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第24話
もうそろそろ暖かくなり始めても可笑しくはないはずなのに、その日は朝から自棄に寒かった。白鳥から支給されているスーツの上からグレーのコートを羽織って、葛西は寮を出てすぐそこに見える白鳥本家に向かう。無駄に巨大な門の横に据えられた関係者専用の扉から中に入ると、そこにはすでにもう出勤している監守が居る。その男に自分の通行証を見せて、ようやく白鳥の土を踏むことが出来る。すっかり冷たくなった空気を吐き出して、中庭を横切っていく。見える廊下の板の間を、女中が歩いているのが見えた。幾つも屋敷には玄関があるのだが、一番門から近いそこから中に入って白鳥の空気を吸うと、それがいつもより随分軽いものだったので、少々面食らってしまった。一体如何したのか、ぼんやりしたまま歩く葛西の隣を、女中が黙ったまま過ぎて行く。彼女達の足取りも、いつもより少しばかり浮ついているように見えた。もしかしたら何かあったのか、良くないことではなければ良いが、などと考えながら廊下を進んでいると、向こうから誰か来るのが見えた。同じようなスーツを着たその男は、葛西の記憶が正しければ確か春樹の世話係筆頭だった。少し目線を下げた格好のまま、擦れ違おうとする時に、ふと葛西は足を止めた。男はそのまま歩いていく。
「あ、ちょ・・・伊瀬さん!」
寸でのところで男の名前を思い出して、葛西は殆どその背中に叫ぶように呼びかけた。それに伊瀬がぴたりと止まって、ゆっくりした動作で振り返った顔は、余りにも無表情だった。おそらくこんな早朝から大声を出してと、そういう咎めのつもりなのだろう。伊勢が一体幾つなのか葛西は知らなかったが、その容貌から推測するとまだ若いようだった。しかし葛西よりも以前から、春樹の世話係筆頭に任命されていたやり手の男で、その尖った顎が示している通り、少々厳格過ぎるとも思える考えの持ち主だった。おそらくは白鳥としては余りにも無邪気で奔放な春樹の将来を案じての人事だったのだろう。
「あ、あの、すいません」
「何か」
「いや、今日なんか・・・あったんですか、何かちょっと・・・家の中変ですよね?」
黙ったまま伊瀬がぴくりと眉だけ動かした。これはきっと春樹もこの男に殆ど怒られてばかりなのだろう。特に春樹は白鳥の本筋とは思えないほど、時折奔放だった。それを押さえつけるために派遣されたのが、伊瀬で何だか妙に納得がいく。
「屋敷の中、と仰って頂けますか。聞き苦しいので」
「・・・すいません、あの、でも変ですよね、変じゃないですか」
「変とは一体何ですか、もっと言葉に気をつけなさい。夏衣様に良くない影響を及ぼしかねません」
「すいません・・・ど、努力します・・・」
こんなことなら伊瀬ではない他の誰かに聞けば良かった、葛西は伊瀬の冷たい視線を体中に目一杯感じながら、口の中で曖昧にぼそぼそ言いながら目を下げた。平然とそう言い切る伊瀬が、春樹に良い影響を果たして与えているのか、疑問ではあるがまさかそんなことを聞き返して、火に油を注ぐことは出来ない。伊瀬が全く質問には答えてくれないので、話が全く進展しないまま、葛西はもう自分の感じた違和など如何でも良くなって、伊瀬に頭を下げると夏衣の部屋に急ごうと踵を返した。伊瀬と喋り続けていると、如何も陰鬱な気分になってしまう。伊瀬だって葛西が嫌いでこんな態度を取っているわけではなく、伊瀬という人物は総じてこういう人間性で他人と関わっているのだから、それは殆ど仕方がないことだった。
「お待ちなさい、葛西さん」
しかしさっさと行ってしまおうという考えが露呈したのか、伊瀬は変わらず厳しい口調で葛西を引き止めた。仕方なくそれに短く返事をして、おずおずと振り返った。
「な、何でしょうか・・・」
「昨日から当主様は会合に向かわれたと聞きました」
「・・・え?」
「屋敷の中がいつもと違うのはおそらくそのせいですよ。しかし当主様がいらっしゃらないからといって、浮き足立つのは如何なものかと思いますが」
「・・・―――」
ぼんやりと葛西が伊勢の言葉を咀嚼している間に、伊瀬はそれだけ言うとくるりと葛西に背を向けて、音もなく廊下を歩いて行ってしまった。葛西と同じようなスーツだったが、如何も伊瀬が着るとスーツ以上の上品さをそこに映し出すらしい、その威厳に満ちた背中を包んでいるそれは、自分のものと同じか同程度のものには決して見えなかった。それがすっかり立ち去ってしまった朝の冷たい空気が立ち込める廊下の真ん中で、葛西はその自らの二本の足で立ちながら、何処か足元の覚束無い感覚の中に居た。
おそらく白鳥の存在を驚異的に感じているのは、葛西だけではなかったということだ。この屋敷に住まうもの勤めるもの、そして白鳥と関係を持っている他の家の人間達も、それ相応に敬意を込めて眺めながら、同じように何処か畏怖していた。だから白鳥が去ったこの屋敷の中は、何処か鈍い安堵感が流れていることを自覚する。勿論白鳥が直接此処で働いている人間達に、何か言ったり何かをしたりするわけではない。基本的に白鳥は離れに作った自らのひとつの屋敷から出ることはなく、また殆どの人間がそこに入ることを許されていない。だから此処で働いていても白鳥を何処か脅威に感じながら、白鳥の目を直接眺めることは出来ないでいた。しかし一方でそれが余計に使用人たちを震撼させていたのかもしれない。その白鳥は会合と呼ばれる妙な集会に出向くことが少なくなくて、その度に何処かいつもより緩んだ空気が白鳥の屋敷を流れている。男の存在はそれほど多くの人間に影響しているのだと痛感することにもなるが、葛西はそんなことは如何でも良く感じた。男が居ないというそのことが、他の使用人の心情以上に葛西の心を潤わせたのは間違いない。
「夏衣様!」
いつもの順序をまたすっ飛ばして、葛西は殆どそう叫びながら襖を開いた。夏衣はそこで既に起きていて、制服に着替えているところだった。大体葛西が迎えに行く時間帯に夏衣がまだ眠っているということはなかった。朝から自棄にさっぱりとした顔をして、いつもはにかみながらまだ眠そうな葛西に向かってお早うと言うのが、最近の夏衣の朝のはじまりを示している。ブレザーの下に着る学校指定の少し大きめの紺色のセーターの裾を引っ張って直していた夏衣だったが、葛西の剣幕に吃驚したように顔を上げてきょとんとしている。葛西はマニュアルの最初のページに書いてあったそのことを、それでもまだ思い出せなかった。少々妙とも思える笑みを浮かべたまま夏衣に歩み寄って、その肩をぎゅっと抱いた。襖が開けっ放しで、そこからは中庭が見える。夏衣は全く訳も分からずに、葛西の腕の中で立ち尽くしていた。
「・・・如何した、の。葛西」
「当主様が・・・お出かけになられたそうです」
その時の葛西の声は妙な歓喜を孕んでいた。夏衣はそれを見ながらひとつ溜め息を吐いた。
「知ってるよ」
「すいません、こんなこと思うなんて、俺もう、此処で働く資格ないですよね」
「・・・まだあると思ってたの、そんなの」
やんわりと促されて、葛西は夏衣から離れた。本家の敷地内でこんなことをしていて、見つかったら如何しよう、如何なってしまうのだろう、そういう危機感を葛西は圧倒的な無邪気さで欠いていた。特に当主が居ないという事実が葛西をより大胆にさせているのだろうと思いながら、夏衣はそんな可愛らしい思考をしている葛西のことを、何処か微笑ましく思っていた。仕方なくその葛西にネクタイを渡すとそれを夏衣の首に手慣れた様子で巻きつける、その間も頬はだらしなく緩み切っていた。
「嬉しいです、俺」
「葛西、誰が聞いてるか分からないんだから」
「でも俺・・・、ホントに・・・」
「分かってるよ、ホラ、もう時間だ」
邪気の全く感じられない満面の笑みで、葛西がはいと元気に返事をして頷く。
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