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第1話 湿度

バンコクの湿った空気と喧騒を抜け、男は長時間のフライトを終えて成田空港に降り立った。 スーツケースを静かに引きながら、出口へ向かう彼の姿は、周囲のビジネスマンの群れの中でもひときわ目を引く。 彼の名前はInk(インク)。 シャツのボタンはきっちり上まで留められて母国の湿度には耐えられないであろうその胸元とがっしりしたとした体格を黒のオーダーメイドスーツで包み込み、黒髪のオールバックに、彫りの深い顔立ちはキリッと整えられていた。 「バンコクより、乾燥しているな……」 シャープな顎と薄い唇から漏れた言葉は低く落ち着いた声とともに、フライト疲れの周囲の耳を心地よくすり抜ける。 完璧に整った印象だが、その瞳は冷たくはなく、物事を静かに観察する知性を宿していた。 温湿度の差も、彼の観察眼を鈍らせることはなかったのだった。 搭乗口の案内板や、手荷物カートの動き、歩く人々の流れ――すべてをさりげなく目で追いながら、Inkは自分のブランドの次の一手を頭の中で整理する。 「この出張が、次のコレクションの評価に直結する」 周囲の雑踏は、彼にとって単なる背景にすぎない。静かに歩くInkの前では、人々は自然と道を空けるのであった。 ーー 九州 in 日本 ーーー エントランスの自動ドアが開くたびに、中の冷たい空気が少しだけ店の外へと逃げ出す。 「今日も、やるしかないな…」 先日就任したばかりの若き社長は軽く息を吐きながら、フロアを歩く。 地方都市の百貨店は客足が減り、売上も苦戦していた。 店内を巡ると、古くからの顧客が笑顔で挨拶をしてくれる 窓の外には、南九州の強い日差しをたっぷり浴びた街並みが広がり、湿度を帯びた空気が、室内の乾燥した空気とは違う生命力を感じさせた。 「このままじゃだめだ…何か、新しい風を吹かせないと」 地方の百貨店はどこも苦戦している。新しいブランドを取り入れるべきだが、普通のやり方では埋もれてしまう。 ふと手元の資料に目を留めたーー 先日チェックしていた東京の展示会情報。 「……東京…行ってみるか…」 入り口で年季の入った自社の壁をたどり上を見上げる、その目には光が宿っていた そのまま燦々と降り注ぐ日光に身を預けながら南国らしいヤシの木へと視線を移した。 「やっぱり環境次第で、見え方も変わるもんだな」 そうつぶやく声とともに見上げた空には飛行機雲が物語の道筋をひとつ描いていた 東京に着くと、街の空気が地元とは違う速さで動いていた。 高層ビルの隙間から差し込む光、行き交う人々のざわめき、ブランドショップの洗練された雰囲気。 背筋を伸ばし、展示会会場へと足を運ぶ。 会場は華やかで、各国のブランドが自慢の商品を並べていた。 その中で、一際目を引くブース。 「……タイの、ラグジュアリーブランド?」 無機質な照明が、新作の生地を照らす。 空調の乾いた空気が、色味をわずかに硬く見せている。 「この素材……少し湿度があれば、もっと艶が出るのに……」 思わず漏れた声。 「そのご意見、興味深いですね」 背後から低い声が落ちた。 振り返ると、整ったスーツ姿の男が立っている。 威圧的ではない。だが、確かな存在感。 「よかったら、こちらも」 差し出された一着は、南国の色彩を落とし込み静かな華やぎを纏っていた。 光が滑るたびに、色がゆるやかに揺れる。 思わず息を呑む。 「……この生地……」 視線が自然と男のスーツの裾へ、落ちる。 「同じ織りですか?」 一歩、距離を詰める。 「ええ。実は私のスーツも同じ生地なんです」 その言葉に、指先が伸びた。 「失礼します」 胸元の生地に、そっと触れる。 つまむわけでもなく、撫でるでもなく、 親指と人差し指で布の感触を確かめる。 思ったより、あたたかい。 その瞬間―― Inkの呼吸が、わずかに止まった。 ほんの一拍。 視線が、触れている指先へと落ちる。 すぐに元の穏やかな表情へ戻るが、 喉仏がかすかに動いた。 「……生地の反応を、そこまで正確に見る方は珍しい」 声は低く、変わらない。 だが、わずかに掠れていた。 「まずは自己紹介を」 わずかに指先の力を緩める。しかし完全には離さないまま男の声を聞いていた。 「Nattapong Wirachai(ナタポン・ウィラチャイ)と申します」 発音は柔らかいが、音の芯が強い。 「ブランド"Misted Tropics(ミステッド・トロピックス)"のディレクターを務めています」 一瞬だけ視線が細まる。 「日本ではまだ展開していませんが、バンコクでは直営店を二店舗」 言葉に誇示はない。 ただ事実を置きながら、名刺を差し出した ほんのわずか、口元がやわらぐ。 「乾いた場所でどう映るのか、今日ずっと見ていました」 そこでようやく、手を離す。 「Ink(インク)と呼んでください。皆そう呼びます」 視線が真っ直ぐ落ちる。 「あなたは?」 「……鳳西 梨央(おおとりにし りお)、です」 慌ててこちらも名刺を差し出す 掴まれた手の温度が、やけに残っていた。 「Rio...」 低く、確かめるように名前をなぞる。 「あなたのように“環境まで読む方”は、そう多くありません」 視線がまっすぐに射抜く。 逃げ場はないのに、不思議と圧迫感はない。 「もしよろしければ、もう少し詳しくお話を伺えますか」 展示会場のざわめきが遠のく。 周囲の光がぼやけ、目の前の男だけが鮮明になる。 「……はい」 短い返事なのに、喉がわずかに熱を帯びた。 Inkはブースの奥を示す。 「こちらへ」 距離が近い。 歩幅を合わせられていることに気づき、胸が落ち着かなくなる。 隣に立つだけで、同じ生地のはずなのに、自分のスーツとは違う匂いがする気がした。 空調の乾いた空気の中で、そこだけ湿度がある。 席に着くと、Inkは資料を差し出す。 だがその指先が、ほんのわずかにこちらへ触れる。 意図的か、偶然か。 判断がつかない。 「契約のお話ですが」 低い声が、静かに落ちる。 「熱意だけで決めるには、惜しい」 視線が絡む。 「私は、関わった方々とは長く続く関係を望みます」 その言葉に、胸の奥が小さく鳴った。 サンプルの生地を並べながら、Inkは色や光の見え方、手触りの違いを簡単に説明した。 Rioは頷きながら指先で確かめる。 再びInkの指先がほんのわずかに触れた瞬間、胸の奥がざわりと熱くなる。 視線が自然と交わり、互いの存在がいつの間にか手の届く距離に感じられた。 ふと窓の外を見ると、午前の鋭い光は柔らかい夕陽に変わっていた。 Inkは資料を手元に置き、静かに視線をRioに向ける。 「……もしよろしければ、夜に少しお話しながら食事でもいかがですか?」 声は軽く、自然な提案のように響いた。 Rioは一瞬だけ息を呑む。 胸の奥で、先ほどの生地の感触がまだわずかにまとわりついているのを感じる。 しかし、顔に出さず静かに頷いた。 「……はい」 Inkは微かに口元を緩め、資料を整えながら先を促す。 ふたりの間には、まだ言葉にはしない緊張と期待が柔らかく漂う 夕方の静けさが、湿度を持った夜へと誘うのであった。

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