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第21話

真っ青な顔をして、葛西はがたがた震えながら俯いている。夏衣はそんな葛西の隣に座って、自分の制服をくまなくチェックした後、何処も汚れていなかったらしいそれに腕を通していた。ことが終わって暫く葛西はものも言わずにただ黙って、俯いている。今頃になってことの重大さに気付いたのなら、それはもう後の祭りとしか言いようがない。前々から葛西のことは世話係としても人間としても、まだ若年ということを考慮に入れても何処か出来が悪いと考えていたが、それが皮肉にもこんな時にこんなところに如実に表れる結果になった。今更理解するなんて、余りにも遅過ぎる。夏衣はひとつ小さく溜め息を吐くと、他に仕様もなく葛西の丸まっている背中をぽんぽんと叩いた。すると面白いようにそれがびくりと痙攣し、ややあってから葛西はゆっくりと殆ど血の気が引いている顔を上げた。殆ど紫色に近い唇が震えて、引き攣った顔は瞬きひとつ出来ないようで、眼球が自棄にてらてらと濡れている。夏衣はそれを見ながら呆れるよりも、何だか心苦しくなってしまった。それが一体葛西にとって如何なる重みを背負わすことになったのか、想像は出来るがはっきりとは分からない。結局自分が葛西に許したことで、葛西のことを苦しめている。それはこんなにも強く、こんなにも分かり易い形で。 「大丈夫?葛西」 「・・・いえ、俺は・・・それより・・・なつ、い・・・さまが・・・」 「俺は大丈夫だよ、制服も汚れてなかったし」 米神の青筋がそれを敏感に察知してぴくりと脈打ち、葛西は首をぎしぎしいわせながら、隣に座る夏衣のほうに不器用に目を向けた。 「・・・違います、俺の、俺の・・・言いたいことは、そんなのじゃ・・・なくて・・・―――!」 「あぁ、体も大丈夫。それに帰ってすぐお風呂入るから」 不意に葛西の頭の中で、真水を被ったまま全く動かなかった夏衣の背中が見えてくる。夏衣があの浴室で、一体何を思って膝を抱えて震えていたかなんてことは、安易に想像出来ることだった。踏み込んだ浴室のガラスを踏んだ痛みよりも、はっきりと鮮明に葛西の鼻腔を突いたのは、その時浴室に立ち込める胃酸の匂いだった。抱き締めた体はひたすらに冷たくて、上から降ってくる真水などその比ではなかった。安易に想像出来るそのことすら、手を伸ばす術がない。思わず悲鳴を上げるところだった。殆ど無理矢理それを飲み込んで、葛西は喉の奥まで震えているのを感じた。そこで一体夏衣は何をするのだろうか、自分が組み敷いた体を一体如何するのだろうか、考えただけでその空想に頭から飲み込まれている。がちがち歯を震わせながら、またも目に涙を浮かべている葛西に気付いて、夏衣は何処か呆れたような困ったような表情を浮かべる。 「大丈夫だよ、葛西。誰にも言わないから」 「違います!」 いつの間にか冷え切っていた車内の空気を、葛西の声がびいんと震わせた。流石に夏衣もそれには吃驚して手を引き、一瞬頬を引き攣らせた。その顔を見て謝ろうとすぐに思ったけれど、葛西はそれを我慢して手のひらをぎゅっと握りこむと、おもむろに視線を下に落とした。夏衣が一体どんな顔をするのか、見ていられない。そんな臆病心に負けている、未だ。 「・・・夏衣様・・・俺、貴方のことが好きです・・・本当に・・・」 「知って、るよ。如何して・・・」 「夏衣、夏衣様は・・・俺のこと・・・如何思ってるんですか・・・」 「・・・―――」 語尾が勝手に震え出す。夏衣が黙ったのを察知すると、葛西は落としていた視線を少しだけ夏衣のほうに向けた。夏衣はそこで桃色の目を見開いて、黙ったまま葛西を凝視していた。こんなことを本当は、夏衣に確かめてはいけないのだろうと思う。夏衣がそれに答えられないことくらい、葛西は分かっているつもりだった。しかし聞かずにはいられなかった。ずっと遠いと思っていた、今も同じくらい遠いと思っている。その距離は抱き合っても、決してゼロにはならなかった。むしろ悲しい夏衣の体のつくりを知っただけ、また遠ざけられたような気がした。好きだ、愛していると、その体に無神経に囁いてまるで陳腐な呪文をかけているようだった。夏衣はそれに頷いても、決して同じものを返してはくれなかった。幾ら名前を呼んでも、遠過ぎてまるで届いていないようだった。そう思うと怖かった、ただひたすら恐怖が奥まで続いている。夏衣も自分と同じ尺度で、自分が想う分と同じ量だけ、想ってくれているのだと根拠など何ひとつないのに何故か盲目的に信じていた。だから許してくれるのだと、一介の使用人に体を開いてくれているのだと思った。けれどもしも、もしもそうではなかったら、それは白鳥と同じということだ。そんな結論にただ声も出せずにただゾッとする。絶対的権力を武器に夏衣を征服した男と、葛西はたった今此処で同じ行為を夏衣に強いた。その間には愛があるのだから、確かにあるのだから、絶対的に自分と白鳥は違うのだ、そう思えていた。その自信が揺らぐまでは、葛西は酷く無神経でいられた。ただ白鳥のように自分には権力があるわけではない、夏衣の前で涙を流して血を流して幼い子どもの同情を引きながら、その代償を夏衣に求めただけ。形は違えど夏衣の弱さに付け込んだのは葛西も白鳥も、こうなってみれば同じことだと言える。 「答えて、下さい・・・本当のことを、俺に、教えて・・・下さい」 殆ど紫色の唇を震わせて、葛西が必死でそう自分に懇願するのを、夏衣はぼんやりと見ていたが、不意に震える葛西の首に腕を回してその体をぎゅっと抱き締めた。葛西は体ばかり大きいだけの、ただの子どものように見えることがある。あの時はっきりと葛西が言った、白鳥が怖いかと聞いた時はっきりと答えたそのことを、夏衣は忘れることはないだろうと思ったし、もうそれと同等のことを今後聞くことはないだろうと考えていた。それが嘘でも良かった、突発的に口から出たでまかせだって構わなかった。ただその時葛西がそう言ってくれたということだけが、夏衣にとっては何よりも重要なことだった。怖いかと聞いた夏衣の目を見て、葛西は怖くないと答えた。こんなに震えながらも、怖くないと答えてくれた。それに意味なんてなくても良かった、はじめからそんなものは求めていなかった。突然の抱擁に訳も分からず葛西の唇から、短い意味のない音が勝手に零れる。それを聞きながら夏衣は、葛西の背中をぽんぽんと優しく叩いた。 「有難う、葛西」 「・・・ぁ・・・」 「でも御免ね、俺、そういうことまだ良く分からないんだ。でも、葛西は俺のこと助けようとしてくれたから、葛西だけだよ、葛西がはじめてだ」 「・・・」 「だから俺、葛西のことは凄く特別に思ってる。それが葛西の言っていることと同じなのか如何なのか、俺には良く分からないけど」 「・・・―――」 「でもそうだったら嬉しいと思う。御免、これじゃ駄目かな、足りない?」 その時夏衣の声は自棄にはっきりと、おそらく本質以上の重みを持って葛西の鼓膜を揺さぶった。そしてその意味を完全に理解しないまま、気付けば夏衣の体を夢中で抱き締めていた。折れそうに細く頼りないそれに縋って、泣いている自分のその存在の弱さを、そうしてゆっくり思い知る。夏衣は一瞬驚いたように固まったが、静かに涙を流す葛西の背中を先ほどと同じようにぽんぽんと優しく撫でた。 「充分です」 「・・・良かった」 「多過ぎる、くらいです・・・」 「あはは、なら安心だよ」 耳元で夏衣が声を上げて笑う。距離は確実に埋まっているはずだった。だってはじめて会った時の彼は、声を上げて笑うことなど知らなそうな少年だった。それがこんなにも近くで、こんなにも温度を感じている。その夏衣が遠いわけがなかった。葛西の両腕の中にしっかりおさまる容量だけで、夏衣は生きている。生きている、だから、大丈夫なのだと葛西はひとりで唱えた。しかしそれを何度も繰り返しても何処かまだ、自分の中に住んでいる虚無感が葛西の背徳を刺激していた。 何故あの時決定的な言葉を、自分はそこでわざと避けて、そんな婉曲的な方法で葛西にそれを告げることを選んだのか、夏衣はそれが自分ことながら、今でも良く分からない。如何して葛西と同じ言葉ではいけなかったのか。一度でも良いから告げるべきだった、嘘でも良いから伝えるべきだった。夏衣はそれを後悔している。もう長い間ずっとそれに囚われ続けている。もし此処で自分が、葛西と同等の言葉で葛西にそれを伝えていれば、後の葛西の選択を誤らせなかったかもしれなかったのに。今でも目を瞑れば見えてくる、その時幼い自分に必死に問いかけていた、葛西のその紫色の唇が。

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