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2 白(1)
夏の気配が日増しに濃くなったある日、珍しい客が五亨庵を訪れた。
無言で開かれた戸の音に、一人、留守番をしていた慈圓が顔を上げた。
逆光の隙間から、細い人影がこちらを覗いていた。
一瞬、慈圓は眉を寄せた。
淡い柿色の長袍に生成りの長布を首元に巻き、白すぎる目元に薄化粧を施し、およそ軍人とは思われない出で立ちながら、腰にはすらりとした直刀を緩く吊るしている。
「梨花?」
問われるように呼ばれて、蓮章は頷いた。
「俺です。あいつは裏にいます」
慈圓の目が中庭の戸に向いた。姿は見せないが、戸がわずかに開いていた。
「伯華様ならば、今日は奏鳴宮だぞ」
「知ってます。おかげで、俺はこれから暁番屋ですよ」
蓮章はゆっくりと庵を横切って、慈圓の席に近づいた。
「あっちに行く前に、少し師匠と話がしたかったので」
「珍しい。おまえの方から来るとは、天災の前触れかもしれんな」
「ご明察」
蓮章は、にこりともせずに呟いた。慈圓の顔が険しくなる。
「ようやく、決心したか?」
「まぁ、一割ほど」
「残り九割の懸念はなんだ?」
「あなたのもう一人の弟子のことです」
慈圓は腕を組んだ。
「仙水には話してないのか?」
「どうせ、反対されるのはわかっているので」
蓮章は、中庭から差し込む光に目を向けた。戸の向こうで、自分によく似た蛾連衆の男が立ち聞いているはずだった。
「涼を説得するのが、一番の難題でしょうね。誰に似たんだが、相当頑固で融通が利かない」
「悪友を持つものではないな」
慈圓は責任を逃れた。
「おまえのことだから、それ以外の計画は万端と思うが」
蓮章は、わずかに目を伏せた。
「自分がこれほど悪辣で情けに通じぬ男だったかと、嫌気がさす程度には」
その声には、未だ決心のつかない迷いが滲んでいた。
慈圓は一つ唸って、口を結んだ。
散々、蓮章を焚きつけてきた慈圓である。今になって、その決心を折るつもりはないが、胸の内に棘が刺さる思いがした。
物心もつかぬ頃から、慈圓は蓮章の成長を見守ってきた。彼の情け深さは、誰よりよく心得ていた。深い想いを一つ一つ封じ、理屈と可能性のみを削り出し、心の柔肉を抉り取りながら、一割の計画を練り上げたはずだった。
ここに至るまでの心労の凄まじさは、頬に乗せた粉化粧の色からも想像に容易かった。
「今日、ここに来たのは、師匠に一つ、見解を伺いたく」
蓮章は声を落とした。聞かれて困る相手はいないが、言葉にすること自体が憚られた。
「俺は、親王が間違っているとは思わない。だが、同時に、危うさも拭えない。心を開いているようで、実際には明かさない闇を秘めている。陽に対してさえ、そう、見える」
慈圓は、じっと蓮章の言葉の続きを待った。
蓮章はわずかに、犀星の席を振り返った。
稀に見る美しい庵、その主人のものとは思われない、質素で閑散とした几案の周りには、冷たい風が止まっているように思われた。
「歌仙親王は御せない」
蓮章は静かに行った。
「俺の判断の是非、五亨庵に誰より長い師匠に問いたく」
黒と灰の鋭い眼差しが、長い睫毛の下から慈圓を捉えた。
正しき後継を見抜く。
それは、蓮章にとっても、慈圓にとっても、決して誤ってはならない一点であった。
皺の刻まれた慈圓の目元が、厳しさとわずかなためらいを浮かべ、蓮章を受け止めた。長い沈黙の末、慈圓は口を開いた。
「同意だ」
その一言は、慈圓が五亨庵で下してきた数知れない判断のすべてより、重く、苦しいものだった。
夕泉親王の邸宅は、中央区の西側に位置する奏鳴宮である。
此度、主人が西苑に避寒の間、一冬をかけて庭と離れの改築を行った。雪の季節に進める工事とあって、作業は難航した。普段は特に目立つことをしない夕泉が、今回に限っては随分とことを急いだ。
夕泉親王と歌仙親王の会見の日。
奏鳴宮は、昨年以上に美しく優雅な姿を、少し汗ばむ初夏の陽気に輝かせていた。
犀星は玲陽と東雨を伴い、涼景と右近衛隊とともに、都の邸宅から直接向かった。
夜の冷気がまだ少し残っているが、例年よりも暖かい日であった。
色が深まる空は、柔らかい光に満ちていた。降り注ぐ光は日毎に強くなり、会見の緊張に一つの味を添えた。
風は緩やかで、道沿いの新緑の枝葉がさらさらと音を立てて揺れていた。
犀星は、白に近い灰色の外袍をまとっていた。襟はさらに薄い色合いで、水を思わせる文様が、群青の細い糸で縫い取られている。袍の袖は広げすぎず、正式な装束ではないが、犀星らしい、機能性を重んじた形である。
冠はつけず、髪飾りはいつもの銀の歩揺に添えて、もう一本、緑の玉をあしらった短いものを刺していた。あぶみを踏む黒い靴の縁に、暗い金色の装飾模様が見えた。派手さを好まず、それでも久方ぶりに会う兄に対する敬意を払ったものを選んでいた。
寄り添って馬を進める玲陽は、着慣れた濃い墨色の袍に、同色の直裾姿である。重ね襟に差し込まれた暗い赤色が、玲陽の深い洞察を表しているかのようだった。初夏には厚手と思われる重たい生地だが、玲陽の緊張を解くには慣れたものが良いと、犀星が選んだ。普段は梳くだけで手をかけない髪は、脇をすくって少しだけ結っていた。髪紐の深い朱が艶やかに、玲陽の繊細な美しさを際立たせた。帯に通した玉佩は、犀星から贈られた犀家の家紋をあしらった逸品である。
二人を視界に捉え、少し後ろに東雨が続く。玲陽以上に表情をこわばらせ、すでに額にうっすらと汗が浮かんでいた。淡い青の絹の衣は、かつて犀星が身につけていたものである。近侍としての初仕事だから、と、犀星に着物を新調することを勧められたが、東雨は笑って、若様の着物を下さい、とそれを断った。東雨にとっては、新しいものより犀星の古着の方が心地よく、誇らしかった。
先頭の涼景は、背後の三人を思って、わずかにため息をついた。
玲陽も東雨も、呆れるほどに、犀星に染められている。かく言う涼景も、今日は犀星の大太刀を代わりに身につけていた。兄である親王を訪問するとあって、犀星自身が刀を帯びることはない。だが、それでは気が済まないらしく、出がけに大太刀を押し付けられた。せめて、自分で身につけると言わなくなっただけ、犀星も立場をわきまえてきたようである。
閉塞感を嫌って帳車より馬を選ぶ犀星のために、近衛の騎馬が身を盾にして内側を守っていた。その外を、湖馬に指揮を任せた徒歩の者が囲った。
足並みを乱さぬよう注意しながら、湖馬は馬上の東雨を目で追っていた。正装の東雨は、犀星以上に珍しい。思わず口がぽかんと開くのを、何度も慌てて閉じた。
東雨のほうは、そんな視線に気づく余裕などなかった。儀式的な行進だとわかっていても、戦に臨む軍隊を彷彿とさせて、緊張が高まってしまう。物々しさに、肩を縮め、唇を固く結んでいた。
静かに馬蹄が石畳をたたき、鼓のように楽を奏でていた。
中央区の道は広く、縦横にまっすぐ延びており、両脇には青々とした植栽が見られた。道沿いに貴族や高官の邸宅が並び、土塀門がどっしりと影を落としていた。
すれ違う官吏や貴人たちは道を開け、囁き合いながら犀星と玲陽を眺めた。本来であれば、顔を直視することは非礼であるが、歌仙親王一行はそのようなことにうるさくないと、都の誰もが知っていた。
玲陽はゆっくりとあたりを見回した。
誰もが一目で覚える金色の髪の承親悌。夏の日差しはその髪をさらに眩しく輝かせた。見た目に鮮やかな玲陽の姿は、犀星以上に人目を引いた。
少し前まで、好奇の視線に怯えていた玲陽も、今は堂々としたものである。犀星の横顔を少し後ろから見つめながら、まっすぐに顔を上げていた。犀星がわずかに振り返り、微笑んだ。玲陽は目を細め、それから頷きを返した。
東雨は、そんなふたりのやりとりに安堵を覚えた。赤褐色の礼服に身を包んだ涼景の背中も、一段と頼もしかった。
やがて、道が静まり、一行は奏鳴宮の敷地に入った。
道の両側の樹木が高く、日差しが柔らかく緩む。風が吹くと、道に映る梢の影が、木漏れ日を散らして大きく揺れた。
奏鳴宮の前庭は奥行きが深い。広い敷地は、有事の際には軍隊の拠点ともなった。
梢の緑の向こうに、蔦の絡まる門が見えてきた。
門構えはひときわ静謐で、装飾は控えめである。扁額には名の代わりに、夕泉が好む百合の花の紋がかけられていた。
門を抜けると、足音は石畳から砂利へと変わり、馬が少し深く沈んだ。
ぬるく吹く風に混じるのは、湿った土と新緑の青さ、そして、わずかな沈香。
涼景は、門の奥で待ち構えていた備拓と目配せした。
夏史の一件以降も、備拓は変わらず、夕泉のそばを守っていた。
外周には近衛の他にも私兵が巡回していた。玲陽の目には、その警備は厳重で重く写った。だが、親王の邸宅であれば、これが静かな日常であった。人気のない犀星の住まいが異質なのだと、玲陽は改めて思った。
先に馬を降りた涼景が、犀星へと手を差し伸べ、下馬を助ける。もちろん必要はないのだが、これもまた儀礼の一つである。
玲陽は素早く一人で馬を降りた。犀星より遅れると、犀星自ら玲陽に手を伸ばしかねない。あらかじめ、涼景には急ぐように言われていた。玲陽の手を取る機を逃した犀星が、わずかに残念そうな表情を見せた。
備拓が厳かに犀星に近づいた。視線を下げたまま、手を胸に当てて一礼する。
「玲親王殿下、並びに承親悌・玲光理様、夕泉殿下が、中庭にてお待ちにございます」
犀星は真面目な顔で頷いた。
備拓は先に立って、正面の回廊へ案内した。
柱と柱の間がゆったりととられた回廊は幅も広く、天井は高く、風と光がよく通っていた。涼景が死角を確認しつつ、最後尾についた。油断のない気配を背中に感じ、東雨はほっと息をついた。
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