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2 白(3)
だが、初めて目にした時に感じた既視感は、玲陽の胸の内で確たる不安となって、硬く形を持ち始めていた。
今は言葉にすることはできず、しかし忘れることもできない。生臭く黒い影がじりじりと玲陽のすぐそばまで這い寄っていた。
「光理」
突然に呼びかけられ、玲陽はびくりと震えた。夕泉の声色は親しかったが、そこにぬくもりはなかった。
「お懐かしゅうございます。そなたとは、初めてお会いした気がいたしませぬ」
玲陽の体が、いっそう縮こまる。重たく動かぬ石のようで、犀星はその異常な緊張感に我に返った。自分の中の葛藤よりも、隣に立つ玲陽を心の芯に据える。握り合った手が、その絡みを強めた。
玲陽の唇が薄く開いた。
「光栄にございます。玲親王殿下より、承親悌を賜る、陽にございます」
乾いた声で、玲陽は言った。
「夕親王殿下のご厚情、我が|主人《あるじ》より、かねがね伺ってございました」
「伯華はわたくしの弟ゆえ、当然のこと」
夕泉はぴくりともせずに、玲陽に答えた。
「光理、そなたが、伯華の想い人か?」
玲陽は返答に窮した。
この問いに対する答えを、とうとうこの時まで玲陽は打ち合わせることができずにいた。
自分から言い出すのも気恥ずかしく、否定されても心が沈んでしまう。曖昧なままに、ここまで来たが、結果として、決断はすべてに玲陽に委ねられた。
「いかがなされた?」
夕泉が静かに玲陽を促した。
犀星の手が、腰を支えながらわずかに動き、玲陽の腹近くを撫でた。
玲陽は顔を上げた。夕泉の顔を見ないよう、目線は下げたまま、礼を欠かない範囲でしっかりと姿勢を正す。
「恐れながら、玲親王殿下には過分なるお気持ちをかけていただいてございます。その情に報いるべく、精進して参ります」
犀星が、わずかに体を緩めた。夕泉は静かに玲陽へ、一歩近づいた。思わず犀星が庇うように玲陽を引き寄せ、遠ざけた。
「そのように、警戒せずとも」
夕泉はふわりと軽い声で、小さく笑い声をたてた。思わず犀星の唇が緩んだ。
「奏鳴宮の庭は、この冬に大きく手を入れたとお聞きいたしました」
犀星は、無理に話題を転じた。夕泉は庭を振り返った。
「季節に従うことゆえ、我儘をして、急ぎ完成を頼んだのです」
夕泉の気配が足元を見た。追って、犀星もその先に目を向ける。
玲陽の視線とも重なる、白百合が香っていた。
「この庭には、そなたたちの故郷の花を咲かせたかったのです」
「故郷の花……」
犀星は、草の間に揺れる幾本もの百合を眺めた。
夕泉の着物と同じように、光を舐めとる白い花弁。その中心のあたりはわずかに紅を差したように、赤らんでいる。
「確かに歌仙に咲いていたものとよく似ています。この花は紅蘭のあたりでは自生しないと聞いておりましたが……」
「ええ。ですから、歌仙より取り寄せたのです」
犀星は、しばらく見ていない故郷の夏の景色を思った。
玲陽を迎えに行った時は、既に秋の始めの頃、花はほとんどが落ち、庭の曼珠沙華がやたらと美しかったことが思い出された。
同時に、死の瀬戸際で傷ついた玲陽の姿と、失った父のことが、鮮やかに蘇ってきた。
改めて、犀星は庭を見回した。
一番奥に、巨石が美しく積み上げられて高い壁を作っていた。その上からは、治水の技術を応用した人工の滝が間断なく流れ落ち、白い飛沫が岩肌を濡らしていた。滝壺に吸い込まれる音、細かな波が滝の根元から広がり、水面を柔らかくうねらせる。控えめな流れに、日の光が揺れる。溢れた水は、涼しい音を立てて小川となり、中庭を巡る。
砂利と、乾いた土、その中に置かれた石畳の道。両脇に立つ高木と低木。そして足元を覆う草本、大輪の白百合。
庭の光景は、記憶の奥底に閉じ込めていた何かと完全に符合した。
くらりと、視界がまわるほどの目眩を感じ、犀星の全身にどっと汗が吹き出した。
まるで大きな手に両肩を掴まれているような、逃れられない力だった。ぞくりと背が凍った。
刹那、犀星は思わず玲陽の顔を振り返った。じっと百合を見つめていた玲陽は、血の気が引き、唇がわずかに震えていた。
夕泉は自らの肘を抱いた。
「光理」
玲陽は目を見開いたまま、動けずにいた。夕泉の声が川音と混ざり合って、小石が鳴るように響いた。
「この庭は、ぜひそなたにお見せしたいと思い、作らせたのです。さぞ懐かしいことでありましょうな」
ひゅっと短い息が、犀星の喉の奥から出た。
玲陽は、夕泉の言葉を聞きながら、何も言わず、ただ唇を噛み締めていた。今、こうしていることが幻のようであり、現実感が失せていく。百合の白から目を離す事ができない。
恐ろしくてたまらず、顔を上げることができない。
何が恐ろしいか、と問われれば、記憶こそが、恐ろしかった。
夕泉の用意した、歌仙の庭。
それはもはや、偶然を疑う余地はなかった。
あの場所の景色は、細かなところまではっきりと記憶に焼き付いていた。滝の高さ、水の量、その太さ、細さ。滝壺に砕ける飛沫の散り方。池の中での水の溜まりと、静かな揺らめき。
時々、指先を痙攣させ、それでも玲陽は倒れることなく立ち続けた。
そうして見つめる花を、玲陽はよく知っていた。他のどこにもない、あの場所にだけ開く、赤い芯の百合。
世界が鋭い棘に覆われ、どこに触れても血が滲む。玲陽は何度も瞬いた。
犀星が、腰に添えた手に力を込めた。
玲陽はそっと犀星の顔を見た。
重なり合う目に、共通の色があった。
玲陽は唇を引き結び、犀星は目を歪めた。
ここは、《《あの場所》》なのだ。
玲陽を強く腕に支えながら、犀星は夕泉に体を向けた。
「兄上」
そう呼ぶ声には挑むような気配があった。
「なぜ、このようなことを?」
夕泉はふっと二人に背中を向けた。
「何もかも、思い出して欲しかった」
その口調は今までの夕泉のものであるようで、決定的に何かが外れたようにも聞こえた。
「自らの運命から逃れることは、誰にも叶いませぬ。たとえ望まぬものであろうとも」
玲陽が肩を縮め、微かな嗚咽が喉をついた。その気配に気づいたように、夕泉は振り返った。
「光理。そなたは喰らい続けねばなりませぬ」
「兄上!」
悲鳴じみた犀星の声に、夕泉は一切の動揺を示さなかった。
「さだめに背けば、その代償は必ず身に返ってくるもの」
夕泉は衣を翻し、庭を振り返った。
「果たしなさい、光理。それが、新月の光のさだめ」
「……一体、何を、仰せか!」
犀星の震える声に、夕泉はわずかに首を傾げた。
「伯華。光理に傀儡を喰らわせなさい」
夕泉のねばりつく声が、犀星の首を絞めるように絡みついた。
「さだめに、抗ってはならない」
抱き合った犀星と玲陽の体が、同時に大きく震えた。
夕泉の影が、二人の上にゆっくりと被さった。
玲陽は目線を落とした。犀星の背中を掴み、もう一方の手は犀星と繋いだまま、恐怖を封じ込めるように強く握り込んだ。呼吸がひたすらに乱れ、喉が高く鳴った。
それでも倒れまいとする玲陽の決意を、犀星は肌で感じた。腰を支える手が、痛いほどに帯を掴んでいた。
夕泉はじっと玲陽の顔を見つめた。視線がまぶたに触れ、玲陽は身がすくんだ。
玲陽にとって、夕泉はすでに悪夢の具現であった。
今、目の前にいるのは、犀星の兄ではない。二度と思い出したくない、そして忘れることのできない記憶の残骸だった。
「目を、お上げなされ」
夕泉は、命令とも許しとも取れぬ調子でささやいた。
玲陽は、わずかに迷ってから、禁忌を覗くように、ゆっくりと視線を迷わせながら、顔を上げた。
薄い白色の面纱の布が、夕泉の顔の下半分を覆っていた。布の縁の灰色の紐が、耳元から伸びて、顔を横切っている。その目元へと、ゆっくり視線を向けていく。
見つめ合った、一瞬。
夕泉の目は、蒼色だった。
それが、限界だった。
急速に意識が遠のき、ぐらりと体が揺れる。犀星は全身で玲陽を受け止めた。こうなることがわかっていたかのようにかき抱き、これ以上晒したくないと言うかのように、背中で夕泉の視線を切った。
「陽様!」
叫び声が庭に響いた。足音が駆けてきて、飛びつくように東雨が玲陽にしがみついた。
「心配ない」
犀星は東雨の目を見た。東雨もそれをまっすぐに見返した。その瞬間、東雨の心の底が急速に冷えた。体は熱く火照っていたが、まるで犀星の冷静さがそのまま宿ったかのように、思考が澄みきった。
ごくりと東雨は息を飲んだ。二人に抱きかかえられ、玲陽は半分、意識を失っていた。全身から力が抜け、閉じられた瞼は、苦悶に歪んでいた。
早い靴音が聞こえた。涼景だった。厳しいまなざしで犀星より一歩進み出て、夕泉との間に入ると、素早く片膝をついた。
「無礼は承知、ご容赦を。承親悌の御身、本日はこれまでにて」
夕泉は黙って微笑した。涼景はわずかに東雨を振り返った。
「祥雲どの、悌君を五亨庵へお連れください」
「……え……あ、承知しました」
少し遅れて、東雨は頷いた。
犀星は玲陽を東雨に預ける間際、薄い瞼に口付けた。その刺激に、玲陽は顔を上げた。
「すぐに戻る」
声には出さず、唇だけで告げる。玲陽は、小さく頷いた。
東雨に支えられ、庭を離れる玲陽を、犀星は無言で見送った。
姿が見えなくなると、表情を整え、犀星は夕泉に向き直った。
同時に、涼景は流れるように身を翻して、犀星の左に位置を変え、再び膝をついた。腰の大太刀の鍔に手をかけ、低く引き落としたのは、抜くためではなく、抜かせぬ為の配慮だった。
何も言わず、遠い空を見上げていた夕泉を、犀星の緊張した眼差しが貫いた。
「兄上」
呼びかけた声は、涼景すら聞いたことのない響きで歪んでいた。
夕泉はわずかに体を向けた。
涼景が、ちら、と犀星へ視線を走らせた。
じっと夕泉を見つめ、犀星は震えを抑えて問いかけた。
「お答えいただきたい。なぜ、兄上が、あの人と、同じ目をしているのか」
犀星の目に映る夕泉の瞳は、今、金色に輝いていた。
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