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1 新月の洸(1)

 どれほど情けを募らせようとも、この身に流れる血は、決して消えはしない。  夜毎に姿を変える月を見上げて、玲陽は我が身の宿命を思わない日はなかった。  次第と丸みを帯びてゆく月は、心をささやかに安らげてくれた。  反して、鋭く細る月を数えるたびに、自らの命もまた削られるようで胸が痛んだ。  玲陽に宿る力は、月の輝きに左右された。  月の光が弱まるに連れて、体の内側から静かに冷たい力が湧き出してきた。そしてそれは、新月の日に最大を極める。  白く冴えた輝きを放つ自らの肉体。初めてそれを目の当たりにしたときの衝撃は、今でも忘れることはできなかった。  私は人ではない。  決して見てはならず、見せてはならない禁忌。玲陽は震え、一人、我が身を抱いて涙を流した。  不安定に揺れて怯える心に反し、力は何もかもを飲み込むほどに満ち溢れた。普段は引き裂かれるような傀儡喰らいさえ、この夜だけは意識を失うことなく乗り越えられた。耐えるべき痛みも和らぎ、要する時も短くなった。この世のすべての魂を飲み込み、食らい尽くすのではないかと思われるほどの底知れぬ力が、体内に蠢いていた。  力の増幅は、玲陽の心を狂おしく犯した。自分から進んで魂魄を求め、ためらいを忘れて相手を食らった。人を目にすれば、焼けるような渇望で手を伸ばした。それは、体に貼りついた炎を消すため、水を浴びるかのようであった。食らっても食らっても、熱は増すばかり。次第と意識が薄れ、頭の中が熱く白く霞んだ。生きた魂まで飲み込み、それでもなお止まらない狂気に、玲陽は自らを呪った。  犀星と再び出会い、都の屋敷で初めて迎えた闇夜にも、乾きは変わることなく押し寄せた。  断ち切ることのできない畏れは、玲陽を孤独へと誘った。陽が落ちるに従って足がすくみ、一歩たりとも部屋を出ることができなかった。  誰にも会ってはならない。  戸の向こうから、犀星の優しい声が自分を呼んでも、玲陽の震える手は板戸を開くことはできなかった。  誰にも悟られぬよう。犀星さえ、遠ざけた。  新月の夜は繰り返し、焼け付く力の火の雨は玲陽の身に降り続けた。  熱い体に反し、心は凍った。夏が近づき、夜の風は暖かく肌に|温《ぬく》いというのに、玲陽の心は冬の冷気を帯びていた。  戸を締め切り、息をひそめる。部屋に閉じこもり、人目を避ける。都に慣れて半年が過ぎても、玲陽の行動に変わるところは無い。新月の夜、欄間から差し込むわずかな星明かり。しかしそれよりも強く輝く己の肉体。  色の濃い着物で身を包んでも、垂れる髪すら微光を放つ。襟を締め、袖に手首を隠して身を縮めるほどに、うっすらと肌に汗が浮く。わずかな縫い目の隙間から透けて見える光。人のものとは思われない、輝く肌が心を縛る。  よく磨かれた鏡が、牀のそばに置かれていた。磨かれた鏡面を覗き、犀星にふさわしくあるために髪を梳くことさえ、喜びだった。  だが、この夜は違う。鏡は、目を向けることさえできない忌まわしさで玲陽を映した。まるで涼景が頬の傷を嫌うかのように、玲陽は鏡面に布をかけた。湯のみの水すら嫌って避けた。  牀の上で褥を重ね、深くかぶって体を縮めて目を閉じる。外からの光ならば、それだけで遮ることができた。しかし、輝くのは自らの体である。どれほど強く目を閉じても、まぶたに感じる白々しさから逃れることはできはしない。  沈むことのない、太陽の白さ。  一晩中、彼を包み込む、玲陽の光。  この光に怯え、数え切れない夜を孤独に過ごしてきた。玲陽の力が強くなることを恐れ、玲博すら新月にだけは姿を表さなかった。逃れる術のない孤独の檻に閉じ込められた玲陽の、冷たく熱い白い夜。犀星を得て、再び生きる希望を取り戻しても、この夜だけは変わらずに残酷だった。  いっそのこと、この世のすべての魂魄を喰い尽くしたなら、この苦しみは終わるのではなかろうか。新月の夜、玲陽は命を喰らう化け物となる。それは死者の魂だけではない。生きる者の命さえ欲してしまう狂気である。すべては、彼の胸の内一つ。  いつしか、玲陽は血が滲むほどに手を握り締めていた。  渇望が湧き出ずる。  生気滴る命を欲する。  何より願うのは、触れてはならない人。玲陽がこの夜に姿を隠すのは、ただその異様な姿態を見られたくないだけではない。真に隠したいのは、求めてやまない魂への執着である。  かすかに夏の虫の音が、聞こえた気がした。壁一枚先の庭の出来事であるはずなのに、玲陽には、はるかに遠い世界の幻であった。  月の巡りの中、たった一夜、決して会わぬと誓った夜。  それが、これほどまでに重く、苦しい。夜が明ければ、あの笑顔に包まれるのだと信じながら、ひとりの闇の中に身を沈め、自らの輝きで自らを焼く。  人にあらざるもの。  幼い頃、周囲から呼ばれた名が蘇ってくる。  人は、父と母の愛を受けて、この世に生まれ落ちる。が、玲陽に父はない。自分には初めからその半分が欠けている。半分どころか、母・玲芳には子を願う心すらなかった。  欲することなく自分を産んだ母を思うと、自身の存在がどこまでもうとまわしく思われてならない。  望まぬ娘の腹に宿り、望まぬ運命を強いてきた。そして、その罰を受けるかのように、今の自分の苦しみがある。  この世に生まれること。それが罪であったのならば、なぜそのような運命に選ばれてしまったのか。  幾度となく、玲陽は自らを責めてきた。  この力に目覚めさえしなければ……  いつなんどきも堂々と胸を張り、大切な人の側に、笑って寄り添えたはずだった。超えられない暗い闇の壁を隔て、その先にいる犀星は、今どんな思いで空を見ているのだろうか。  ひとりになりたいという自分の思いを認め、朝の訪れを祈ってくれている犀星を、玲陽はひたすら想った。  犀星という人ならば、今のこの姿にひるむことはなかろうと、玲陽は甘えた願いを抱いてしまう。全てを許し、受け入れるだろう。許すことができないのは、玲陽自身である。未来を閉ざしているのは、弱く怯えた己の心である。  身を濡らす汗が、少しずつ冷えてゆく。玲陽の呼吸が、かすかに乱れた。新月の夜に溢れる力。やり場のない力は、自分自身を内側から翻弄する。  それは浄化に向かうばかりではない。心臓が強く打ち、血の巡りが早く、息が深く浅く、波のように繰り返される。体内に熱がこもり、時折、一気に冷めていく。その潮汐は、まるで体が死に急いでいるかのようであった。思考が鈍り、頭に血が上ったかと思うと、途端に全身がしびれ、冷え切って動かなくなる。  目に見えないものに支配されている。玲陽の体と心は最後に一言に帰着する。  孤独。  新月は、ただ時をやり過ごす夜ではなく、新たに生まれ出る試練のようであった。  私は月のたびに死ぬ。そして、生まれる。  玲陽は自然と、肩を強く抱いた。  全身の感覚は鋭く、普段は気づかないかすかな匂いにも音にも、敏感に反応する。静まった夜の遠くから、鳥の声が響く。風がそよぐ音すら、耳の底で轟く唸りとなった。  畑でよく育つ韮の匂いがする。雨雲が近づく湿った空気が感じられる。塀の向こうの暁隊のかすかな足音、小さな咳払いさえ、耳元に聞こえた。  自分の内側から目を背けるように、玲陽は外へと感覚を放った。  できるだけ遠くへ。  自分から、逃れるように、遠くへ。  その研ぎ澄まされた感覚に、突如、強烈に刺さるものがあった。  普段であれば感じ取ることもできないほどの細やかな香り。そして柔らかな足音。  玲陽は、思わず全身を硬直させ、そして目を開いた。自らの肌の明かりで、近くがぼんやりと見える。身を起こし、褥を脇に退け、牀から足を下ろす。  床板に触れたつま先から、あっという間に体温が抜けていく。  匂いと音に導かれるように立ち上がると、襟を引き寄せて握りこんだ。何が起きているか、既に玲陽にはわかっていた。  板戸が、静かに叩かれた。  ほのかに灯る体をこわばらせ、玲陽は黙って立ち尽くすだけだった。  闇に沈む夜だというのに、玲陽の肌からこぼれる新月の光が、淡くあたりを映し出していた。  しばらくして、細く戸が開く。  玲陽の喉がごくりと動いた。  外から添えられた両の指先が、丁寧に板戸を滑らせた。木の擦れる音がはっきりと、玲陽の耳底に流れ込んだ。  玲陽は目を見開いた。  板戸の先の回廊に、犀星が、静かに立っていた。  透けるほどに薄い夜着を一枚羽織っただけの姿。長い髪を全て解いて背に降ろし、まっすぐにこちらを見つめるその人は、息が止まるほどに美しかった。  玲陽は唇を噛み締めた。そして、袖の端を握り、目をそらした。  人ではない自分。  犀星にこの夜を見せたことはない。  恐ろしく、胸の高鳴りも重なって、玲陽は顔を上げることができなかった。  先ほどまで聞こえていたあらゆる音が、己の鼓動にとって変わる。鼻腔に忍び込んでくるのは、どこか甘い魅かれる香りだった。  少しの距離に立つ人の、息づく吐息の暖かさ。  玲陽はまぶたを震わせた。闇に輝く金色の瞳は獣のようで、自分ですら直視することが躊躇われる。ましてや、その眼差しで大切な相手を見つめるなど、気が狂う。  戸惑い、立ちすくむ玲陽を、犀星は黙ったまま見つめた。  隠しきれない髪や肌から、月のような光が放たれていた。その輝きは揺れていて、空より水面の月に近かった。溢れる光を纏う玲陽を、臆することを知らない犀星の澄んだ瞳がまっすぐに捉えた。  やがて、犀星は黙って後ろ手に板戸を閉めた。その、優しく木を打つ音が、玲陽のこわばった心を一瞬、震わせた。  わずかな隙。心の緩み。そして、犀星だけが敏感に感じ取る、甘えと期待。  そこに、犀星は一歩、踏み込んだ。  玲陽に近づき、一層、その光を身に浴びる。  初めて突きつけられた玲陽の変化。

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