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第26話

許される希望なんて、とっくに捨てた。 「・・・っァ、はぁ、・・・ん」 キスの間に夏衣が荒く呼吸を繰り返す。角度を変えて何度もそれに口づけていると、感覚など最早無くなってくるようだった。もどかしい思いのまま、自棄にパリッとしたジャケットを脱ぎ去り、首に巻かれたネクタイを緩める。夏衣のネクタイに手をかけると、その体が妙に熱を帯びていることに気付いた。今朝葛西が首に巻きつけたそれが、同じく葛西の手で取り去られる。白いシャツのボタンをひとつひとつ開けている間に、夏衣は色香を孕んだ桃色の瞳で何かを見極めるように、じっと葛西の手の動きを追っている。白過ぎる肌に触れると、夏衣がその形のいい口角を上げて少しだけ笑った。 「夏衣様・・・?」 「御免、ちょっとくすぐったくて」 少年の体は、少年の心を閉じ込めてそこにある。時々それを思わされて、葛西は良心が痛むのを感じた。本当は夏衣と、立場上や夏衣の周りの問題などを抜きにしても、こんなことを行ってはいけないのだろうと思わざるを得ない。それは夏衣が咽返るような妖艶さを秘めていることとは、全くの無関係だ。そんなことは大人の勝手な解釈で、此方の弱い意志の問題だ。葛西はそれに無意識のまま眉尻を下げて、夏衣の薄いピンク色に色付いた頬をゆっくりと撫でた。如何して今葛西がそんな顔をするのか分からなくて、しなければならないのか分からなくて、夏衣が不思議そうな表情を浮かべる。それでも葛西はその表層に浮き出した哀切を隠すことなく、ただ夏衣の頬を撫でた。あの息が詰まるような空気に敷き詰められている家の中、夏衣がどんな風に呼吸をしているのか知ることは出来ない。そこで夏衣が一体どんな形の忍耐を強いられているのか、葛西にはきっと想像もつかない程度のことなのだろう。だから夏衣が思わないことは、何ひとつしたくはなかった。するつもりなど微塵もなかった。ただ夏衣はそういう悲しいけれど優しい微笑で、そういう葛西のことを許しているのだと思った。何故かその時葛西は臆病にも、夏衣もそれを望んでいるのだと思うことが出来なかった。自分の強過ぎる思いで夏衣を此処に縛ることは出来ないと思っていた、それは一種の諦めだったが、葛西はその程度の諦観ならば幾らでも積み重ねられると信じていた。したくないことはしないで良いと言った。自分がそんなふうに夏衣に対して指示出来る立場ではないことは分かっていたが、それは指示というよりむしろ切望に近かった。夏衣は何でも享受して堅忍してしまうから、時々怖かった。声に出して欲しかった、嫌なら嫌だと叫んで欲しかった。けれど夏衣の体はそれが出来ないように、途方もなく上からの圧倒的な権威によって、教育された体なのだと知った。誰に教えられなくとも、夏衣の体を見ればそれは明らかなことだった。だから夏衣は何も言わないのだと、使用人である葛西にすら、それを言うことを無意識的に選択していないのだと、如何してそんなことを、何も言わずに思わずに見ていられるのだろう。 「・・・葛西?」 「嫌じゃないですか、夏衣様」 「え?」 「俺とするの、嫌じゃないですか、嫌だったら言ってください、だったらもう俺二度と夏衣様には触れません」 何度もこんなやり取りは交わしてきたように思う。哀切に眉を顰めて、それでも葛西は何故かその目から涙を零すことはなかった。夏衣の堅忍の形に、そうして葛西もそういう角度からもしかしたら影響された結果なのかもしれない。そんなことを言っても、この人に言っても無理だと分かっていたけれど、夏衣は結局そんなことはないとやんわり自分のことを否定すると分かっていたけれど、自分がこんな顔をしていると余計に、それでも葛西は止めることが出来なかった。そこに向かって自責の念を積み上げることも、それを夏衣に尋ね続けるのも、どちらも無意味と知りながらも止めることなど出来なかった。 「葛西はすぐそういうことを言うんだから」 「・・・すいません」 「如何して、謝るの。俺は嬉しいのに」 「・・・―――」 言いながらゆっくりと夏衣がその頬を穏やかに緩めたのに、葛西は固まって冷たくなった心情が徐々に溶かされていくのを感じた。一方で夏衣に決して抗えない環境を作っている人間が居るのなら、せめて使用人である自分の前でくらい横暴に我侭に振舞って欲しかった。夏衣はそう振舞うのを許されるのだと、そう振舞うのを諦めないで欲しいのだと、何よりも知って欲しかった。夏衣が意味深に目を伏せると怖かった。その下で何を考えているのか見えないから、余計に焦燥していた。だからそんな優しい言葉すら、葛西は簡単に飲み下せないでいる。自分でも強情だと思いながら、その裏に別の意図が隠されているのではないかという空想が、簡単に悪寒になって背筋を撫でる。それは夏衣の手のひらではない、誰かの熱を伴って。もっと強く伝われば良いのに、言葉が。もっと分かり易い意味を持って、そこまで届けば良いのに。 「聞いてくれないんだ、誰も。俺の気持ちや意見なんて、聞いてくれなかった、今まで」 「・・・夏衣さ、ま・・・」 「葛西だけだよ、葛西だけなんだ。ねぇ、もうそんな悲しいこと言うのは止めよう?」 「・・・すいま、せん」 浮かれた熱だけで動いている人形になりたかった。夏衣がそう言うのなら、それを考える器官ごと全て、夏衣に明け渡してしまいたかった。そういう葛西の言葉や行為を夏衣は笑って許してくれるだろう、だったら余計に本当なのだと本気なのだと叫ぶ必要が葛西にはあった。謝りながら思う、けれどまた自分は同じように夏衣に尋ねてしまうのだと。愛しているのと同じくらい、それに対して謝罪を繰り返す。愛の言葉は何故か棘つきで、それで傷付くのが自分だけだったら良いけれど、同じように夏衣もそれで傷付くから、同じ背徳と罪悪をその細い体に植えつけてしまうから、葛西は夏衣を守ろうと思って救おうと思って、それと同じだけ別の闇を自分が引き連れていることを忘れている。その正義は純白なんかではない。そして誰かの気持ちや願望なんかではない、それは全て葛西自身の利己的な信条から生まれ出た産物。はじめからなかったことに出来れば良いのにと、考えながら夏衣の桜色の唇を塞ぐ。なかったことに出来れば良いのにと考えることで、安らいでいるのは自分だけだと分かっている。分かっていながら、右手で夏衣の制服のシャツをそっと脱がしている。 「・・・はは・・・」 「何ですか、夏衣様・・・」 不意に何の前触れもなく夏衣が声を上げて、葛西が少々驚きながら不思議そうな顔でそれを見返す。夏衣はその何処か心配そうに眉が顰められた葛西の顔を見ながら、くつくつとその小さな肩を震わせて内を突いて出てくる笑いを堪えている。 「・・・いや、だって、葛西そんなこと言って・・・俺に触らないとか、そんなこと出来るのかなぁって思って」 「出来ますよ、夏衣様がそう仰るのなら!」 馬鹿にされたと思ったのか、自棄に意気込んで葛西はそれに返事をする。夏衣はふうんとそれに半ば信じていないような、曖昧な音で返事をする。 「そう、じゃぁ“待て”は出来るんだ?」 少々心外そうな顔つきになった葛西の鼻先に、含み笑いとともにそう言いながら、夏衣は指先を押し当てた。その向こうで夏衣は葛西に暴かれかけているあられもない姿で、しかもそれをひとつも隠そうとせずに座っている。シャツは殆ど脱がされて後は腕を抜くだけの状態で止まっているし、その白い肌にそれらしくついたピンク色の胸の突起はつんと触れて欲しそうに上を向いている。それだけで如何にかなってしまいそうなほどに、夏衣は実に妖艶な雰囲気とともにそこに在った。 「・・・い、今は後にして欲しいです・・・あの、出来れば・・・」 目を反らしながらぼそぼそと小声で葛西がそう漏らすのに、夏衣は声を上げて笑い出した。そんなことを言われても、自分で言ったことながら中々自信が沸きそうもない。けれどそれは夏衣が悪いのだ、結局またそうやって自分のことをからかっている、本気なのに信じてくれていないのか、そもそも本気などではないと思われているのか。けれど一方で葛西はそれに安堵していた。夏衣の少年の部分は時々葛西の良心を突き、時々葛西を安息に導いた。こんな瑣末なことでふたりでずっと笑っていられたらいい、誰かに別の感情をそこに差し込まれるほどの隙間など、ふたりの間にはないのだと信じたい。信じさせて欲しい、せめてこの間だけは。

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