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2 白(2)
足元の石は新しいが、光沢を抑えた色味は少し古めかしい。それは夕泉の人柄を表すようであった。ほのかに香が漂っている。焚かれているのか、それとも柱に染み込んでいるのか、東雨にはわからなかった。格式に緊張しつつ、同時に、これからの会見に胸が高鳴る。このような公式の場所に堂々と同席できることが嬉しかった。
回廊は途中で内側に折れ、中庭へと向きを変えた。屋敷のいたるところに、左近衛が控えていた。皆、静かに緊張した眼差しである。
夕泉の元を人が訪れる事は滅多にない。それが何かと騒がしい五亨庵の面々となれば、左近衛隊にとっても興味を誘うものであった。
備拓は部下に視線を走らせ、警備の状況を確認しながら、奥へ進んだ。
犀星は、先を伺った。
遠くから琴の音色が聞こえる。風が、回廊に吊した陶器の玉を揺らし、涼やかな音を立てた。
夕泉の屋敷では、常にささやかな趣が見え隠れする。
昔から変わらぬ。
犀星は、兄の面影を懐かしんだ。
この場所に玲陽を連れてくること。
遠い日の約束が、今、果たせるのだと思うと、胸にこみ上げてくるものがある。
初めて夕泉に会ったとき、犀星には、その姿が玲陽に似ているように思われた。それを告げると、いつか玲陽を連れてくるようにと、夕泉は命じた。
あれから長い年月が流れ、今こうして約束が現実になろうとしている。
犀星は少し歩みを落とした。それに合わせて玲陽も歩幅を小さくする。犀星は後ろに手を伸ばし、玲陽の袖を掴んだ。
どうしたものかと、玲陽の視線が揺らぐ。まさか、手をつないだまま、目通りを願うわけにはいかない。いくら犀星が自由であり、夕泉が寛容であったとしても、だ。
玲陽は一瞬だけ犀星の指先を握りしめ、それから優しく押し出すように手を離した。
犀星は何も言わず、しかし、どこか名残惜しげに指を揺らし、やがて諦めたのか、体の横に戻した。
東雨からは、その様子が丸見えだった。
若様、嬉しくて仕方がないみたいだな。
表情には出さない犀星の胸中を思って、東雨は思わず、にんまりと笑った。
ふと、行く手から外の風が吹き込んできた。かすかに、水が流れる音が混じっている。涼景の後ろに続いていた近衛が自然と遅れ、距離をとった。ここから先は、立ち入りを許された者だけの領域である。
視界が開け、床板が扇状に広がった。中庭に面した広縁には、雨上がりのように光が浅く溜まっていた。
備拓は足を止め、一礼し、進路を示した。
涼景がその横に立ち、視線で東雨を呼んだ。
東雨は犀星と玲陽に惹かれつつ、一歩だけ、涼景に寄って姿勢を正した。
犀星は広縁の向こうへと目を向けた。足元に白砂が敷かれ、低木のみずみずしい緑が庭をぐるりと囲んでいる。ここが宮中の只中であることを忘れさせるように、静謐な空間が広がっていた。
玲陽は、庭の奥へ視線を投げた。屋敷の屋根よりも高い石の壁が見えた。その上からは、一筋、細い滝が流れていた。滝の水は池へと下り、そこから小さな川となって広縁との境を流れていく。
わずかに、玲陽の心臓が高鳴った。
湿った風は、肌にべったりとまとわりついた。
庭へ降りる小さな橋を渡って、犀星は白砂の上に立った。踏みしめる音は、小川の水音に吸い込まれて、思いのほか静かだった。犀星は足元を確かめ、玲陽を振り返った。
おいで。
遠くを見ていた玲陽は、差し出された犀星の手に、一瞬、息を呑んだ。涼景と東雨を盗み見ると、ふたりとも、どこか諦めた顔でわずかに頷いた。
玲陽は深呼吸して息を沈め、橋を超えて犀星の手に指先を預けた。するりと滑って手首を引き寄せられ、玲陽の足元の砂が騒がしく鳴った。ふわりと犀星の胸に抱気止められ、その力強さにくらりとする。どうしてよいのか、玲陽にはわからなかった。
犀星は玲陽の顔を覗き込むと、頬の髪を優しく耳にかけ、整えるふりをして後ろ髪まで指を通した。
玲陽は犀星と目を合わせた。近すぎる不安をまなざしで訴えたが、犀星はわずかに首を横に振っただけだった。
玲陽は、自分が招かれた理由を思い出した。
想い人……いや、だからって……
玲陽は、ここが夕泉親王の邸宅という整った場所であることも忘れて、はにかんで唇を噛み、目を伏せた。
胸がどくんと強く打つ。玲陽には夕泉という人物がわからない。犀星が懇意にしている兄、という前情報があるだけである。
どんな顔をして会えばよいのか、想像もつかなかった。
犀星は微笑んだ。困り果てていた玲陽の顔に、ぎこちない笑みが浮かんだ。
今は、流されるしかない。
玲陽は覚悟を決め、背を伸ばした。犀星は玲陽の腰に腕を回し、寄り添うように引き寄せた。
東雨のまっすぐな目が、一瞬たりとも見逃すものかと、犀星と玲陽に注がれていた。本当であれば、共に行きたいところであるが、それは礼に反する。恨めしげに横目で涼景を見ると、涼景もまた、呆れ顔でわずかに肩をすくめていた。
犀星は玲陽と呼吸を揃え、砂利の中の石畳を、池の方へとゆっくり歩き始めた。
池に沿って続く道の左右には、中心だけ紅色に染まった白百合が花開いていた。
え……?
玲陽が、わずかに歩調を乱した。犀星はそれを支え、不思議そうに玲陽の横顔を見た。金色の瞳が、なぜか、怯えたように見開かれていた。
ただの緊張ではない。
犀星が直感し、足を止めた時、視界の隅で人影が動いた。
石畳の道の途中に建てられた、淡い木肌の東屋から、夕泉親王が姿を見せた。
犀星は、そっと、振り返った。そして、ごくり、と喉が動いた。
ひとり、日差しの中に立つ夕泉は、生成りを帯びた袍に身を包んでいた。色は白に近いが、犀星のそれとは違い、光を返さず、ただ静かに吸い込むようである。
風に揺れる衣の軽さが、この親王が長く外に立つ者ではないことを、雄弁に物語っていた。口元の面纱の絹が音もなく揺れた。
「伯華」
か細い声が、涙交じりに庭の空気を突き刺した。
「ああ……っ!」
声を震わせ、夕泉は柔らかな裳の裾をはためかせて、早足で犀星のそばへ寄った。一段、重くなった玲陽を感じながら、犀星は静かに目を下げた。
「|姜《きょう》兄上……?」
犀星は、夕泉の名を呼んだ。白い衣が視界を覆い、夕泉の長身の肩が犀星を包んだ。嗅ぎ慣れない香りに、思わず、犀星の体が強張った。本能的に、半歩下がって斜めにうつむく。
「すみませぬ……そなたに会えたことが嬉しく……」
涙ぐんだ夕泉の声は、初夏の太陽に簡単に溶ける薄氷のように弱かった。
犀星はわずかに首を横に振った。
玲陽は恐る恐る、犀星の顔を覗いた。その表情を目にするや否や、玲陽の胸は詰まり、耳の奥に水音が大きく反響した。
どうして……?
玲陽を|戦《おのの》かせたのは、犀星が滲ませた戸惑いだった。懐かしい兄との再会を喜ぶ心は、そこにはなかった。凍りついた蒼氷の表情の下に透けて見えるのは、危ういほどの怯えだった。腰を引き寄せる犀星の手の感触に、ざわりと玲陽の肌が泡立った。手を握りしめ、玲陽は弾けそうになる息を押し殺した。
何かが、崩れ始めていた。冷や汗が、背を伝った。
「伯華」
夕泉の声が、どこか遠くで聞こえた。
「わたくしは、ずっと、そなたにお会いしたかった…… そなたが病に臥せってから、どれほどこの日を待ちわびたことでありましょう」
夕泉の声は綿毛のように柔らかく、同時に他人事のように上滑りして、犀星の心をかすめた。
「兄上」
犀星はまるで、声が出ることを確かめるように、小さく呟いた。
「兄上に御心痛をおかけし、心苦しく思います」
「そのようなこと……」
夕泉は、手こそかけなかったが、わずかに腰をかがめて、顔を寄せた。
「こうして、またわたくしに姿を見せてくださったこと、どれほど嬉しく、心救われる思いであることか」
犀星は迷いながら、声を絞った。
「すべては、私の心の弱さゆえ、兄上も、この冬はひときわお体に辛い寒さであったこととお察しいたします。それに加え、西苑から都への困難な旅は、燕将軍より聞き及んでおります。兄上の御心、察するにあまりあるところ。私のために時を割いてくださったこと、心より感謝申し上げたく存じます」
犀星の言葉に濁りはなく、それが本心であることを疑う余地はなかった。しかし、同時にあまりにも犀星らしくない。玲陽にはそう思えてならなかった。
今の犀星は玲陽が知る人ではない。二人きりの時に見せる甘えた所作も見えない。民衆を前にしたときの、優しく寛容な心の顔でもない。五亨庵で、あれこれと論じるときの冴えた官吏の目とも違う。
玲陽の知らない別の犀星が、確かにそこにはいた。
作られたもの、描かれた理想、生き抜くための仮面。
玲陽には、目の前の犀星の姿があまりにも魂と重ならず、違和感が刻々と募っていった。
これもまた生きるために必要だったのだ。
玲陽は苦しい胸で、そう思った。
本当の兄弟だというに……
玲陽は一抹の寂しさを感じた。事情がどうであれ、犀星と夕泉は、半分の血を分けた実の兄と弟である。それなのに、相対した時、どうして本音ではいられないのだろう。それは、血を重んじることのない玲陽にさえ、寂しくやるせない思いを抱かせた。
あなたはどこまで、自分を隠すのですか。
玲陽は犀星の心を想い、そっと腰に添えられていた手を撫でた。玲陽の手のひらの下で、犀星の指がかすかに震え、さらに強く着物を掴んだ。それは、すがりつく力に似ていた。犀星が、今この時、何に怯えているのか、玲陽にはわからない。
表面を偽り、作られた関係を維持しようとする犀星には、その負担が重くのしかかっている。その重みに耐えるように犀星は玲陽を必要としていた。
私にできることならば……
玲陽は気持ちを奮い立たせ、重ねた手に力を込めた。
不意に、うつむいていた玲陽の目が、足元に揺れる白い花へと向いた。
白百合は、夕泉が好きな花だという。庭に咲いていても、何の不自然も無い。
ただの偶然。
そう、自分に言い聞かせる。
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