衣に進路を譲り、頭を垂れるのに夏衣は特別それに対して行動を起こさない。そうされることは生まれた頃からの習慣で、今更如何とも思わない。幾つか角を曲がったところの廊下が、自棄に明るいと思って見るとそこの障子だけ開け放たれており、そこから中庭を誰かが立って見ているのが目に入った。白鳥に勤めている普通の人間は白鳥の屋敷内で、しかも人目につき易い廊下なんかでぼんやりとしているなんてことは有り得ない。そんな誰が見ているか分からないようなところで、容易く気を抜いたりしない。そういう風に教育されているからだ。一体誰だろう、こんなところで何をやっているのだろうと、夏衣が一瞬思ったその時、男が夏衣の気配に気付いたのかゆっくりと此方を振り返った。 「・・・―――」 びくりと夏衣の肩が震えたのを、葛西は後ろから見ていた。今まで穏やかだった空気が、一瞬のことでぴんと張り詰める。 「今お帰りですか。夏衣様」 「・・・あぁ、うん・・・」 「お勤めご苦労様で御座います」 自棄に長身の男は、夏衣に視線を合わせて全くの無表情で淡々とそう述べた。男の着ているものは、一介の使用人である葛西が白鳥から支給されて身につけているスーツなどとは、格そのものから違っていた。そこだけがまるで夜なのかもしれないと思わせるような、漆黒のスーツを身に纏った男は、その髪だけが異様とも思える白い色をしていて、まるで異国の人間のようだった。葛西はその時はじめて男の姿を見たが、男が一体何者であるか、その風貌さえ見れば否応なく一瞬にして理解させられた。男の口調は白鳥嫡男の夏衣に対して、あくまで低姿勢だったが、それは他の使用人や女中が発するものとは訳が違っていた。夏衣もそれを感じているのだろう、見える背中は自棄に強張っている。しかしそんな空気の中、その問題の男だけはおそらくは生得のものと思われる鋭い目付きのまま、ふいと夏衣から目を反らしてそれを中庭の景色に戻した。 「・・・帰っていたの、鷺サギ」 「えぇ、先刻戻ったばかりです」 「・・・そう、なんだ・・・」 その時夏衣が弱く発音した男の名前、それに葛西ははっとして男の顔をもう一度見やった。おそらくはこんな風にしてあからさまな視線を向けることは許されないのだろうけれど、今はそんなことを言っている場合ではない。男のことを噂では聞いたことがあったが、その姿を見るのははじめてだったから、葛西は目の前の情報を既知のそれと上手く繋ぎ合せることが出来ずに、ただ圧倒的な存在感に気圧されてその場に立ち竦んでいた。夏衣が鷺と呼んだその男の本名は白鷺シラサギというもので、白鳥当主が一番側で可愛がっているらしい字継ぎの側近に違いなかった。男の様子が此処に勤めている他のどんな人間とも違うのが、その確固たる証明である。あの白鳥当主とともに、この白鳥を牛耳っているといっても過言ではない。男はおそらく白鳥の右腕的存在なのだろう。それが如何してこんな昼間に、こんな人目につくところでぼんやりしているのか分からないが、その白鷺が本家に居るということ自体が、葛西にとってはそして夏衣にとっても、同程度の衝撃だったに違いない。その時葛西は夏衣の鞄など放り出して、本当なら夏衣のその微弱に震える肩を抱いてやりたかった。しかし白鷺の眼前でそんなことをしようものなら、ふたりともにどんな末路が待っているか分からない。それに何よりも葛西はその時、その白鷺という人間相手に、自身の中に潜んでいる圧倒的無力を思い知らされていた。側近相手にも葛西は何も言えずに何も出来ずに、それどころかその目すら満足に正面から捉えることが出来ずに、震える夏衣の肩を知っていながら見過ごしている。それは白鷺に、そして白鷺の向こうに広がる背景に完全に平伏しているという証明だった。 「帰ってすぐに暇を頂いたのですが、如何も持て余してしまいまして。こんなところで庭を見ていたのです。今日庭師の方がいらっしゃっていたので、そうするとこの景色も見納めかと思いまして」 「・・・そうだね、多分」 実に白鷺という男は、異常な生活空間でもあった白鳥の中でも取り分け奇妙な存在だった。能面のように塗り固められたその表情を、ひとつも崩すことなく、その声にすら抑揚がない。その余りに人間離れした見た目からでは、白鷺の実年齢というものも伺えない。時々30手前ほど若く見えることもあれば、その落ち着き払った物腰からその体に刻んだ多くの年月を知らしめられる時もある。おそらく人間に似せて作ったロボットよりも、白鷺はそれらしくない存在であった。だからこそ白鳥のすることに余計な私情を挟むことなく、当主の側近として業務を遂行出来ているのかもしれない。そういえば白鷺はこんな風に喋る男だったと、夏衣はそれを思い出しながら曖昧にそれに相槌を打った。白鷺は側近として平常から当主とともにある。それは白鳥の構造を良く知っている人間ならば、殆ど常識的な認識だった。いつもあの橋を越えたところにある当主の離れの何処かの部屋で、静かに仕事をしているはずだった。それが何故此処に居るのか、何故そんならしくない言動を今日に限ってしているのか。夏衣には分からなかったが、その分からないこと自体がまた空恐ろしくて血がゆっくりと頭から降りていくのを感じていた。夏衣が知っている白鷺は、そんな風流なことを考えたり、言ったりするような人間ではなかった。当主の側にいつも居りながら、余計なことは絶対に言わずに、むしろその寡黙さは時々必要なことも男は言わないのではないかと此方に思わせるほど、ただその利発そうな唇を結んでいた。 「夏衣様は、お変わりありませんでしたか」 「・・・え?」 その抑揚のない声が不意に夏の名前を呼んで、白鷺は中庭に向けていた目をふいっと夏衣に戻した。その鈍い輝きを放つ、白鷺の大きい黒目がおもむろに夏衣を捉える。瞬きを一度もしない白鷺が、その表情を緩めることはない。それに一瞬夏衣は不意を突かれたように、その場に固まってしまう。そこに俄かに嫌な沈黙が降り立ったのを、夏衣は全身で感じていた。 「・・・如何して、珍しいね、鷺がそんなこと言うなんて・・・―――」 しかし夏衣とて此処の空気で生きてきた人間に相違ない。夏衣は一瞬でそう切り返し、全く表情の読めない白鷺に向かって殆ど意図的にその頬を緩めて微笑んで見せた。葛西の眼前で夏衣はその時、確固たる強さを見せた。少なくとも葛西にはそう思えた。白鳥の側近の眼力を前にしても、夏衣はその細くて頼りない体でありながらひとつも屈服することなく、確かにその時そこに立っていた、夏衣の本質以上の勇壮さを従えて。その後ろで葛西は何も言えず、ただぼんやりと目の前が流れていくさまを見送っていた。まるでテレビの中の映像を見ているみたいな、それは現実感の全くない感覚だった。夏衣のそれに白鷺はその表情をひとつも変動させることなく、ただ自棄に緩慢な動作で少しだけ目蓋を伏せた。分かったのはその睫毛まで真っ白だった白鷺のその毛色は、おそらく生得的なものを起因としていることくらいのことだった。 「夏衣様の身を案じることは、此処に生きるものとしては当然の行為です」 「・・・そう、かな」 「我々はいつも、貴方の身を案じております。忘れないで下さい、夏衣様」 「・・・―――」 その時の白鷺の目を、夏衣は忘れないだろうと思った。能面みたいなその表情の中で、その瞳だけが唯一ものを言っているのが、夏衣には痛いほど良く分かった。本来白鷺はこんな余計なことは、一切言わない人間である。それは夏衣も良く知っているし、白鷺を知る人間からしてみれば周知の事実だった。一体何が、彼の中の一体何が、自身にそんな詰まらぬことを言わせているのか、考えたくてもそれがどんな結論に繋がっているのか、無意識がそれを知っているから、空恐ろしくてそれ以上はとても考えられない。嫌な予感はもしかしたら、的中しているのかもしれない、そう思うと真っ黒い白鷺の目に捉えられていることに耐えられなくなって、すぐさまそこからただ逃れたかった。有難うとそれに笑ったつもりだったが、夏衣は自分が一体どんな顔をしているのかもう分からなかった、白鷺の表情が変わらないから余計に。もしかしたら笑ったと思っていたのは夏衣だけで、その時白鷺の目に映っていた自分の顔は、青白く引き攣っていたのかもしれない。

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