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3 花の行方(1)
犀星のせわしない呼吸音は、おさまる気配を見せなかった。決して無傷では済まさない覚悟が、青い眼差しに宿っていた。
夕泉は黙って、しかし退くことなく、静かにそこにいた。
涼景が緊張を強くした。
脇を流れて行く水の音が、やけにしらじらしく沈黙の中に繰り返された。
やがて、夕泉は姿勢を正し、正面から犀星に向き合った。
「やはり、お気づきでしたか」
その声は今までと変わることなく、角のない丸い響きを持っていた。
「拝顔した時から」
犀星は、大きく弾いた弦を押さえつけたように、危うい声色で応じた。
犀星の震える拳を、祈るように涼景は見つめた。その手は無意識に、太刀の感触を確かめていた。
「……|映相《えいそう》」
夕泉は、聞き慣れない言葉を口にした。犀星には、夕泉の顔が一瞬、波立つ水面のように歪んで見えた。玲陽を模した金色の目が、幾重にも揺れた。
「これがわたくしのさだめ。身に負って生まれた|性《さが》」
諦めにも似て、夕泉は息をついた。
「わたくしに顔はありませぬ。見る者によって変わる影。強く慕う姿に」
訝しんだ犀星に、玲陽の目で、夕泉は微笑んだ。
「ご覧の通りです」
夕泉の言葉が、犀星の心の傷に染み入った。
「そなたは昔より、一人しか想うておらぬ。わたくしのことも、そのように見えるのでありましょう」
犀星は胸が詰まった。
幼き日に、慕い焦がれた黒い瞳。今、慈しんでやまない金色の瞳。
かつて玲陽が地獄の責め苦の中で見た、青い瞳。
その全てが、幻だった。
夕泉は感情の抜け落ちた口調で、
「皇家には、時にこのような相が現れることがあるのです。不都合ゆえ、顔を見てはならぬと、習いができたのでございましょう」
犀星はゆっくりと首を横に振った。
「容貌の有り様など、いかようであろうと構わない」
犀星は目を見開いた。声が、一段、緊張を増した。
「私のものと知りながら、何ゆえ光理に|酷《むご》い仕打ちをなさったかのか!」
犀星の叫びに、涼景は神経をとがらせ、耳を澄ませていた。
歌仙での惨劇が、焼け付く臭いを伴って蘇る。
犀星に再び、命の罪を負わせられない。
それが涼景の誓いであった。
青い目が、今にも狂気に染まるのではないかと怯えながら、自分は太刀を抱いて身をひそめ、最後の楔となることを覚悟した。
玲陽のこととなると見境いがなくなる気性を、犀星自身も充分に理解していた。
抑えねばならない。
そうは思っても、犀星の体も心も、たやすく静まってはくれなかった。目の前の現実に対する動揺は、拒みがたい感情に後押しされ、怒りにも似た苛立ちとなって、犀星の血の一滴にまで沁みわたり、全身を駆け巡っていた。
夕泉が何をしたのか。
恐ろしい想像は、決して的外れではない。金の目が、犀星を追い詰めた。
「兄上が、光理を苛み、花街で無関係な人々を死に追いやった」
犀星の、今にも崩れそうな脆い声を、涼景は痛く聞いていた。
夕泉は一つも否定はしない。ただ淡々と受け止めるのみである。
犀星は、夕泉の奥に果てしなく広がる未知を感じた。夕泉には、罪の意識は微塵もなかった。むしろ、自らの正当性を揺るぎなく信じる静けさがあった。
歌仙の砦で、玲陽は青い目の男に呪いを焼き付けられた。そのために、玲陽の周りには多くの傀儡が渦巻いた。人々を浄化するため、玲陽は血に刻まれた力で、常に身を傷つけ続けた。
今もなお、傷の痛みと呪いは、玲陽を苦しめている。その呪いは、死ぬまで解ける事は無い。
犀星の意識に、深く刻み付けられた玲陽の傷が、鮮血を吹いて迸った。
一瞬、何かが焼ける音が聞こえた気がして、涼景は息を止めた。
犀星の凍てついた表情が、あまりに危うかった。いつ限界を超えて、その怒りが理性を吹き飛ばさないともわからなかった。緊張に血の気の失せた犀星の顔は、触れれば裂ける刃にも思われた。
「どうして……」
苦しい息を吐き、犀星は一歩踏み出した。体の震えは自制の最後のあがきだった。
その眼差しには、兄への敬愛のひとかけらも残されていない。唯一の人を傷つけられた悲しみと怒りだけが、涙となって流れ落ちた。
涼景は、柄を握る手にさらに力を込めた。決して抜かぬと誓った太刀。抜かせぬと誓ったその太刀は、涼景の覚悟と一念を支えるよすがだった。犀星が自分に託してくれた信頼を握りしめ、友を守る要を負う。
備拓は未だ、背後で控えている。場が乱れれば、左近衛との対決すら、避けられなくなる。
抑えろ。
自分に、そして、犀星に、涼景は祈った。
夕泉は危機迫る犀星の気配に、堂々と立ち向かった。信じるべき|義《ぎ》が我が元にあると、その静かな立ち姿は語っていた。
今になって、涼景は自分の目に映る夕泉の瞳を真っ直ぐに見つめていた。黒々とした大きな瞳。その目元が誰に似ているのか、悟らずにはいられなかった。
悔しげに、涼景の目が一瞬、歪んだ。
犀星には金色に、玲陽には蒼色に、涼景には漆黒に。
夕泉の言った映相と言う不可思議な現象は、疑うこと叶わぬ現実の幻想だった。
犀星は、色の失せた唇を開いた。
「何のために?」
声を発することで、振り切れそうになる意識を、精一杯に保とうとする気配が感じられた。
「なぜ、ここまでのことをなされるのか。これほどの術の行使、兄上が支払う代償は命に近いはず。そこまでして、何のために……」
犀星の声に抑えがたい怒りが滲む。怒りと共に、かろうじて、人としての最後の憐憫が透けて見えた。最後の一筋の糸を、必死に繋ぎ止める理性の片鱗。
涼景はそっと、犀星に擦り寄り、距離を縮めた。
犀星の荒れる怒りにさらされても、夕泉には心乱した様子は見られなかった。その表情は深い水のように動かない。表面にはさざ波一つ立つことはなく、それでいてどんな姿も映りはしない。すべての光が飲み込まれ、闇に沈んでゆく。その黒は厳かで気高く、測ることのできぬ闇だった。
「伯華」
沈黙の末に、夕泉は柔らかく呼んだ。そこには、まるで愛しい弟にかける情すらあった。
一瞬、犀星の目が歪んだのは、嫌悪だった。すでに、犀星には夕泉を肯定する理由は何一つ、なかった。
夕泉はそれでも、呼吸を丸くして、犀星の前に微笑んで立った。
「伯華。そなたになら、わかっていただけると思うております」
夕泉の言葉に、犀星の全身が総毛立った。夕泉は感情のない声で、
「自分よりも大切な人を守りたいと願う、その悲しいほどに逃れられない想いを、理解なさいましょう」
犀星は、|己《おの》が心を殺し、じっと続きを待っていた。決して受け入れることができない結論を抱きつつ、それでも夕泉の言葉を全て受け止める忍耐があった。
夕泉は悲しみに初めて目を伏せ、それから、袖の間から萌黄の布に包まれた棒状のものを、そっと取り出した。
布に包まれたそれを目にした途端、激しくうろたえたのは、涼景だった。
夕泉の手にしている包みは、あまりにも見覚えがあった。
一枚ずつ、夕泉は布をめくり、中から焼け焦げた鉄の印を取り出した。
犀星と涼景が、同時に体を引いた。
見ることもおぞましい、その金属の束縛の印。
初めて目にする犀星は言葉をなくして見つめていた。
対して、涼景は腹の中を引きずり出される胸悪さを覚えた。
「暁番屋に、保管していたはず……」
自分自身に確かめるよう、涼景は小さく漏らした。夕泉が、涼景に顔を向け、その黒い瞳を甘く見開いた。
「そう。暁どの。そなたが届けてくださった」
「……なんの、ことです……」
涼景は、立場も忘れて夕泉を見つめたまま、困惑を表した。
暁番屋に、証拠品の焼印が保管されていたことは間違いない。だが、自分がそれを持ち出した記憶はなかった。ましてや、どうしてそれを、夕泉が手にしているのか。何もかもが繋がらなかった。
涼景の混乱をなだめるように、夕泉はゆっくりと言った。
「暁どのは、お忘れか」
「まさか……」
記憶にない自分の行動は、果たして夕泉の虚言なのか、それとも、自分が本当に忘れた過去だというのか。
夕泉は、どこか寂しげに笑った。
「わたくしでは、御しきれぬ。一度の情で動かせるは、そこまで」
涼景は混乱の底で、必死に夕泉の真意を探った。
今の言葉は明らかに、西苑でのひとときの辱を指していた。
「殿下は……臣を……」
夕泉はやんわりと笑った。
「そなたは、陛下のものゆえな」
後頭部を殴られたような衝撃が走り、くらりと揺れた。涼景は、必死に奮い立たせた理性を巡らせた。
今は、自分について考えることは後回しだ。見なければならないのは犀星であり、守らねばならないのはその尊厳と安全だった。
乱れた犀星の呼吸音が、限界が近いことを告げていた。
夕泉は、取り乱す二人を悠然と見下ろした。
「世の人のすることに、正しきも過ちもありませぬ。ただ、そうせざるを得なかった。避けられぬ想いが、人の道にはございましょう」
夕泉の言葉には、しっとりとした薄絹が張り付いていた。それを剥がせば、透き通る真実が見えてくる。犀星はその端に手をかけた気がした。
「あなたは、その想いのために、光理を犠牲にしたとおっしゃるのか?」
肯定も否定もなく、夕泉は静かに、景色に目を転じた。
「伯華、そなたならば、おわかりになるはず……」
「ない」
鋭く、犀星が吐き捨てた。
「わかることと、許せることとは別だ」
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