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第25話

白鳥には特有の色持ちと呼ばれる存在が少数おり、夏衣もそのひとりだった。色持ちとは初代白鳥から続く遺伝子による異常色素のことを指し、本家の人間は揃いも揃ってその虹彩の色が赤よりも更に薄い、桃色をしているのだった。本家に生まれる白鳥は全員この色を宿しており、葛西は対峙したことがないので分からなかったが、おそらくそれを根底で纏める白鳥当主も同じ色をしているのだろうと推測出来る。白鳥本家にしか伝わらない色と長年言われてきたが、時折例外として分家にも突然変異的に桃色の目をした子どもが生まれることがあるのだという。一度本家に来ていたところをちらりと見たことがあったが、月家の長男は如何もそれらしかった。例え本筋の人間として生まれた子どもであったとしても、虹彩の色が違えばそれは白鳥と見なされないという実しやかな噂まで流されるほど、白鳥における目の色というのは重要視されている節があった。それが何を起因としているのか、葛西は良く知らなかったが、その色を宿している夏衣を目の前にして思った。白鳥のその色は、此方の思考を何処か危うくさせるほどの妙な力がある。しかしその一方で、同じ血を持っているはずの夏衣の姉に当たる秋乃や、弟の春樹と夏衣のそれは全くの別物であった。本質的には如何なのか分からないが、葛西にはそう思えてならなかったし、何故か夏衣の周りにはそういう嘘か本当か判別し辛い噂が流れていたのだ。女の秋乃ではなく、春樹でもなく、夏衣が当主の寵愛を受けているのはおそらくその虹彩のせいなのだろうと。 「・・・如何したの、葛西」 けれど他の人間にそんな虚しい想像をさせるほど、やはり夏衣の双眸は白鳥の中でも秀でて美しかった。その目で見つめられることに、一向に慣れる気配はなくその度に心臓が煩く跳ねている気がする。余りにもわざとらしい葛西の視線を何処か窘めるように、夏衣は少し首を傾げてそう言った。葛西はそれに答えずに、そっと夏衣の頬に触れてみる。夏衣がその目をきゅっと細くした、まるで眩しいものを見るかのような目だった。夏衣は時々そういう目付きで葛西のことを見た。その目が一体何を映しているのか、そして葛西は知ることは出来ない。この美しい桃色に触れることは許されない。目尻にキスを落すと、夏衣が少し笑って身を捩った。くすぐったいらしいその仕草に、葛西は夏衣の肩を掴んで夏衣の目の周りにこれでもかと唇で触れる。一度恐ろしいと思ったことがある、その目が美し過ぎることに、恐れすら抱いたことがある。夏衣の目はそういう目だった、そういう感情を周りの人間の心に育たせる目だった。それが良いことなのか悪いことなのか、葛西には分からない。きっと夏衣だって分からないだろう、夏衣にとっては自分の目の色など、生まれた時から付き合ってきたただの色に過ぎない。そんなことは分かっている、だから余計に焦燥するのかもしれない。 「葛西」 窘めるように夏衣が名前を呼んで、しかしそれには穏やかなものしか孕んでいなかった。決して葛西の行為は夏衣によって阻まれることはない、それはそう暗に意味していた。分からなかった自分でも、何故なのか聞いてみたかった、しかし夏衣もその答えを知っているとは思えなかった。葛西以外の使用人たちも裏で互いに呟きあっていた、夏衣様は別格だと、如何してあの人の目はあんな色をしているのかと、皆不思議がっていた。それほどまでに夏衣の目は、白鳥の中でも異端を示していた。 「夏衣様の目は、如何してそんなに綺麗なんでしょう」 頬を撫でて額に今日何度目かもう分からないキスをすると、夏衣はそれをただぼんやりと享受していたが、ふいに葛西の手をやんわり払って、おもむろに目線を車の外に向けた。その虹彩は殆どいつも揺るぎなく、ただ時々美しいだけ悲しい色合いに満ちていた。葛西は緩やかに拒絶された手を如何することも出来ずに、ただ黙って夏衣の横顔を眺めていた。 「・・・そうかな、俺は好きじゃないよ」 「如何して、ですか。そんなに綺麗なのに・・・」 「だってこれは俺が白鳥だっていう証みたいなものだもの。そんなの綺麗だなんて、思えないよ」 「・・・―――」 時々自分は軽薄で軽率だと思わされる時がある。夏衣の言葉を上手く先回り出来て、その頬を撫でて頭を撫でて慰めることが出来れば良いのにと思う。けれどいつも自分は夏衣にそれを想起させてばかりだ、考えて欲しくないのに、あの人が側にいない時くらい、自分のほうをもっと見て欲しいのに。謝ることも出来なくて、葛西がじっと黙っていると夏衣がふうと息を吐いて、此方に注意を戻した。それに申し訳なさそうに、葛西が視線を合わせる。夏衣は全くの無表情だった。そのまま夏衣の手が伸びてきて、葛西は体を無意識に震わせた。その冷たい指先がそっと頬に触れる。夏衣は何かをなぞるように、葛西の頬の上に指を滑らせた。ぞくぞくとそれに欲動が葛西の中を這い回る。今はきっとそんな場合ではないと思っているのに、頭では思っているのに体はいうことを聞かない。いつの間にこんなに自我の統制が取れなくなっているのだろうと考える。相変わらずその無表情を崩そうとしない夏衣がわざとやっているのかもしれないとさえ、愚からしくも考えてしまう。そんなことは良いから、もう如何でも良いから押し倒してしまいたい。もっと余裕がなくて濡れ切った夏衣の声が聞きたい。分かっているはずなのに夏衣は、そういう時一向に葛西にそれを許さない。そうやって夏衣は自分をからかって遊んでいるのだと思う。けれど葛西には如何することも出来ないし、夏衣がそれでそこに楽しみをひとつでも見つけているなら、自分は少し救われる気がした。この背徳の気持ちを少しは軽くすることを許される気がした。だからいつまで経っても夏衣が欲しいものをくれなくたって、葛西は我慢を強いられることにすら悦びを感じていた。そんなこと今まで微塵にも考えたことはなかったが、自分はもしかしたら被虐性愛的なところがあるのかもしれない。 「・・・なつい、さま」 「如何したの、葛西」 じれったく擦れた声で夏衣を呼んでも、夏衣はそれににこりともしない。思い切って手を伸ばしたらそれは拒否されることなく、何故かあっさり享受された。夏衣の後頭部それで包んで、相変わらず頭蓋骨の小さいひとだと感心する。こんなに小さくて大丈夫なのかと、こんなに細くて大丈夫なのかと、葛西にそれは不安を植え付けるだけの要素を備えている。夏衣が少し俯いて、その美しい桃色に影を落す。その目蓋の薄い肉の上に口づけると、夏衣が思い出したように少し笑った。 「・・・好きなの、葛西。俺の目」 「好きです、でも、目だけじゃなくて全部」 「そう」 「好きです、愛しています。本当に」 それに夏衣が今度は声を上げて可笑しそうに笑った。時々葛西のそれは呪文みたいに、ふたりの間にゆっくりとしかし確実に浸透していく。いつだってそれは人間的な温かさと、同時に現実的な冷たさを備えていた。それを呟く時はいつだって、葛西は言葉の世俗さとは対照的に、臓腑を直接握り込まれているような危うさを感じていた。届かない気がして怖かった、何度呟いてもひとつも現実らしくないそれが、夏衣の目の前でだけ空回っている気がして恐ろしかった。だからこそ自分を慰めるためにも繰り返していたのに、その恐怖にいつも囚われて、それが葛西を此処から一歩も動けなくしている。 「俺の目がこの色じゃなくても好き?俺のこと」 「勿論です、夏衣様が夏衣様である限り」 抱き締めてこんなに近くに居るのだと、錯覚したい。そのためにはお互いの服なんて邪魔なだけだった。頬にもう一度唇で触れると、夏衣が今度は穏やかに微笑んだ。言いながら葛西はそれでも何処か、この色を宿していない夏衣のことを上手く思い描くことが出来ないでいた。当たり前だ、目の前には夏衣の本物が居るのだから、そんなことを危惧している場合などではなかった。けれどそれは一体如何だったのだろう、夏衣がその時そう葛西に尋ねたことの本質を、本当の意味では理解出来ていないということではなかったのか。そうすればその時夏衣が言いたかったことは、一体何だったのだろう。言葉には表層と裏側が確実に存在して、表層ばかり上手く掬い取ってもそれが何にもならないことは分かっていた。分かっていたが、時々見落としていたのではないかと思う。夏衣がそこで何を思って如何してその言葉を選んだのか、それを一々熟考している時間が葛西にはなかった。一体何を焦っていたのか、自分でも良く分からないが夏衣には兎に角そういうところがあった。此方が懸命に繋ぎ止めるための努力をしていないと、夏衣は何処かへふらふらと行ってしまいそうな気がしていた、いつも。だからいつも満たされなかったのかもしれないし、遠く感じていたのかもしれない。葛西は夏衣の耳元で何度も決定的な言葉を囁いて、それで夏衣を此処に据え置こうとしていたけれど、それでも何処か夏衣は確からしくない言葉でそれに答えるだけだった。届いてはいけないものだったのかもしれないし、それは自分のものには決してならないものだった。夏衣はそれを暗にそうすることで葛西に教えているつもりだったのかもしれない。けれど葛西はそれに納得をしなかった、不器用な腕を伸ばしては夏衣を絡め取ることに必死になって、それで結局手に入らないことに絶望しながら、夏衣の側を離れることは出来なかった。それはその時葛西が褒めたその目の色のせいなのだと、誰も教えてはくれなかった。

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