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1 新月の洸(2)

 それでも、犀星は変わらなかった。慈しみに満ちたまなざしを向け続ける。  濃くなった体温に、玲陽は呼吸を浅くした。逆らえない想いに引き寄せられるように、ためらいながらも玲陽は顔を上げた。  自分に照らされた犀星の顔。  変わることのない、蒼い瞳。だが、一つだけ、その奥に宿る明らかな強さだけは、今までに見たことのない色をたたえていた。  玲陽は何も言えず、瞬きも忘れ、犀星を見つめ続けた。犀星もまた玲陽を見返し続けた。  犀星はさらに一歩、近づいた。足は音を立てず、ぬくもりの増す歩みだった。  玲陽は今度は、目を離すことができなくなっていた。  どちらも、何も、言わない。ただ、視線と距離だけが、二人をつないだ。  それは二人にとって、言葉よりも意味のある静かな語りであった。  私を、あなたは、どう、受け止めるのですか?  無言の問いかけを犀星は聞いた気がした。  そのまま。  力強い答えが、玲陽の胸に響いた。相手を信じ、想う。その心の重なりが時となって、二人を一つに包む。  不意に、犀星の表情が冴えを増した。柔らかい弓月の笑みが消え、決意が宿る目が開かれた。  紺碧の瞳。  玲陽は、自分の光をその中に見た。  刹那、玲陽の全身が激しく震え、一瞬で満たされた喜びを思い知った。ゆっくりと体の緊張が解けていく。揺らいだ玲陽を受け止め、犀星は抱き寄せた。二人の体が距離をなくし、ぴたりと寄り添った。  犀星の唇が薄く開いた。 「陽……」  静けさに埋め尽くされていた空間に、今宵初めて、犀星の声が響く。 「覚悟を、聞きに来た」  覚悟……?  意味を探り、玲陽の視線がさまよった。  犀星は、わずかに肩を落とした。袖の中をまさぐり、薄紅色の小さな瓶を探し当てると、両手でそっと、玲陽の前に差し出した。  玲陽は壺を見た。それがなんであるか、玲陽はすぐに察した。鋭敏になった嗅覚が、壺からわずかに漂う匂いを感じ取った。  甘い柑橘の混ざる油。  その現実は、余計に玲陽を躊躇わせた。額の奥に熱が生まれ、思考が混乱した。  犀星は片手を伸ばし、玲陽の手を取った。着物を握り締めていた指をゆっくりと開かせ、壺を手のひらの中に預けると、両手でそっと閉じさせた。  玲陽の手の中で、壺は犀星の体温を孕み、熱く、温もっていた。その熱こそが、犀星の覚悟だった。  短い息が、唇からこぼれた。犀星が来た意味が、玲陽の心に突き刺さった。  答えることもできず、壺を握り締める。不規則に乱れる息、体の端々の震え、戸惑う眸。  一瞬たりとも見逃すことなく、犀星はそんな玲陽を見守っていた。  玲陽に問いかけた覚悟の行方。  月に一度の隔たり、埋められない溝を、共に超えたい切望。  犀星の表情に、強く深い想いが滲む。  たった一夜であろうとも、犀星には、孤独の中に身を置く玲陽を見過ごせはしなかった。  たとえどれほど二人の距離が近づいたとしても、寄り添えない一夜がある限り、玲陽は孤独から逃れられない。  玲陽が自ら踏み越えられない淵なのだとしたら、犀星から渡れば良い。  遮るものが、黒く冷たい水であろうとも。  犀星には、想像もつかないほどの苦しみを味わってきた玲陽の痛みを思えば、迷う事ではなかった。  半年。  時を待った。  勝気な玲陽が動くために必要な猶予ならば、待つことは犀星の耐えるべき役であった。  だが、固く凍りついた最後の一線、この夜だけは、玲陽一人で超えることのできない深みなのだと、犀星の心は定まった。  今宵、覚悟を。  手を伸べ、犀星は指先で玲陽の頬に触れた。  しっとりとしたその感触は、犀星にとって心休まる安心の証でもあった。  指先に、光が跳ねる。蛍を手に止まらせたような、初めて触れる白い輝き。  玲陽の命が燃えている。  そう思うだけで犀星の内にたまらない思いが弾けた。  一呼吸、一呼吸、拒まぬことを確かめながら、犀星はそっと腕を絡め、玲陽の肩を抱いた。頬を重ね、目を閉じる。  玲陽の光は犀星染め、犀星の匂いは玲陽の肌から染み込んでいく。  犀星のひたむきな抱擁は、静かに玲陽を煽り立てた。  玲陽の体は、ひたすらに唯一の相手を求めていく。心はとっくに奪われ、逃れられるはずがなかった。  みなぎる力が、魂を求めた。その衝動を、玲陽は必死にそらした。あまりに簡単に、玲陽は犀星の命を奪う術を持っていた。だからこそ、己が恐ろしかった。一瞬、気を緩めたが最後、犀星の魂は玲陽のものとなる。  危うい瞬間が何度も押し寄せ、その度に玲陽は心を奮い立たせた。かろうじて理性が均衡を保った。同時に、肉体は別の渇きを訴えた。  それは玲陽にとって、最も忌み嫌う出来事と酷似していた。かつて自分が受けた認めがたい屈辱の記憶。だというのに、自分が嫌悪するそれと同じ情動が、玲陽の中に膨れ上がる。  自分が穢れの化身と思われ、恐ろしくてならなかった。  その想いは、無言の動揺となって犀星に救いを求めた。  傷をいたわりながら、犀星は玲陽の背に触れた。着物の奥の肌が、じわりと熱かった。腰の帯に、指を滑らせる。幾度も撫でる指先に、許しと励ましが込められていた。その動きは柔らかく軽く、決して焦ることはない。  時折、甘くあやすように顔や首に口づけ、ぬくもりを確かめる。  玲陽は動けぬまま、犀星に触れられるまま、身をまかせた。玲陽にできる事はそれだけだった。自ら動く勇気はなく、だというのに逃げる心も起きなかった。  いつまで、耐えられるかすらわからない。それでも、玲陽は耐え続けた。  一瞬でも長く、この優しい人を傷つけずにいたかった。  その心をあざ笑うかのように、抑えがたい期待が足元から這い上がってきた。  玲陽の葛藤を、犀星はしっかりと受けとった。  見せたくないのならば、見せずとも良い。  言葉にはせず、その優しい腕と唇で伝えてゆく。  それでも、俺は、ここにいる。  犀星の柔らかさは強烈な刺激となって、玲陽の全身を駆け巡った。  繊細な指先、暖かな吐息、確かな唇、惜しげもなく包み込む無防備な肢体。  玲陽の膝がわずかに揺らいだ。立っていることさえあやしくなる。  犀星に預けられた壺は、玲陽の熱を吸って、より熱く火照っていた。犀星の覚悟の証であり、自分に預けられた未来の選択。  先へ踏み込むだけの勇気は、玲陽には計り知れない恐怖と同義であった。  犀星はそっと玲陽の体を支え、一歩前に出た。その力に押し流されて、玲陽は一歩下がった。しばらくして、また、一歩。  やがて、玲陽は押されるままに牀に腰を下ろした。  そのまま犀星の重みを受けて、背を横たえる。傷を負った背中が敷布に擦れ、二人分の重みでじりじりと痛む。  だが、その痛みすら、今夜の玲陽には甘く感じられた。むしろ恍惚とさせる刺激ですらあった。  犀星は唇を震わせ、玲陽と額を寄せた。その姿に昨晩と変わるところはなく、明日の夜とも変わらないだろう。  玲陽の忌避するこの夜とて、犀星には想い溢れる星夜に過ぎない。  白く輝く月の光を帯びた玲陽の姿は人とも思われず、それでも募る思いは変わることはない。  涙に濡れた金色の瞳があまりに眩しく、思わず犀星は目を細めた。 「覚悟……」  玲陽の震える声が、かろうじてそう呟いた。  犀星は無言で小さく頷いた。  玲陽とともに、この夜を乗り越える覚悟。  月に一度の空白を埋める覚悟。  人と、おそらく人ならざるものとの間に、永遠の契りを交わす覚悟。  玲陽が傷つき、憎み、永遠に遠ざけようとした拒絶の全てを、自らの存在と置き換える覚悟。  理性と本能、そして言葉では説明のつかない思いの数々を、たったひとつの夜に込めて、共にある、その覚悟。  玲陽は息を殺し、見つめた。  淡く白々と、犀星の表情が冴えている。  私が、あなたを照らしている。  そう思った時、玲陽の中に想像すらしていなかった思いがほとばしった。  あなたを染めたい。  この人のすべてを、私で染めたい。  何もかも。  それは支配か、独占欲か、それとももっと原始的な思いか、その判断は玲陽にもつかない。  ただ一つ確かなことは、この夜を、自分の手で包み込んでしまいたいという、強く逆らいがたい願いだった。  玲陽はゆっくりと、しかし淀みなく犀星に手足を絡めた。体勢を反転させ、犀星を胸の下に封じる。抵抗なく、犀星はその力に身を任せた。  玲陽は見下ろし、声を寄せた。 「……私の覚悟を、あなたに……」  玲陽に言えたのは、それがすべてだった。  今まで二人の間で交わされた数え切れない言葉を、たった一言に込めた。  犀星が笑った。  まるで好きな菓子を差し出された少年のような、あどけない笑み。  だが、与えるのは玲陽ではなく、犀星である。  甘い菓子ではなく、傷つく己の運命である。  それでも、犀星の笑みは穏やかだった。  玲陽は緊張を浮かべ、黙ったまま、犀星の帯に手をかけた。いつもは硬い結びめが、今夜はなぜか緩んでいた。  震える玲陽の指でも、片手で容易に解けるように。  それが余計に玲陽の胸を熱くした。  犀星は預けるだけで、決断は全て、玲陽に渡していた。玲陽の意に任せ、そこに信頼を置いた。  犀星の心と体を案じながら、玲陽は静かに体を落とした。  自分が受けてきた苦しみは、自分がどうするべきかを教えてくれた。  良心の呵責。戸惑いを打ち消すように、玲陽の指が小壷を弄んだ。油紙で蓋がされ、細く|撚《よ》り合せた麻紐が封を閉じる。紐を指先で器用に解くと、ことさら、甘い香りが牀に満ちた。  安眠を誘う香り。しかし、今夜は火を灯さずとも、明るい。玲陽は唾を飲み込んだ。体は勝手に燃え上がり、どくどくと血の流れが荒れ狂う。  犀星は己の人生を託して、今夜、玲陽の元に来た。  その重さがわかっていながら、玲陽はどうしても、想像し、微笑せずにはいられなかった。

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