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毒に塗れた犬
「えっ、『駄菓子屋くすのき』の担当から外してほしい? この間、会食行ってなかったっけ」
翌朝、会議室の中。僕の目の前に座っている課長と百瀬さんに、単刀直入に用件を告げた。
「お二人が心配してくださっていた理由が分かったんです。僕……恐ろしくて、もうあの人には会えません。これで減給になってもいいです、とにかく外していただけないでしょうか」
課長は小さくため息をつきながら頭をかいている。百瀬さんはずっと下を向いたまま、僕に視線を合わせようとしなかった。
「それがさー、俺に担当外す権限ないんだよね……。もちろん部長には報告しておくけど、返事がくるまで待っててくれるかな。基本的なやり取りはメールで完結させて、出来るだけ会わないようにしてもらえると助かる」
「はい、なんとかやってみます。お手数をおかけしますが、よろしくお願いいたします」
深く頭を下げて、そのまま会議室を出て行った。
駄菓子屋の地下に足を踏み入れてから、楠戸さんのイメージはすっかり変わってしまった。甘い言葉を囁いていたあの唇から、ドスの効いた怒声が出てくるなんて思わないじゃないか。背中の刺青も、本職だから入れていたんだろう。僕はあまりにも無知だった。
(次、ああして蹴り上げられるのは僕かもしれない。まだ死にたくないよ……)
自席に着いて、パソコンを立ち上げる。駄菓子屋や周辺のスナックへの卸売業務は特段問題ないのがまだ救いだった。この間発注時期も話し合って決めたばかりだから、しばらくあそこは放っておける。一日でも早く担当から外れられるよう祈りながら、メールアプリを立ち上げた。
***
「城代、気づいちゃったか~……」
血相を変えて城代が「相談がある」と言ってきたから、何事かと思えば。ずっと黙っていた『駄菓子屋くすのき』の本当の姿に気づいたようだった。
担当を変えてほしいと頼まれはしたものの、部長に報告したところで「辞めると言うまで何とかしろ」と言われるに決まっている。だからと言って自分が代わりに引き受けたら、どうなるのだろうか。
「百瀬、担当やる?」
「ぜっっっったい、嫌です!」
冗談めかして百瀬に振ってみたが、即座に拒否されてしまった。そりゃそうだよなあ。
「俺、ずっと課長に黙ってたんですけど……あいつ、たぶん楠戸に喰われてますよ。会食行った次の日、首元にキスマークつけて出社してて。マジで身体張りすぎだろ、って本気で尊敬しましたけど、あれ気づいてなかっただけだったんすね」
「ええ、それはまずいなあ。手を出すくらい城代が気に入ってる、ってことじゃないか。担当変えるなんて言ったら、ウチは潰されるんじゃないの」
百瀬と二人で頭を抱えて唸っていても、答えは全く出てこない。
「とにかく、俺がなんとか回答を引き延ばすから、アイデア考えておいて」
「無理ですよ……やっぱ城代が辞めるしかないのかなあ」
ため息のつきすぎで、会議室の中が澱んできた気がする。明るい展望もないまま、二人揃って肩を落とした。
***
課長と百瀬さんに相談してから一週間が経った。繫忙期ということもあり、次々と舞い込む仕事が恐怖心を和らげてくれる。顧客リスト上の担当者との打ち合わせを終えて帰社した途端、課長が僕を呼び止めた。鞄をデスクに置く暇もなく、会議室の中に連行される。
「あの、課長どうしたんですか? もしかして、僕宛のクレームでしょうか」
「いや、下手したらクレームよりまずいことになったかもしれない」
課長の顔は真っ青だ。嫌な予感がする。
「さっき、代表電話に片岡さんという人から連絡があったんだよ。君、知ってる?」
知ってるも何も、楠戸さんの部下だ。顔も鮮明に思い出せる。
「その片岡さんって人の伝言がさ、『代表の楠戸が話したいことがあるから、城代に顔を出してほしいと言っていた。今日中に駄菓子屋まで寄越してくれ』って内容だったらしいんだよ。この後アポとかなかったよね? 頼める?」
夕方の退勤間際の時間となれば、アポイントメントは入っていない。しかし、また嫌な思い出の残る場所に赴くのは、どうしても気乗りがしなかった。
苦渋の表情を浮かべたまま黙っていると、課長がゆっくりと話し始めた。
「……君に担当ファイル渡したとき、『期待してる』って言ったの、覚えてる? 若い子にこんなこと言うのも情けない話だけどさ、駄菓子屋は君にしか担当を任せられないんだよ。本当に無理だと思ってたら、部長も城代くんにこの伝言を伝えないはずなんだよね」
「…………」
喉奥がどんどん乾いていく。普通の担当者は、他人のことを罵倒しながら蹴ったり殴ったりしない。大変だとか嫌だとか、そういう次元の話ではないのだ。地下で目にした凄惨な光景がまた蘇ってきて、胃のあたりがぎゅっと縮まった。
だけど、目の前で声を震わせながら話す課長を見ていると、僕がここで「嫌だ」と言う選択肢は、はなから用意されていないような気がした。
『期待』の二文字が重く全身にのしかかる。暗い賭博場を思い出して膝頭ががくがくしたが、僕が行かないと何も解決しないのだ。そのことを理解すると、胸の内から墨汁のような暗さが、重く圧しつけて来る。
(楠戸さんは、何か事情があってああいうことをしていたのかもしれない。いや、きっとそうだ……そうであってほしい)
もしも、あの地下で見た楠戸さんが「悪い夢」で、僕にお酌を教えてくれた優しい笑顔が「本当の顔」なのだとしたら。都合のいい解釈なのは百も承知だけれど、僕はもうそんな僅かな望みに縋ることでしか立てなくなっていた。
掌に滲む嫌な汗をワイシャツで拭い、ぎこちない笑顔を作って前を向く。
「……課長、我儘を言って申し訳ございませんでした。今日駄菓子屋を訪問して、この前の無礼を詫びてきます……」
課長の顔がほっと和らいだ。声にいつもの調子が戻ってきている。
「うん、さすが期待のホープだよ。今日は遅くなっても残業申請出して良いからね。きちんと話をしておいで」
「はい……ありがとうございます」
鞄を掴んで、そのまま会議室を後にした。電車に揺られている間、業務用端末のショートメッセージアプリを開く。楠戸さんに『この間は申し訳ございませんでした。これから伺います』と送信しようとしたけれど、結局文章を消してしまった。暮れゆく夕陽を眺めていても、頭の中に浮かぶのは、彼と過ごした日々ばかり。日が沈むのが、気づくと早くなっていた。
駄菓子屋が近づいてくる。僕は極度のストレスに耐え切れず、電車を降りてから思い切り吐いてしまった。最悪の気分のまま、濃い影を落とす路地を一歩ずつ進んでいく。ぼろぼろのトタン屋根が視界に入った瞬間、身体が微かに震え出した。
僕がこれから殴られるわけではない。けれど、どうしてもあの恐ろしい瞳が脳裏に焼き付いて離れなかった。あの鋭い罵声を僕自身に向けられたら、どうなってしまうのだろう。頭で何度も再生される最悪のシナリオを振り切るように、意を決して引き戸を開けた。
「あ、ポメ兄 。お前遅ぇだろ、どんだけ待たすんだよ。アニキ、事務所で待ってるから。着いてきて」
「申し訳ございません……」
片岡さんに付けられた謎のあだ名に言及する元気すらない。彼もあの地下の住人なのだ。僕の知らないところで、きっととんでもない悪事を働いているんだろう。
片岡さんがドアノブを捻る。自分の心臓の音がばくばくとうるさくて、呼吸もかつてないほど浅くなっていた。このドアの先に、楠戸さんがいる──震える手で鞄をぎゅっと握った。
「遅い時間にすんまへんなあ」
いつもと変わらない、ゆったりとした声。楠戸さんは革張りのソファーに座ったまま、僕にひらひらと手を振ってきた。片岡さんは事務所に入ることなく、そのまま扉を閉めて駄菓子屋に戻っていってしまう。部屋の中で、楠戸さんと二人きりになった。
「隣。座っとくんなはれ」
楠戸さんが指でトントンとソファーの座面を叩く。僕は逆らえるはずもなく、「失礼します」と一声かけて腰掛けた。彼の身体が近づいてくると、煙草と白檀の混じったいつもの香りが鼻を抜けていく。
「僕な、城代クンに謝りたかってん。ウチのが迷惑かけて、怖い思いさしたやろ」
返事ができない。優しい声音のはずなのに、なぜか背中を冷たい風が通り抜ける。
「こないだ見た通り、ここの地下ってちょぉっと特殊やねん。『オトナのカードショップ』やから、他の人によう見せんのですわ」
花札賭博場のことをカードショップというのは、いかんせん無理があるのではないか。ツッコミ待ちなのかもしれないけれど、黙って続きを聞くことにした。
「育ちが悪うてこないな商売してはりますがな、僕、君に嫌われとうなかったんや。黙っとってかんにんやで」
楠戸さんが僕の掌を包んで、そっと握った。そろそろと顔を上げると、綺麗な瞳がまっすぐ見つめてくる。もしかして、本当にあの地下での出来事は、悪い夢だったのだろうか? 楠戸さんは、仕方なくああいった仕事をしていただけ?
掌から伝わる体温は、血が通っていて温かい。お酌を教えてくれた時と同じ、情味溢れる顔が、そこにはあった。
「知慧クン ……寂しいねん、僕」
楠戸さんの手が、そっと僕の太股を撫でる。全ての記憶が一気に蘇り、顔に熱が集まった。部屋の空気がじっとりと湿って重くなる。
「担当、降りやんといてよ。また可愛い声で僕の名前、呼んでくれへんかなあ」
じわじわと手が身体を這い上っていく。いつかのように、かさついた親指が僕の唇をなぞった。
楠戸さんの「お願い」は、命令と同義なのだ。僕が拒む隙さえ与えず、気づくと彼の手中にはまり込んでいく。ここでこのまま彼に身体を預けたら、日の当たる世界ではもう二度と生きていけないかもしれない。
けれど、僕の身体には既に毒が回り切ってしまっていた。彼の指先一つで、身体はコントロール権をいとも簡単に手放す。白いシーツの海で溺れたあの日、楠戸さんという酸素を求めて、身体が勝手に動いてしまうようになった。
暴力が怖いのではない。地下の賭博場に身が竦んでいたのではない。僕は──楠戸さんに夢中になってしまうと分かっていたから、ここに来るのがたまらなく嫌だったのだ。
それでも、もう、何も考えたくない。会社の身勝手な期待、責任の押し付け──全てに嫌気が差した。楠戸さんだけが、僕をまっすぐな目で見つめてくれる。その奥にどんな感情が隠れていたっていい。彼の腕の中で、何もかも忘れたかった。
黙って目を伏せて、彼の前に唇を差し出した瞬間。待ち望んでいた、痛みにも似た快感が僕の脳を焼いた。異常に静かな事務所に、いやらしい水音だけが響いている。彼に縋るようにワイシャツを掴むと、舌がぬるりと口内に侵入してきた。蛇のように歯列をなぞり、僕の舌を舐め上げていく。酸素を求めて息をしようとしても、楠戸さんはそれすら許してくれない。頭がぼうっとしてきたあたりでようやく彼が口を離した。
「……楠戸さん、お願い、もっと……痛くして」
楠戸さんが口の端を伝う銀の糸を拭い、そのまま唇に噛みついてきた。痛みが脳を麻痺させて、間違った信号を送り続けている。自分から舌を絡めながら、彼の唇を夢中になって貪った。
「可愛いワンちゃんや……僕がしっかり躾けたらなあきまへんなア」
楠戸さんの瞳はすっかり光を失い、気づくとブラックホールのように底の見えない、真っ黒な色をしていた。このまま彼の瞳に吸い込まれてしまいたい。薄っすらと目を開けたまま、笑う彼の顔を見つめていた。
***
錆びついたパイプ椅子に座ったまま煙草を吸っていると、若い衆が引き戸を開けて入ってきた。
「片岡さん、アニキいますか? 今度の葬儀で相談が」
「あー、今、『お取り込み中』だから。別日に来た方が良い」
小指を立てて事務所の方を指差すと、そいつはニヤニヤしながら下がっていった。事務所にいつまで経っても入れない自分の身にもなって欲しい。
(これじゃあどっちが犬だか分かんねぇな)
ウチのアニキは、一度目を付けたお気に入りを喰うのが、とにかく早い。しかも場所を問わず盛り始めるから、お付きとしては不快極まりなかった。しかし、どこかから金を引っ張ってくる才能だけは天下一品で、誰も彼に指摘ができないのだった。
自分も結局、一度身を持ち崩しかけたところを助けてもらっている。金と力がモノを言うこの世界で、彼に勝てる要素が全くなかった。
(あと一時間は出てこねえだろ)
電話もしばらく鳴りそうにない。読みかけの競馬新聞に視線を戻して、脳内でレースを再開した。
***
「あっ、あ、ああ……!」
楠戸さんが身体を動かすたびに、黒い革張りのソファーが音を立てて軋む。安いスーツが皺になるのも構わず、僕は身を捩って快感をひたすら享受していた。一度慣らされた秘孔は、凶器の侵入にもすぐに順応してしまう。甘やかな毒が結合部からじわじわと広がり、僕の身体を蝕んだ。
「知慧クンのココ、ほんまにエエ具合やなあ。擦れてへんし、僕の形すぐ覚えよる」
「楠戸さん、お願いです、もっと奥に……」
水を与えられなかった植木鉢のように、干からびた熱情を満たそうと脚を開いた。目の前の端正な顔が歪み、口許がほころびる。涙目で懇願する僕に口づけした後、楠戸さんは焦らすように少しだけ腰を動かした。
「奥で咥えて絞るんやで。ぎゅうっとな……できたらもっとエエとこ突いたるさかい、頑張って」
「ひっ、んぅ、うぅ……、楠戸さん、気持ちいい……いじわるしないで……」
「いじわるなんてしてまへんがな。ワンちゃん上手にできるかな言うて躾けてまんねや」
規則的な律動がもどかしい。後ろのテクニックなんて一朝一夕で習得できるわけがないのだから、楠戸さんは全部分かった上でやっているのだ。僕がとろけきってしまうタイミングを見計らって、さらに奥を突いてくる。
「はぁっ、はぁっ、くす、ど、さん……!」
「どぉしたん。そない必死に名前呼ばんでも聞こえてんで」
「僕、もう、むりです……、イきそう……っ、あ、え……?」
腰の動きがぴたりと止まった。あと数回で達しそうだったのに、急に止められては我慢できなくなってしまう。
「ち、さ、と、ク~ン。飼い主置いて走ってったらアカンやないか。僕、まだもうちょいお散歩楽しみたいねん」
繋がったまま楠戸さんが僕の唇に噛みついてくる。口が徐々に下がっていって、首筋をべろりと舐め上げた。
「自分、肌白うてよう首輪映えるよなあ。消えてしもたん惜しいわ……付け直したりま」
ちくりと鋭い痛みが走ったかと思うと、肌を吸う音が続き、赤黒い痣──首輪が付けられた。我慢の限界だった僕は、キスだけで前が反応するほど敏感になっている。
「えらい泣きそうな顔してかいらしいやないの。僕にどうしてほしい?」
口を離した楠戸さんが、にぃ、と愉しそうに口の端を吊り上げた。ゆるく出し入れされるだけのぬるい抽挿では、とてもイけそうにない。今にも零れそうなほど瞳に涙を溜めて、みっともなく彼に縋った。
「イかせてください……もう、楠戸さんのじゃないとダメなんです。前みたいに、っ、ぐちゃぐちゃにしていいから……」
「へえ、いじらしいこと言うてくれるやんか。そこまで言われたらしゃあないなあ……ご褒美あげまほか」
「……っ!」
脚を持ち上げられたかと思うと、角度を変えて楠戸さんが最奥を抉った。苦しみは一瞬で霧散して、すぐに熱が拡がっていく。身体中がかっと燃えて、絶頂の波に呑まれる感覚に襲われた。楠戸さんは顔色一つ変えず、薄い笑顔を貼り付けたまま腰を振り続けている。
(あ、もうダメだ、イ、く──…………!)
身体を弓なりに反らせて彼の名前を叫んだ瞬間、目の前が白く弾けた。瞼の裏がちかちかと数度煌めいた後、どろりと腹部に精が吐き出される。楠戸さんのスーツにかかっていないことだけが救いだった。
竿を抜いて服を整えた楠戸さんが、僕にティッシュを差し出した。
「これで拭きや。自分、また会社戻るん?」
「いえ、さすがに今日は直帰します……一応問題なかったことだけ、電話で報告しておこうかなと」
「そうだっか。ほんなら一緒に飯食お」
自分の精液をティッシュで拭きながら、冷蔵庫の中の野菜炒めに思いを馳せる。今日中に食べないと悪くなってしまうけれど、もう諦めるしかないか。皺になってしまったジャケットを羽織り直していると、楠戸さんが何かをカードケースから取り出した。
「これ、僕の名刺やねん。もう知慧クンに隠すことないし、渡しとくわ」
恭しく受け取った名刺には、『楠組 若頭補佐 楠戸義彬』と書かれていた。指先に触れる紙の感触は、驚くほど冷たくて硬い。
「……大切に、保管させていただきます」
僕は震える手で、その重すぎる一枚を自分の名刺入れの特等席に差し込む。箔押しされた菊水紋が反射して、僕の顔をきらりと照らした。
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