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第23話

満たされない体は、このまま永遠に飢餓し続ける気がした。隣で夏衣がふいと顔を上げて、葛西も汗でべたべたの腕で体を起こしてシートに凭れ掛かった。もう秋ももう随分と深まってきていて、気温は日々体感的に低くなっている。それなのにこんなに汗をかいているなんて可笑しかった、如何考えても全て可笑しかった。夏衣のことをそこから救ってやりたいと思った、助けてやりたいと思った。夏衣がそこで考えていることが葛西の思考とは別次元にあっても、そんなことは如何でも良いことだった。そう思っていた、はじめは。それなのに如何してなのだろう、いつからそれがこんな形に狂っているのだろう。夏衣も熱いのか、葛西の隣であらぬ方向に目をやりながらふうと大きく息を吐くと、その右手でそろそろと制服を探している。手を伸ばそうと思って躊躇した。夏衣の鎖骨には、紫色の斑点がある。それは無い日もあったし、まだ真新しく赤く残っていたこともあった。気付かないわけがなかったが、無意識に視界から外していた。でも結局、葛西がしたことは白鳥と同等のことだった。それは葛西がどんな風に言い訳をしても、客観的に見ればそうとしか仮定されない事実だった。そうして葛西の目的は徐々に歪みつつある。夏衣の右手が白いシャツを掴んで、ずるりとそれを引き寄せた。その手首を葛西は掴んで止めた。もう躊躇しなかった、何故か。葛西がその時考えていたのは、如何やって夏衣の悲しみや痛みを取り払ってやるかではなかった。如何やったらこの少年を自分ひとりのものに出来るのか、ただそれだけだった。 「・・・葛西?」 「着ないで、ください、それ・・・」 「帰れないよ、葛西」 少しだけ夏衣は口角を引き上げると、それと同時に眉尻を下げた。体中がじんじんと鈍い痛みを訴えている。夏衣の手首を掴んだ右手だけが、ほんのりとその中の温度を感じていた。ぐいと夏衣の痩せた肩を抱き寄せると、夏衣はひとつ困ったように溜め息を吐いたが、葛西の腕を嫌がらなかった。此の侭このひとの体を暴くことを許されても、それ以上のことは絶対に起こらない。葛西は何ひとつ夏衣から与えられることなく、ただ飢え続けるだけだろうことだって、良く分かっているつもりだった。本当につもりだったけれど。こういう時一番に反応する涙腺は、壊れたようにもう微動にしなかった。夏衣の柔らかい榛色の髪の毛を梳いて、懸命に梳いてそれに夢中で口付けた。夏衣はそれをやや俯いたまま、困ったように受け入れている。まだ足りない、どれだけ抱き合っても全く満たされた気がしない。ひとつも手に入れられたような気がしない。 「・・・葛西」 ふうと溜め息を吐きながら、夏衣は俯いていた顔を上げ、葛西のほうを直接見やった。その目尻に唇で触れる。夏衣が少しだけそれに身を捩る。 「帰りたくない、です。夏衣様・・・」 「・・・我侭言わずに、ホラ・・・あんまり遅いと、怪しまれるでしょ」 「嫌だ、帰りたくない。貴方のことも、帰したくない・・・―――」 夏衣の細いだけの腕を掴んで、葛西は俯いたまま震えた。何故かやはり涙は出てこない。それを見て今まで温和に微笑んでいた夏衣は、葛西のそれを耳に入れながらその顔を少しだけ強張らせた。それを瞬時に察知して、葛西は夏衣の腕をぱっと離した。 「・・・嘘です、すいません・・・」 「葛西」 「すいません、俺も、着なきゃ・・・ですよ、ね」 まさか夏衣の顔など見られなくて、葛西は目を背けながら自分のシャツを探し出し、素早くそれに腕を通した。時々考えることがある。夏衣が余りにも達観していることについて、度々それを突きつけられて葛西は切なくなる。大体こんな風に駄々を捏ねるのは葛西で、夏衣は明日も明後日も整然と日々が途切れずに続いていくということを、余りにも物分りのいい頭でちゃんと理解しているのだと感じる。それを覆そうという意志が、そして夏衣には全く見当たらない。それが一体如何いうことなのか、正確には分からないが、おそらく夏衣はその希望を持つという作業にすら、裏切られ続けて諦めているのだと考えるのが妥当だろう。しかし葛西にとっては、それは充分虚しい想像をさせる材料に成り得た。夏衣は今日帰って、まだ葛西の感触と温度の残る体のまま、ただひとつ声をかけられれば、簡単に白鳥の寝室に出向くのだろう。そしてそこで葛西が夏衣にしたことと同じことをされて、同じように高く声を響かせて腰を振るのだろう。それが葛西には途方もなく理不尽に思えた。自分はこんなに心を砕いてまで、夏衣に注ぎ込んでいるのに、その人が見ているのは、その美しい双眸で捕らえているのは、葛西ひとりではないなんてことが本当にあって良いのだろうか。そんな惨たらしいことが、それだけが現実だなんて余りにも残酷過ぎやしないか。それで夏衣を責めるのはお門違いだと分かっている。けれど夏衣がそれをひとつの抵抗もせずに、受け入れているらしいことが葛西にとっては許せなかった。とてもそんな立場ではないと分かっている、自分は夏衣の恋人にもなれないし、他のものにすら絶対になれない。葛西に与えられた名前は世話係筆頭という素っ気無いもので、それすら夏衣によって変えられる可能性を孕んでいる不安定な居場所だった。日を重ねるに連れて、逢瀬が増えるに従って、増幅していく嫉妬心や独占欲に、葛西は耐え切れる気がしなかった。こんなはずではなかった、こんなことになるとは思っていなかった。もっと自分は純粋な気持ちで夏衣と向かい合えていた。いつの間にかそれがどす黒く変わっていくのを、葛西には止める術がなかった。時々考える。熱に浮かされた夏衣を組み敷いたまま、考えることがある。この体に自分も印を刻んでみたら如何だろう、いっそ白鳥にこの関係を暴かれては如何だろう。その時夏衣が選んでくれるのは自分の名前で自分の手だ、決して白鳥という権力者ではない。葛西は信じていた、それだけを盲目的に信じていた。もしかしたら、だから葛西はまだ正常な形を崩さずに夏衣の側に居られたのかもしれない。 「・・・怒ってるの、葛西」 不意に夏衣の声を背中に感じて、葛西は背骨がぎしぎし軋むのを感じた。夏衣の声は平坦で抑揚がなく、そこに微塵も不安を感じさせない音で響いた。 「そんなこと、ないですよ。あるわけないじゃない、ですか、何で、そんなこと言うんですか」 「・・・じゃぁ、泣いてるの、葛西」 「・・・―――」 目の奥がじくじくと痛み出しても、そこが濡れることはもうなかった。泣いている場合など、葛西には用意されていなかった。自棄に静かに響く夏衣の声に、ゆっくり振り返ると夏衣はそこで眉尻を下げたまま、葛西のほうをじっと見ていた。その桃色の双眸は、確実に葛西を捕らえていた。 「・・・如何して、そんな・・・」 「御免ね、葛西」 「・・・止めてください、よ・・・そんな」 その時夏衣は、言葉を途切れさせる葛西に向かって、少しだけ口角を上げて微笑んだ。夏衣は知っているのかもしれない、葛西の胸に巣食うこの感情の正体を、夏衣はもしかしたらそれに触れたことがあるのかもしれない。そっと手を伸ばして、もうセーターまできっちりと着直している夏衣の肩を抱いた。じんと目の奥が痛んだが、依然眼球はそれ以上の潤いを拒否しているように、全く湿る気配がない。もしかしたら快楽のまま、時々酷く手荒に扱ったかもしれない夏衣の体をゆっくりと慎重に抱き寄せると、それは本当に繊細に出来た人形のようだと思えた。忘れていたのは何なのだろうか、もう自分はそれを二度と手にすることは出来ないのだろうか。夏衣に触れるのさえ躊躇ったあの日、冴え冴えとした白を湛えてそこに整然と在ったその存在を、抱き締めること以上なんて本当は求めてはいけなかったのだろう。葛西は目を瞑った、此の侭自分は大事なものをどんどんこうして失っていくばかりだろう。しかし絶対に絶対に、これだけは手放してはいけない。強く強く思っても、まだ何処か心には空洞が残っている。 「・・・葛西・・・?」 「御免なさい、嘘じゃないです」 「・・・うん、でも」 「分かってます、全部分かってます・・・御免なさい」 時々一体何に向かって懺悔しているつもりなのか、葛西は分からなくなることがある。 「すぐ、帰る支度をします。だからもう少しだけ、もう少しだけ待ってください」 何かとても大事なものを失って、得たはずの夏衣の欠片では、葛西は足らずに更にその奥に手を伸ばしてもがいている。決して届かないと、何度教えられてもまだ。

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