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駄菓子屋の地下
翌朝。重い身体を起こした先には、僕に背を向けて煙草をくゆらせる楠戸さんがいた。墨で刻まれた背中の武士が、僕を睨むように見つめている。
「あ、城代クン起きた~? カダラ大丈夫?」
楠戸さんが振り向いて僕に近づいてくる。煙草の煙がふっと顔の前を通り過ぎた。
「お、おそらく……。節々は痛いんですが、問題なさそうです」
「ほんならええわ。あんまり可愛く鳴くもんで、ちっといじめすぎたかな思うててん」
一気に昨夜の記憶が蘇ってきて、一人顔を赤くした。みっともない姿ばかり晒してしまったけれど、期待には応えられたのだろうか。
「スーツ、きれくなって返ってきたで。これ着ていのり や。会社の前まで送ったる」
染み一つないスラックスに足を通して、一通り身支度を済ませる。玄関に向かうために立ち上がると、すかさず楠戸さんが肩を組んできた。
「城代クン。昨日はほぉんま良かったでェ……また僕と遊んでや。オシゴト頑張ってな」
「はい、頑張ります!」
笑顔で振り向くより先に、楠戸さんが僕の首筋に噛みついてきた。襟から見えるか見えないかのところを強く吸っている。
「く、楠戸さん、痕になりますから……」
「嫌やの? 僕のペットやねんから、首輪つけたらなあきまへんがな」
ペット……?
そのくらい愛情を持って接してくれているということなんだろう。都会の人の愛情表現って、変わってるなあ。
帰りの車中では、今までの重い雰囲気が嘘のように、たわいもない雑談をしながら過ごした。片岡さんは、相変わらず終始無言だった。
「ほなまた連絡します~」
「はい! ありがとうございました!」
車が見えなくなったのを確認してから、ようやく頭を上げた。これから出社してまた働くんだと思うと、なんだか不思議な気分。昨晩の密度が濃すぎて、まだ夢の中にいるみたいだ。
(裸の付き合いって、こういうことを言うのかも。結果楠戸さんとも親睦を深められたような気がするし、本当に良かった!)
晴れやかな気持ちで受付のゲートに入館証をかざすと、ちょうど出社したばかりの百瀬さんと鉢合わせた。
「おはようございます!」
「あ、城代おはよう。お前今日は結構ゆっくりなんだな。いつももうちょっと早めに来てないっけ」
「昨晩、駄菓子屋の楠戸さんと会食だったんです。車で送っていただいて、今到着したばかりでした」
百瀬さんが後ろに飛びのいた。
「え⁉ 会食⁉」
「はい。課長に報告して許可もいただいてます!」
彼は啞然とした表情のまま、僕をまじまじと見つめている。視線が僕の首筋で止まったまま動かなくなったかと思うと、きまり悪そうに目線を落とした。
「そ、それなら良かった。俺、コーヒー買って行くから」
百瀬さんは真っ青なままエントランスホールを後にして、社内のコンビニに歩いて行った。なんだか急いでいるみたいだ。
後で僕もコーヒー、買おうかな。睡眠時間が短くて眠いし。エレベーターの中でぼんやりとそんなことを考えていた。
***
事務所の中で茶粥を食べていると、車庫から片岡が戻ってきた。
「送迎おおきに」
「……アニキ、車の中で盛るのやめてもらえませんかね。ポメラニアンの兄ちゃん、俺にずっと助けてくれってアイコンタクト送ってきましたけど」
「車の中やからええんちゃうんけ。自分もああやって女口説きや」
片岡は盛大なため息をついた後、自分の煙草に火をつけた。
「というより、あの兄ちゃん随分呑気に出社してましたね。自分の置かれた状況分かってんすか」
「それがな、ほんまおもろいねんであいつ。俺の背中の楠公 さん見て、なんて言うたと思う? 『ファッション的な感じですか』やって! 傑作やろ、堅気の奴がオシャレで背中に刺青入れるかいな! アホもここまでくると一種の才能や」
笑いながら残った茶粥を全てかき込んだ。柔らかな甘みが口いっぱいに広がり、喉の奥に流れていく。
「ポメラニアンの兄ちゃん、お人好しすぎてヤバいっすよ。そのうち誰かに付け込まれて破滅まっしぐらだ」
「もう俺に付け込まれてるやんか。俺なしじゃおれんようになるまで骨抜きにしたらな。たぶん、あと数回抱いたらあいつから尻尾振ってくんで」
「……良い趣味してますね」
「誉め言葉どうも。いただきましたァ」
椀を給湯室に置いて、そのまま事務所を出た。駄菓子屋の端にある隠し扉を開け、地下に続く階段を降りる。ワンちゃんが頑張って働いている間、自分もやることをやってしまわないと。
(ええ玩具 やで、ほんま)
暗闇の中で一人ほくそ笑み、『仕事場』に繋がるドアをそっと開けた。
***
会食からしばらく経ったけれど、楠戸さんからは特に連絡もない。僕の方も仕事に追われて、しばらく彼に会わない日が続いた。気づくともう夏も終わろうとしていて、ようやく風が涼しくなり始めている。
(……楠戸さん、元気かな。また会いたいなあ)
あの一夜から明確に変わってしまったことがある。夜中、狭いアパートで過ごしていると、必ずと言っていいほど彼のことを思い出すようになった。
自分をまっすぐ見つめる仄暗い瞳。肌を優しく撫でる大きな手。そして……。
(だ、だめだ。楠戸さんは大切な取引先なんだから……こんなこと考えたら罰が当たる)
ベッド上での彼の熱を、忘れることができずにいた。明日は約一か月ぶりに『駄菓子屋くすのき』を訪問する日。納品書を渡して、困ったことがないかヒアリングする程度だから、片岡さんでも問題はない。しかし、どうしても自分が会いたいのは、真っ黒なスーツに身を包んだ楠戸さんの方なのだ。
ちょっと挨拶するだけでもいい。彼の顔が見たい。いつもの時間にベッドに入っても、すぐに眠りにつくことができなかった。
「すみませーん、T株式会社の城代です……」
(あれ? 誰もいないのかな)
相変わらずガタついている引き戸を開けると、中には店番の片岡さんすらいなかった。事務所の方に向かって声を掛けても、誰もいないようだ。
(また出直さなきゃ……次、いつ来れるんだろう)
繁忙期に片足を突っ込んだ今、自分の担当の御用聞きだけで一日が終わってしまう。特段トラブルのない駄菓子屋は、どうしても優先順位を下げざるを得ないのが現状だった。
肩を落として出口に向かうと、駄菓子が並ぶ棚のわずかな隙間から階段がちらりと覗いた。そういえば、この駄菓子屋には地下に倉庫があるとか聞いたような気がする。そこで在庫を保管していて、温度管理が大変だから入らないでくれと楠戸さんが言っていた。
僅かな期待を込めて階段の方に声をかけてみる。返事はなかったものの、ドアの向こうから微かな話し声が聞こえてきた。
(入口のところで軽く挨拶するくらいなら、大丈夫かな)
ドアを三回ノックして、「こんにちは」とドアを開けた瞬間。視界に飛び込んできたのは、駄菓子の積まれた倉庫ではなく──煙草の匂いが充満する、異様な空間だった。
中央の小さい電球周り以外は真っ暗で、部屋がどれほど広いのか見当もつかない。電球の下では、いかつい男の人たちが輪になってカードを囲み、何やら大声で叫んでいる。花札だと思われるカードの周りには札束が無造作に積まれていた。
目だけを動かして周りを見回しても、楠戸さんはおろか、片岡さんさえいなかった。駄菓子屋の地下とは思えない緊張感と重い空気に、足がすくんで動かない。すると、入り口付近に座っていたおじさんが僕に掴みかかってきた。
「おい! お前……何しに来た? タダ見して帰ろうってんじゃねぇだろうな、遊んでいけよ」
異常に涼しい地下の中で、おじさんだけがなぜか汗だくになっている。僕は喉奥が震えて声さえ出せず、ひゅうと息が漏れただけだった。輪になっていた他の人達も一斉に僕の方に振り向く。ただ挨拶に来ただけだったのに、一瞬にして身の危険に晒されてしまった。
「俺、マジでもう負けられねぇんだよ……なあ、分かるだろ?」
おじさんが僕の襟元を強く掴んだ。どうやってこの場から逃げたらいい? このままでは、汗だくおじさんのカモになるらしいということだけは分かった。けれど、腕力で勝てるわけもない。
(ちょっとずつ後ろに下がって、ドアを開けさえすれば……)
酒くさいおじさんの吐息を間近に受けながら、じりじりと後退していく。瞳孔の開き切った彼の手元が震えて、綿の襟元がしわくちゃになった。あと少しでドアノブに手がかかりそうだと思った瞬間、おじさんの背後から、聞いたこともないような冷たい声が聞こえてきた。
「ワンちゃんにはちょぉっと難しゅうて、分からんのとちゃいまっか」
瞬きをしている間に、呼吸が楽になった。気がつくと、襟元を掴んでいたおじさんが地面にうずくまっていて、頭を押さえながら呻き声を上げている。
──今、何が起きた……?
背筋が凍るような、ぞっとする声の方に、竦然として顔を上げる。視界の先には、会いたくて会いたくてたまらなかった、楠戸さんが立っていた。
僕を抱いた時と同じ、暗い瞳と目が合う。楠戸さんはパチリと綺麗なウインクをしたかと思うと、うずくまっていたおじさんを思い切り蹴り上げた。
「われコラァ、なにさらしてけつかんねんあほんだら! 誰のモンか分かって手ぇ出してんかおんどれ、いますぐいてこますぞ!」
呻くおじさんを誰も助けようとせず、皆手元の札束を懐にしまうと、奥の扉からぞろぞろと出て行ってしまった。骨の折れたような鈍い音と怒号が響く。楠戸さんは激しい語気でしきりに何かを叫んでいるが、早口な上に巻き舌が強すぎるからか、全く聞き取ることができない。
「なんやわれ、シャブやりすぎておかしなっとんちゃうんけ。汗だくやもんなあ、一発で分かんでェ。スッカスカのドタマかちわったろか」
革靴のストレートチップが頭にめり込みそうな勢いだ。おじさんが口から吹いていた泡に赤色が混じったかと思うと、白目を剥いてそのまま気絶してしまった。
「けったくそ 悪いわほんま。片岡ァ! ゴモクほかしといてんか 。こないなったらもうオヤジの言うことよう分からんやろ」
「はい」
部屋奥の暗闇からぬっと現れた片岡さんが、伸びたおじさんを抱えてどこかに消えてしまった。取り残されたのは僕と楠戸さん、そして散り散りになった花札。
楠戸さんは頬の返り血を親指で拭って、ゆっくりと僕に近づいてきた。真っ暗なはずの部屋の中で、彼の瞳だけが爛々と光を放っている。
「城代クン。地下来たらどんならんで って言うてたのに、悪い子やなア」
じりじりと後ろに下がっていくと、背中がドアにぶつかった。今すぐここから出ろ、という脳のアラートが、僕の身体を突き動かす。
「す、すみません、お邪魔しました!」
必死に言葉を喉奥から絞り出して、勢いよく地下から飛び出した。肺が酸素不足で悲鳴を上げ、ひゅうひゅうと喉が鳴ってもお構いなしに、とにかく足を前に出す。駄菓子屋最寄り駅の看板が見えた瞬間、足の力が一気に抜けて、アスファルトの上にへなへなと座り込んだ。通行人が僕を一瞬ちらりと見て、すぐに改札を抜けていく。
しばらく息を整えているうちに、両目から熱い涙がぽろぽろと零れてくる。鞄から取り出した業務用端末を握りしめたまま、しばらく動くことができなかった。
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