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第3話 実感

ーータイ・バンコク国際空港ーー 自動ドアが開いた瞬間、むせかえるような熱気が全身にまとわりついた。 冷えた機内の空気が一瞬で押し流され、湿度を含んだ風が喉の奥まで入り込む。 「暑いな……」 強い日差しが額に突き刺さり、視界がわずかに揺らぐ。 歩道を横断したその先で、ひとりの男が静かにこちらを見つめていた。 リネンの薄いシャツにスラックスというラフな装い。 胸元のボタンが二つ外されている。 そこからのぞく身体は、ただ派手に鍛え上げたというより、長い時間をかけて積み重ねられた強さを感じさせるものだった。 湿気を孕んだ空気の中で、呼吸に合わせてゆるやかに上下する胸板。 動くたびに、鎖骨の影が深くなったり浅くなったりする。 ……ごくり。 思わず喉が鳴る。 理性よりも先に、記憶が追いついた。 ゆっくりと動く喉仏。 そこへ唇を落とした夜の感触が、不意に脳裏をかすめる。 人の流れが一瞬途切れた、その隙間を縫うように、Inkは迷いなく一歩踏み込んだ。 靴音はほとんどしない。 けれど、距離だけが一気に縮まる。 湿った夜気ごと押し寄せる体温。 視線がぶつかる。 次の瞬間、Inkの手がさりげなくRioの腰に触れた。 引き寄せるというより、そこが正しい位置だと決めるような、控えめな力。 呼吸が混ざる。 開いた胸元から、太陽を吸い込んだ肌の熱が伝わってくる。 唇は触れない。 だが吐息が頬をかすめる。 ゆっくりと顔が傾き、耳元へ近づく。 「そんな目で見るな」 低い声が、鼓膜に直接落ちた。 息が耳朶をなぞり、Rioの指先がわずかに震える。 逃げ場を与えない距離のまま、さらに囁く。 「思い出したか?」 甘く、低く。 その声は二人のあいだだけで響く。 何をとは言わない、お互いだけが"それ"だと分かるーー。 「ちがっ……! 暑そうだなと思っただけで!」 Inkが小さく笑う。 「……Wirachaiさん」 「Inkと呼んでくれ」 「っ、Inkさん。暑くないんですか?」 問いかける声は平静を装っているのに、まだわずかに熱を帯びていた。 Inkはわずかに目を細め、 「慣れてる」 短く答え、額にかかりそうな前髪を指で払う。 汗はかいていない。 むしろ、この気候ごと自分のものにしているような余裕がある。 「それに」 ゆっくりと近づき、視線を外さない。 「そんな顔で見られたら、暑さなんてどうでもいい」 冗談のようで、本気が混じる声音。 Rioはわざとらしく咳払いをした。 「観光、案内してくれるんですよね?」 Inkは小さく笑い、ようやく距離を解いた。 「もちろんだ」 駐車場へ向かい、黒い車のドアを開ける。 運転席に収まる動作は自然で、無駄がない。 エンジンがかかり、冷房の風が静かに流れ出す。 空港を出ると、街の景色が広がる。 道路を行き交う車列、歩道に並ぶ屋台、看板の色。 窓越しでも、街の熱と匂いは伝わってくる。 「最初に行きたい場所はあるか?」 ハンドルを握ったまま、Inkが尋ねる。 横顔は穏やかだが、視線だけがときどきこちらを確かめるように流れる。 「お任せします」 そう答えると、Inkは口元だけで笑った。 「じゃあ、まずは腹ごしらえだ。この街は、味で覚えるのが早い」 信号で止まる。 Inkが何気なく息を吐いたとき、その唇にふと視線が吸い寄せられた。 厚すぎず、薄すぎない。 形は端正なのに、どこか無防備だ。 口角はわずかに上がりやすいのか、無意識でも柔らかな線を描いている。 だが笑っていないときは、静かに引き結ばれ、意志の強さを隠しきれない。 信号待ちのわずかな沈黙のあいだ、彼は舌先で下唇を湿らせた。 乾燥を防ぐための、ごく自然な仕草。 Rioの視線が、ついそこへ向く。 ーー気づいているくせに、何も言わない。 その余裕が、いちばん厄介だった。 市場の一角は、色と匂いであふれていた。 台の上に並ぶ南国フルーツ。 見たことのない形、見たことのない色。 甘い香りと青い匂いが混ざり合い、空気まで濃い。 「これ、どうやって食べるんですか?」 Rioが手に取ったのは、棘のある不思議な果実だった。 表面は硬く、どこから割ればいいのかも分からない。 店主が何か説明しているが、早口のタイ語は追いつかない。 困ったように果実を回していると、横からInkの手が伸びた。 「貸してみろ」 InkはRioの手からその果実を取ると、軽く重さを確かめるように持ち替えた。 「こうやるんだ」 親指を皮の継ぎ目に押し込み、ぐっと力をかける。 硬そうに見えた外皮が、意外なほど素直に割れた。 両手で押し開くと、内側から白い果肉がのぞく。 無駄のない動き。 慣れている。 「ほら」 一口大に切った果肉を、当たり前のようにRioの口元へ差し出す。 一瞬ためらったあと、素直に口を開ける。 甘い。 予想よりもずっと濃い果汁が広がる。 「……おいしい」 そのまま勢いで、指先に残った果汁まで舐め取ってしまう。 はっとして顔を上げると、Inkがじっと見ていた。 「誘ってるのか?」 低い声。 冗談めいているのに、目は笑っていない。 「ち、違います!」 慌てて一歩下がると、Inkは小さく肩を揺らした。 「冗談だ」 だが、指先はしばらくそのままだった。 少し歩いた先で、丸ごとくり抜かれたパイナップルにストローが挿さったジュースを渡される。 「これなら分かるだろ」 冷たい果汁が喉を通る。 甘酸っぱさが身体に染み渡る。 暑さのせいか、視界がわずかに揺れる。 人の多さと熱気に、思考がぼんやりする。 そのとき。 背後からエンジン音が近づいた。 振り向くより早く、強い力が腕を引く。 身体が後ろへ引き寄せられ、次の瞬間、目の前をバイクがすり抜けていった。 「……気を付けろ」 Inkの腕の中だった。 片腕でしっかりと支えられている。 横を向くと胸をかすめた鼻先に、汗と果実の甘い匂いが混ざる。 「ぼーっとしてると、危ない」 低く、真面目な声。 さっきまでの軽さはない。 Rioの心臓は、暑さとは別の理由で早く打っていた。 パイナップルジュースの甘さが、やけに濃く残る。 Inkの手は、まだ離れなかった。

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