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第22話

ゆっくりと時間は流れている。一時どうなるのか想像もつかなかったが、何故か葛西と夏衣の過ちは夏衣が上手くやったのか、それとも別に理由はあるのか、露見したような雰囲気はなかった。しかし葛西の中には依然重く背徳が圧し掛かっており、それが時折葛西の顔を如実に曇らせている。それに夏衣は何度も気が付いたけれど、どうしたら良いのか分からなくて、葛西の頬を優しく撫でることで許されているつもりだった。あの穴に引きずり込んではいけないと、あの日浴室で思い続けた自分こそが、結局は葛西を手招いて落としてしまった。そこで葛西が言葉にも出来ず苦しんでいるさまを、夏衣は見ていることしか出来なかった。本当に苦しいのは自分などではないといつか力強く言い放った葛西は、今でも同じことが言えるのだろうか。夏衣はそれが怖くて、葛西に直接それを確かめることが出来ない。苦しむのは自分ひとりで充分だと、頭では思っていたが、伸ばされた手が自棄に暖かい体温を保っていて、如何してもその孤独に耐えられなかった。耐え切れなかった。俯く葛西を抱き締めて、虚のような瞳に優しい言葉を掛け続けて、そうやって自分のことを暗に慰めているのだと、そのうちに錯覚を始める。葛西が見ていたのは紛れもなく夏衣自身だったのに、夏衣が見ていたのは葛西の向こうに広がる己の痛みだった。ただそれに葛西は気付かない、もう以前のように笑ったその顔には途方もない光が広がることはない。そこに爪を立てて引き裂いて、そうやって葛西を濁らせたのは夏衣自身だった。分かっていた、双方が違う尺度でその真実のことを理解していた。だけどそれに後悔なんてしないと思った。どんな形でこれが終わっても、終わることがあっても、後悔なんてしないと思っていた。その時はまだ、そう強く信じていられた。 「あっ、や、・・・ン」 冷たいガラスに爪を立てる。そこにだらしなく口元を緩ませた自分が映っている。捕まるところが他に何処にもなくて、夏衣は何度も空振る手のひらを、そこに据え付けようと先刻から必死になっている。葛西とことに及ぶのは、はじめの過ちと同様に殆ど夏衣を迎えに来た葛西の車の中だった。如何しても屋敷内では白鳥の目があるようで、恐ろしくてまさか出来なかった。そこが唯一白鳥の目を盗める場所だと、気付いたのは後からだったが。白鳥の空気を確実に運んできている車内にも、時々白鳥の目が付いているのではないかと、白鳥は知らぬ顔をしながら何処かで自分たちのことを笑って見ているのではないかと、双方を恐怖に突き落とすことがあった。それでも何故か止めなかった。こんなことを続けて一体何になるのだと、思っていたがどちらも口に出さなかった、出せなかった。それよりも何よりも、目下の快楽に溺れているつもりでいた。それ以上のことを考えないための方法に、そして時々セックスは使われたのだった。俯いている葛西が後ろで、夏衣の腰をぎゅっと自らに引き寄せた。奥まで葛西の体積が迫って、丁度良いところで夏衣を揺さぶる。何度か行為を繰り返しているうちに、葛西はそこを覚えたらしかった。出来が悪いと日頃から思っていたが、そうではないところも如何やらあるらしい。 「や、・・・か、さぃ・・・」 「なつい、さま」 「あっぁ、・・・ぅ・・・」 ガラスに立てた爪がずるりと平坦なそこを滑る。落ちると思ったその時、後ろから葛西の手が伸びてきて、夏衣の手のひらをそのままガラスに押し当てる。ガラスには殆ど自分が映るばかりで、その後ろで葛西が一体どんな表情をしているのか、夏衣は知ることが出来ない。強い力で抑え込まれて、夏衣はそれに不意に泣きそうになる。いつの間にか降り出した雨で、ガラスに映った自分の姿すら不鮮明に消えていく。葛西は一体どんな顔をして、一体何を思って夏衣の腰を抱いているのか、夏衣には分からない、知ることが出来ない。葛西も泣いているのではないかと考えながら一方で、最近あれほど涙腺の弱かった葛西は自分の前で以前ほど涙を見せなくなったことも、夏衣は知っている。もし我慢でもしているのなら、そんなことは無意味だと囁いてやりたかった。そうして少しでも葛西をその罪悪感の中から救ってやりたかった。葛西もそんな気持ちだったのだろうか、自分の頼りない白過ぎる手のひらを上から押さえ込んでいる葛西の健康的な色をした大きな手のひらは、何を聞いても答えてくれない。少しでも、少しでも、そう思って。結局自分にはその全てを包括することは出来ない、そこまでの力は自分にはない。それを暗に知らされているみたいで、強く信じたそれに結局覆されている。 思考が雨に負けて、どろどろと溶かされていく。ガラスを滑る水滴は次第に大きく、叩きつける雨はその強さを増しているようだった。不意に葛西の右手が後ろから伸びてきて、夏衣の曝け出されたままでろくに触れられていない前にそっと沿わされた。もう夏衣は前を触られることなく達するようになっていたが、やはりそれとは関係ないところでびくりと体がそれに敏感に反応する。 「あ、や、だ・・・」 「いけません、か」 「や、だ、かさ、・・・い。あっ、ン・・・」 「でも此処、凄く良さそう、です、よ」 耳元で葛西が囁く。その声にはまだ湿り気は含まれていない。それに頭の端っこでほっとしている自分が居た。はじめの頃こそ夏衣の機嫌ばかり伺っていたのに、最近は如何も図々しくそんなことまで言うようになったのだった。夏衣はそれを聞きながら唇を湾曲させる。ぎゅっと葛西が夏衣のものを握って、肩の力が抜ける。ずるずると手のひらもこれ以上ガラスを捕まえておけなくて、また夏衣は空虚に手を伸ばした。葛西は夏衣の前を右手で扱きながら、腰を打ちつけるスピードを些か速めた。二箇所を同時に攻め立てられて、夏衣の思考は吹き飛び、後は五感全てでその快楽を追いかけるのみとなる。 「あぁ、あ、ん!」 甲高い嬌声が唇から際限なく続いている。葛西の顔が見えない。一体どんな顔をその後ろでしているのか、一体そこで葛西が何を考えているのか、夏衣は知りたくても知ることが出来ない。ただ深くて熱い呼吸が肩口で、自棄に頼りなく震えている。もっと、もっとと声に出さずに腰を揺すって葛西を食うと、背中に葛西の唇が押し当てられたのを感じた。熱い、確かに熱いがもう何処が熱いのか分からない。茹ってしまった体は、快楽だけをそこから器用に見つけ出そうとしている。 「すき、です。な、ついさま・・・」 まるで免罪符のように、呪文のように、葛西は結局それを馬鹿の一つ覚えのように繰り返す。それさえ呟いていれば、自分は許されていると思っているのか、思っているのならばそれでも良い、良かった。葛西のそれは寂寞の象徴でもあったが、夏衣はそれを受け入れるべきだと思った。許すのは夏衣ではないことを知っていたが、自分だけは葛西を許してやろうと思っていた。 「すき、です。あいし、て、ます、・・・ほんとう、に・・・っ―――!」 一層深いところを突き上げられて、夏衣は一瞬目の前が真っ白になる。ややあって腹の中に葛西の放った温かいものが広がるのを感じた。本当はその後ろで泣いているのではないかと、思うことが殆どだったから、手を伸ばして慰められない体位は嫌いだった。けれど一方で葛西はそんな自分のことを、夏衣には知られたくないのかもしれない。全く変なところで強情だ。夏衣は汗だくの体のまま、ぐいと体を後部座席から引き離して振り返った。でもそれを自分には知る権利があるし、それ以上に放っておけないと思う。俯く葛西の顎を取って、夏衣はその唇に噛み付くようにキスをした。葛西の歯茎を舌でなぞると、葛西のほうが徐々に本気になってゆき、先刻起き上がったばかりの夏衣をまた後部座席の上に押し倒していた。足らなかった、まだ。どんなに抱き合っても満たされる気がしなかった。葛西の顔が光の関係で翳ったままなのか、それとも本当に曇っているのか、夏衣は分からない。分からないまま手を伸ばすと、葛西がそれを握ってその手の甲にキスを落とした。 「・・・愛しています、夏衣様・・・」 翳った顔を少しも綻ばせることなく、葛西はあからさまに悲痛に呟く。それは夏衣の悲しみや痛みというものを、半分以上その身に宿した葛西の現状を良く表していた。夏衣はそれに眩しそうに目を細める。それでもまだ、葛西の存在は夏衣にとってとても眩かった。 「本当に・・・好きです、好きなんです・・・」 「・・・―――」 「信じてください・・・夏衣、様・・・」 「うん・・・」 それに呟く。自棄に弱弱しくそれが響いたような気がして、夏衣は不意に空恐ろしくなった。

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