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第19話
分からない、どうしてなのか。
「・・・葛西、良いよ・・・」
擦れた声で夏衣が言って、そのまま後部座席に仰向けに倒れこんだ。そこで薄い胸を忙しなく上下させている夏衣の顔を覗き込むと、汗で榛色の髪の毛が額に張り付いていた。震える指を殆ど無理に動かして、それにそっと触れて端から髪の毛を剥がしていく。そういえば白鳥本家の人たちは、皆揃いも揃ってこの色をしている。それがぱらぱらと葛西の指先で纏まらずに滑っていく。赤く頬を上気させている夏衣は、何処か心ここに有らずといった焦点の定まらない目で葛西を捉えて、そしてその桜色の唇を三日月の形にした。相も変わらず、それはひとの一番深い部分に簡単に揺さぶりをかける目だった。それにきゅっと視界が狭まる。もう何でも良い気がした。葛西がひとりで巡らせている思考など、そんな夏衣の前では些細なことのような気がした。そうして実際、そんなことは些細なことにしてしまいたかった。ぶつりぶつりと途切れる曖昧な解析を、繋ぎ合せても結局は無意味だ。それでは何も辿り着けないし、葛西は夏衣との間にある殆ど永遠とも思える距離を埋めることが出来ない。こんなに近くにいるのに、どうして夏衣がそれほどまでに遠い存在なのか。葛西は目を細めながら夏衣を探す、こんなに近くにいる夏衣を、それでも手探りで探している。その距離を埋めても埋めてもまだ、一向に夏衣には近づけない。
「どうした、の・・・葛西」
「・・・御免なさい・・・夏衣様・・・」
「なん、で。泣か、ないでよ・・・」
顔を近づけると夏衣のほうがその細い腕を葛西の首に器用に巻きつけて、体を少し浮かせるとその唇に自身のそれを合わせた。先ほどの貪り合うようなキスとは違って、ただ触れて離れるだけのものだったが、葛西はそれにこそ本来の意味があるのだと感じた。沸騰した頭の中は、何を考えても次第にそれに結論を見出せなくなっている。ただ目の前に夏衣が居るという事実すら、中々葛西を安心させてくれない。もうどこから願望の形をした夢で、どこまでが非日常を描写した現実なのか区別が出来ない。熱くなった涙が、既に濡れている頬を流れていった。何かとても酷いことを、とてつもなく惨いことを、もしかしたら酷い無意識のままに自分はこのひとに強いているのかもしれない、それは強制という名前と形と重さを持って。そんなことは有り得ないと否定する一方で、すっかりそれを受け入れている自分も居る。夏衣の言葉は麻酔みたいに、尖った葛西の神経を鎮めさせて、正気をどんどん強く鈍らせていく。分からなくなんて、なりたくなかった。目の前にあるものだけが、見えているのだから真実なのだといつものように簡単には信じられない。止まらない涙が一層溢れ出て、それを止める方法なんて随分以前から失ってしまっている。分からない、分からないのだ。この途方もない距離は一体何なのだ、この行為の果てにあるのは一体何なのだ。自分が望んで夏衣に強いたはずのそれに、葛西は完全に囚われてそこから動けない。これではまるで自滅だ。無意味な謝罪が口から軽い音と響きを持って、ぼろぼろと玩具のように零れる。こんなものに自分の誠実を投影させているなんて、吐き気がする。本当は吐き気がしている。
「・・・白鳥が・・・怖い・・・?」
夏衣がどこか挑戦的に、ただ壊れたように涙を流し続ける葛西に問いかける。目の前に突きつけられた、双方が黙って知らないふりをしていたそれは夏衣の祖父の名前であり、葛西のそして夏衣ですら支配している男の俗称。まさかその時夏衣が、その人の名前を出すとは思っていなかった。びいんと頭の中の神経が、今までとは違う尺度で震えて葛西にことの重大さを告げる。けれど夏衣はその時何故か、いつものようにその人をお父様とは呼ばなかった。それは白鳥本筋の人間だけが、白鳥と完全に血の繋がりの見える人間だけが、男を自分の近しい存在であるという意味を込めて呼ぶ名前だった。その時夏衣はあえてなのか無意識なのか、その名前を呼ばなかった。それが一体何を示しているのか、分かりたくても夏衣の本意まで手が届かない。けれどその言葉を葛西は何処か、夏衣を白鳥から遠ざける唯一の方法のように聞いていた。腕が震えた。喉が震えた。唇が震えた。それなのに何故だろう、その時の葛西の声は強く響いて決して揺らぐことがなかった。
「怖く、ありません」
「・・・どうして」
「俺は、俺は貴方のために生きていますから、貴方のために死ぬことだって、怖いとは思えない。思いません」
その汗ばんだ細く頼りない体を抱き締めて、呪文のようにもう呟くことしか出来ない。
「御免なさい、愛しています」
その時気付くべきだったのに、葛西の中に生まれている、そして育ち始めているその翳りの正体に。耳元で囁かれる言葉が甘く夏衣の中に入り込んできて、きつく抱き締められた体が今までにない安息を夏衣に齎してくれて、そんなことを一々熟考している余裕など、最早その時のふたりの間にはなかったのだった。夏衣の目は葛西に抱き締められたその肩越しから、全く動くことなくまだ青白い空を見上げていた。どうして葛西が謝るのか、そうやって一々愛することを口にするのと同じ程度、そこにその感情を付随させるのか。そうして葛西はそうすることで、一体誰に許しを請っているのか、夏衣は知っている。葛西は優しい人間だったから、本当はこのひとに誰かを裏切らせたりしてはいけないのだろう。それを自分が図らずとも行ってしまったことに、夏衣は後悔すら感じていた。そんなに悲しい顔をするなら、そんなに辛いなら止めればいい。無かったことに出来るのに、思っていても決して夏衣はそれを言葉には出さない。自分でも自分のずるさには時折辟易している。しかし今はこうすることで救われていたかったし、もしかしたら夏衣も、もしかしたらその奥のほうで裏切りを望んでいたのかもしれない。ひとりで決行するのには余りにもリスクが有り過ぎるそれに、結果的に葛西を巻き込む形になったのかもしれない。だとしたら謝るのは葛西ではない。本当にその言葉を空虚に吐き出すべき人間は、葛西ではなく自分のほうだ。暖かい体温から離れられなくて、また離れたくなくて、夏衣はそこで青い空を見ながら御免なさいと声には出さずに呟いた。それは誰でもない、いつか自分の体と心を踏み躙って支配した、そして結局今もその専有化にある夏衣の、そして葛西の、それは白鳥の大本を占めるただひとりの存在。それは白鳥を裏切ることだ。
もう一度葛西は夏衣に軽く口付けて、自身の腰を締めているベルトに手をかけ、それを抜き取った。白鳥から与えられた備品のひとつであるそれ一着で葛西の月の給料くらいは軽くするのだろうスーツのスラックスと下着を脱いで、夏衣の膝に手をかけそこをゆっくり開かせる。夏衣が自分で慣らした後ろ孔は、ハンドクリームの油でてらてらと光っていた。夏衣が手を伸ばしてどこか不安そうに葛西の二の腕を掴む。その感覚が葛西を現実に引き戻した。そうでもしないと目の前の実在を簡単に見失ってしまう危険性を拭いきれない。自身のものは既に勃ち上がっていた。それを孔の入り口に押し当てると、夏衣がひとつ大きく息を吐いた。
「挿れますよ」
「・・・ん・・・」
低く葛西が確認を取るのに、夏衣は鼻にかかった吐息だけでそれに答えた。二の腕を掴む夏衣の指が、ぎゅっと葛西の皮膚に食い込む。乱暴に扱ってはぽきりと折れてしまいそうな腰を両手で掴んで、葛西は眉を顰めながらそこにぐぐっと体重をかけた。セックスをしたことがないわけではない。大いに青春を謳歌していた時期だって、勿論葛西には存在する。ただその時女の子の顔など、一度もどこにもちらつかなかった。ただ夏衣が目の前で、自棄に苦しそうに息を吐き続けている。それだけだった。夏衣は荒い呼吸を続けながら二の腕を離して、いつの間にか葛西の首に手を巻きつけていた。体を揺らしながら全てを中におさめると、妙な恍惚感だけがその時葛西を支配していた。今までのセックスは一体何だったのだろうと、それは葛西に問いかける。一番太い神経まで痺れさせる、この薬の名前は一体何なのだろう。夏衣の中は熱くて湿っていて、ハンドクリームのおかげなのか一旦葛西を受け入れると、ずるずるとそれを奥まで誘うだけの力を持っていた。全て銜え込んでもまだ飽き足らないかのように、更に葛西を取り込もうとしているような妙な感覚に簡単に捕獲される。
「夏衣さ、ま・・・」
「・・・ん・・・良いよ・・・動いて」
この人に支配されたい。このままこの小さな自分という存在ごと、そこにおさめてしまいたい。そうすればこんな気持ちは抱かなくて済むだろう。苦しむこの人を見なくて済むだろう。一緒になってひとつになったら、ひとつになれたら、その痛む心は自分に分けて欲しい。そんなものは全部、夏衣にとって必要のない感情は全部、自分に任せて欲しい。それで無力な自分のことなど、手折ってくれて構わない。どうすれば良いのだろう、その為に。自分に出来ることは一体何なのだろう。結局思考は頼りない想像を引き連れたまま、静かにそこに辿り着く。はじめから何も変わっていないのだと、人間はそんなに短時間で変わることが出来るような生き物ではないのだと、そうして葛西は図らずとも知ることになる。じくじくとほぼ慢性的に痛む目の奥が、それを癒そうとしているのか、また勝手に水分を帯びはじめる。分からない、分からない、けれど、細胞が全部で夏衣のことを求めて赤く疼いていることだけが、そのあやふやな感覚の中で鮮明に見えた。
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