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1 新月の洸(3)

 不器用な犀星が、人目を盗みながら壺を用意した横顔を。  自然と唇が笑み、温もりが広がった。  指先で香油の壺を転がし、縁をこすり、垂れる熱い露を指の腹に感じ、もう一度犀星の顔を見下ろした。  言葉など必要ない。答えなら、とうに出ていた。  犀星は感情を隠そうと目元を緊張させ、それでも必死に玲陽へと顔を向けていた。  玲陽はさらに微笑した。  新月の夜、変わり果てた自分の前に、自らを差し出しに来た犀星。  その決心は、玲陽の最も弱い心を励まし、力づけ、未来を信じさせるに至る、十分なものだった。  静かに、夜風が屋敷を包んでいた。  その風にも劣らぬ優しさで、玲陽は犀星を抱いた。甘い香油の香りが、少しずつ二人の肌に触れ、深くへと染みてゆく。  夜を震わせる吐息は、玲陽のものばかりだった。犀星の胸は時折、思い出したように大きく上下し、そのたびに玲陽は夜空の色の髪を撫で上げた。  犀星はただ静かに委ね、目を閉じていた。その表情はまどろむようで、安らぎをたたえていたが、敷布を握る指先は硬く、痛みと、別の感情のうねりを押し殺しているかのようだった。  息に混じる甘い香りと、肌が触れ合う音。  玲陽の喉が鳴り、犀星の胸が震える。  玲陽の光が濡らすように、犀星を染めていく。  新月の光に抱かれ、長い夜に交わる想い。  そこにあるのは、時を越えて慈しみあう、月明かりより透き通った二つの魂だった。  かつて、苛み、嫌悪した出来事は、記憶の彼方へと遠のいた。代わりに、腕の中にほのかに揺れる香りが、体と心の隅にまで満ちて、見える世界が形を変えた。  何を恐れ、何から逃れようとしていたのか。  自らの妄想が肥大させた中身のない影は、今、名残を惜しむように引いていく汗とともに夜の中へ消えてゆく。  玲陽はそっと手をかざした。  自らの光を頼りに、犀星の背中をたどる。なめらかにゆっくりと上下する肩と、それに合わせて伸縮する整った筋肉。次第と平静を取り戻すその波を数えるように、玲陽の目は眠たげに瞬いた。  自らの肌が大切な人を照らしだす。燐光が夜目に優しかった。  犀星の体は、着物から抜け落ち、白い背中が無防備にこちらに向けられていた。  犀星が背中に触れられることが苦手だと、とっくに玲陽は見抜いていた。  そっと指先で触れれば、ぴくりと震え、求めるように吸いついた。遊ぶように優しくたどり、犀星の背が丸くなるたびに狂おしいほど優しさを覚えた。小さく身悶えをくりかしながら、それでも犀星は振り返らなかった。玲陽は満足そうに頬を緩め、さらに目を細くした。  息が二人分、静かに弾んでいた。  言葉はなく、ただ触れ合える距離で横たわるだけだった。それでも、思いは確かに溶け合い、混ざり合った。  沈黙は時として雄弁になる。  相手の胸の中に想いを馳せれば、そこに確かに自分を見つけられた。  玲陽は、我知らず、微笑んでいた。  共に暮らして長くなる中、犀星が自分に背を向けて眠ることは珍しい。  今は顔を見られたくないのか、それともただの偶然か。  飄々として、いつも静かに言葉を紡ぐ犀星が、時折見せるその羞恥。それが玲陽にだけ向けられた甘い感情であることが、高揚へと誘う。  私だけが知っている、この人がいる。親王でもなく、有能な政治家でもない。私のそばで生きる人。  玲陽は大きく息をついた。  それを最後に、鼓動が静けさを取り戻した。  いつしか犀星からも規則正しい、緩やかな呼吸が感じられた。  生きる時間が重なり、血潮までが繋がっていた。  二つの体も魂も、その境界をなくして染めあった。  玲陽は脇に散っていた褥を引き寄せ、腰もとへ引き上げた。布の端を整えながら、暖かな沈黙を味わう。  激しい風が吹き抜けた後の静けさは、不思議な響きを奏でているようであった。  この調べは、きっと、あなたにも聞こえていますね。  玲陽は唇を緩め、犀星のうなじに寄せた。|和毛《にこげ》を甘噛みし、息を深く吸い込む。玲陽の胸に合わせて、犀星もまた、息を吐いた。 「何を、考えているのですか」  玲陽の声が細く尋ねた。犀星の心の底まですくいとり、何もかも、自分の身のうちに収めてしまいたかった。  だが、犀星のしなやかな気配は、玲陽の指の間から、いつも容易にすり抜けてしまう。与えられるほどに、寂しさも募った。 「星?」  唇を押し当てたまま、玲陽は答えを促した。犀星はわずかに、膝を抱えた。 「名を」  短く、答えが返ってくる。その声は玲陽以上に掠れていた。 「名前?」  犀星は玲陽に身を沿わせながら、そっと上体をねじり、天井を見上げた。横顔があまりにも美しく透明で、玲陽は見惚れた。  犀星は目を閉じると、片手を自分の下腹部に伸ばした。手のひらで、腹をさする。玲陽の手がそれを追い、触れ合う指が鈍く痺れた。 「この、名を」  犀星のほどけた声が、ほの白い光の中で聞こえた。 「俺は、今ほど、自分が女であればよかったと思ったことはない」  何か言葉を紡ごうとして、玲陽は吐息しか選べなかった。  玲家の血を継ぐ、皇家の女。  生まれる前からかけられた望みは、どれほどに犀星の運命を歪めたことだろう。  望まれぬ体と存在を、犀星が自ら言葉にするのを、玲陽は初めて聞いた。さらけ出された想いは、深い痛みとともに耳に刺さった。  犀星は、腹の奥に宿る残光に心を傾けた。 「|洸《こう》」  秘めた囁き声が犀星の唇から溢れ、玲陽の光を波立たせた。  玲陽の指が、犀星と絡み合った。どちらのものとも知れない乱れた髪を払い、玲陽は犀星のまぶたに口づけた。  犀星は細く目を開くと、視線を玲陽へと向けた。  蒼の瞳が、はっきりと自分の光を宿し、輝いていた。  玲陽の目に映るそれは、たまらなく愛しかった。  玲陽は、笑みを浮かべた。鏡のように、犀星の唇も弧を描く。  重ねた手の下で未来が生まれた。夜は煌びやかに星をいただき、時が止まったように瞬き続けた。  月のない晩。  天輝殿の石の間の前にたたずむ、夕泉の姿があった。  扉に額を添え、両の手のひらをあてがい、じっと目を閉じて時が過ぎるのを待つだけである。いつの頃からか、こうすることが習慣となった。  分厚く重たい石の間の扉は、内側からしか開かない。  月に一度の闇夜には、石の間が使われることはなかった。それもまた、いつからか慣例となっていた。  夕泉の足元に、湿気を帯びた風がまとわりつき、時間をかけて抜けていった。警備の兵が灯す小さな明かりの他に、目を引くものもない、闇に沈む回廊。  夕泉から数歩離れて、備拓はその姿を見つめていた。  巡回の警備兵が、時々、思い出したように静かに足音を響かせて、備拓の横を通り過ぎて行く。手元明かりが夕泉の着物を照らしても、振り返ることはなかった。  無害で無益で無能な親王。  備拓も含め、誰もがそっと、夕泉の存在を脇に避けて、見ようともしない。見る価値もない、と言わんばかりの距離をとる。それは幼い頃から、この親王の特性として、自然と浸透していた。  顧みられることのない、静寂の親王。それが夕親王だった。  せめて姿が追えるよう、備拓は二人の中程に、白い布を張った行灯を置いた。光は景色を照らしたが、その景色が動くことはなかった。  回廊の柱も、扉も、夕泉も、そして見守る備拓も、時が止まったように動かなかった。行灯の油だけが、まるで夕泉そのものであるかのように、無益に、燃え尽きていった。  備拓は感情のない顔で、夕泉の静物のような背中を見続けた。  夕泉の近衛でありながら、どうして主人がこのようなことをしているのか、ビタ理由を問うこともなかった。  危険な場所に出て行く訳ではない。何かをする訳でもない。天輝殿の深く、兵たちが守る場所で、じっと立ち尽くすだけの行為に、追求する意味は見出せなかった。近衛として、格別に気にかける必要もなく、ただ、命じられるままに行き帰りにつきそうのみである。その行程さえ、何かを求めることもなく、左近衛の都合のいいよう、指示には黙して従った。  左近衛の規模と実力を思えば、この任はあまりに役不足であった。  備拓はふと、少し前の異例を思い出した。  この静寂の親王が、玄武池の視察を望んだことがあった。  都どころか、宮中から出ることさえしない夕泉にとって、それは考えられない行動であった。  だからこそ、例外ではあったが、備拓は左近衛を動かした。  あまりに静かすぎる夕泉の、かつてない我儘を、許してみたくなった。  しかし、慣れぬことはするものではない。  予期せぬ事態に遭遇し、あろうことか、玲親王の近侍の手をわずらわせる事態となった。あの一件は確実に、備拓の苦い経験として残り続けていた。  あまりに極端な比較ではあるが、左右の近衛の有り様はまさに、正反対である。どちらが正しいと断言はしないが、備拓の中で、黙々と職務に準ずるだけの姿勢に、疑問が生まれていた。  知らねばならぬ。  眉ひとつ動かさず、備拓は思った。  夕泉が何を思い、何を目的としているのか、せめて、自分は知らねばならない。涼景が玲親王を理解するほどではないにしても、もう一歩、踏み込む必要がある。  備拓の思慮深い眼差しは、呼吸すら感じられない夕泉の姿に向けられたまま、ただ何事もなく、夜だけが薄れていった。

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