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第1話 「此処にいろ」/「Emerald」
バーの灯りは、まだ湿った夜の空気に溶け込んでいた。
いつもの席に腰を下ろす。
憂鬱な日常から逃げるようにやってきた南の島。
隣には、リゾート開発が進むこの島で頂点に立つ男
氷を指で回す音が、静かに、でも確かに周囲の空気を変えている。
「来ると思った」
男は微笑む。声は低く、柔らかい。
俺は軽く肩をすくめて笑い返した。
「……そんなこと、ないでしょう」
「お前の顔を見ればすぐ分かる」
ほんの少しだけ、冗談めかして。
でもその温度がやけに重く、温かく感じられた。
カウンター越しに目を逸らす。
「別に、特別なことじゃ……」
言葉を止める。
隣の男は何も言わず、ただ氷の音を繰り返す。
「落ち着かないのか?」
小さな問いかけに、俺は少し息をついた。
「……まあ、少し」
男はやさしく、でも確かな意思を持ってグラスを差し出す。
波音が遠くから届き、外の雨上がりの匂いが混ざる。
男はただ隣で静かに笑う。
「帰りたくないんだろう?」
一瞬、息が詰まった。
その一言には、圧があるわけじゃない。
でも確かに、背中に触れられたような感覚がした。
「……え?」
小さく返す声に、手元のグラスがわずかに揺れる。
男はにっこり笑う。
「大丈夫。無理にとは言わない。でも、お前がここにいたいなら、いればいい」
自分が小さく息を吐き、自然と肩の力を抜いていることに気付いた。
隣に座るだけで、外の世界よりずっと安心できるーーそんな気がした夜だった。
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