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3 花の行方(2)
いつしか、犀星の両方の拳は固く握り締められ、爪が血がにじむほどに食い込んでいた。
「いかに兄上に理屈があろうと、事実を覆すことはできぬ。陽に、過酷な宿命を背負わせことに変わりはない」
犀星は庭の景色を一瞥した。怒気が、青い目に散った。
「あの人が……兄上に何をしたと仰せか! 何ゆえに、壊されねばならなかった!」
夕泉は息をつき、ひたすら、滝壺に落ちていく水を見た。
「それが、さだめ、ゆえ」
犀星が短く叫びを上げ、体が大きく揺れた。涼景は咄嗟に、犀星に飛びかかると、力づくで地に抑え込んだ。
五亨庵の近衛詰所で、何やら騒がしい声がした。
小さな叫びと、それをたしなめる、優しい声が交差する。
蓮章は、慈圓との会話を中断して顔を上げると、扉に近づいた。
それを待っていたかのように、静かに内扉が開かれ、ぐったりとした玲陽を抱えた東雨が姿を見せた。
蓮章は反射的に、東雨の反対側から玲陽を抱えた。
「東雨、何が?」
「話は後です。まずは陽様を休ませたいので」
東雨は危なっかしい足取りで、犀星の寝室へ向かった。
蓮章は顔をしかめた。玲陽の体温は、あたりの空気より一段低かった。
慣れない公式行事への参加は、玲陽にとっては緊張の連続で、不安だったことは間違いなかった。
しかし、犀星が同行し、訪ねる先も危険な場所ではない。
まさかこんなことになるとは、蓮章も思ってもいないことだった。
「親王はどうした?」
玲陽を支えながら、蓮章は東雨に問いかけた。
「まだ、夕泉様のところです。涼景も一緒に」
どこか憂鬱そうに、東雨は短く答えた。蓮章はわずかに安堵した。
犀星一人では、何をしでかすかわからない。万が一の場合、相手が夕泉となれば、ただでは済まない。
「涼が一緒なら、最悪の事態は避けられるだろうが」
蓮章は友の重責を想像して、声が低くなった。
「型破りな親王の近衛として、腕の見せ所、か」
玲陽を部屋に運び牀に横たえると、東雨は奏鳴宮の香りを払うように、酸味のある香油を二つ、灯した。
胸の奥底まで入り込んだ甘ったるい匂いは、胸が悪くなる気がした。
その間、玲陽は横向きに膝を抱いて、黙ってされるに任せていた。
瞳は虚ろで、唇は力なく開いていた。
髪がわずかに乱れ、それを見る蓮章の胸は締め付けられた。
弱りきった玲陽。
その姿は、都に来てすぐを思い出させた。心を病み、命を削って、日々を必死に生きていた冬。あの頃と重なる儚さ。時が巻き戻ったようで、蓮章はやるせなさに眉間を寄せた。
「夕泉に何をされた?」
部屋を出てから、蓮章はすかさず東雨を捕まえた。
「俺にもよくわからないです」
中央の長榻に座ると、東雨は肩に手を当てて揉み解した。緊張と警戒で痛いほどに体が張り詰めていた。
「ずっと見ていたんですけど、声は聞こえなかったので……」
慈圓が自分の席から降りてきて、東雨の向かいにどかりと座った。その顔にも、不機嫌がたっぷりと浮かんでいた。
「伯華様はどうなされた? 光理どのがこのような時に、一人で帰すなど……」
「それも、よくわからないんです」
東雨は困りきって、
「俺も、若様はてっきり陽様と一緒にお戻りになるって思ったんですよ。だけど、涼景が、先に連れて帰れって、俺に陽様を預けたんです」
「伯華様は何もおっしゃらなかったのか」
「はい」
不満そうに、東雨はうなずいた。
「薄情すぎると思います」
慈圓と蓮章は顔を見合わせた。東雨は少し、声を落として、
「本当は……薄情と言うより、何か、訳があると思いたいです」
慈圓は難しく口をゆがめながら、
「涼景が促し、伯華様がそれに異を唱えなかった。東雨が言うように、訳があると考えるべきだろうな」
蓮章は黙ったまま、二人の間に立って、伏せ目がちに考えに沈んでいた。
慈圓の言う、訳、は、どうにも、涼景に不利な気がしてならなかった。
「今頃何を話してるのか、俺には見当もつきません」
いじらしく指先をもて遊びながら、東雨が言った。
「陽様が、こんなになっているのに、夕泉様とのんびり昔話なんて、ありえないと思うんです。だから……」
危機迫るものが東雨の眼差しにはあった。
「だから、よくないことが起きていそうで……!」
思わず大きくなった声を、東雨ははっとして飲み込んだ。
玲陽に聞かせるには酷である。
「涼が一緒なんだ。最悪はない」
蓮章は感情を殺した声で言った。東雨は泣きそうな目で蓮章を見た。
「最悪って……」
何かを言おうとした蓮章を、
「おまえが考える必要はない」
慈圓がどこか優しく、遮った。蓮章も、一度言葉を飲み込んでから、改めて、
「……それで、陽に何があったか、心当たりは本当にないのか?」
蓮章の問いに、慈圓も東雨を見据えた。二人に見つめられて、東雨は顔を歪めた。
「だから、わからないって言ってるじゃないですか。俺が知りたいくらいです」
東雨は静かに抗議した。
「俺はずっと見ていたんです。喧嘩しているようではなかったし……あ、でも、陽様はしきりに庭の様子を気にしてらっしゃいました」
「庭?」
蓮章が呟いた。
「夕泉がこだわって作らせたというやつか?」
東雨は頷いた。
「すごく綺麗でした。だから、陽様も気に入って見ているのかなって思ったんですけど、何だか、様子がおかしくなってきて……楽しんでいるより、怖がっているみたいに見えました」
「怖がる?」
蓮章は口元に手を添えた。
「夕泉が強引に進めたからには、何か意図があると思っていたが……」
「俺には、普通にきれいな庭に見えましたけど……そういえば……」
東雨は玲陽が倒れた瞬間のことを思い出した。
「陽様、夕泉様に促されて、お顔をご覧になったようでした。そして、その後すぐにふらついて……」
蓮章は厳しい顔のまま、
「その時の、親王の様子はどうだった?」
「えっと……若様はすぐに陽様を支えていらっしゃいました。俺もとっさに飛び出して……涼景も来てくれて……それで、すぐに帰れ、と……」
蓮章は腕を組んだ。
美しい顔に、麗しいと呼ぶにはあまりになまめかしいほどの艶が差す。
東雨は、そっと蓮章の顔を見上げた。
この軍人らしからぬ麗人の物想いに耽る様は、まさに花街の高級な部屋の壁にかかる絹絵のようである。間近に見るたび、東雨は得も言われぬ胸の騒ぎを禁じえない。だが、今はそんな浮ついた気持ちに動じている時ではなかった。
東雨は、以前の亀池での出来事を思い出した。
一瞬見た、夕泉の目元。
誰にも、言ったことのない、言ってはいけない気がしていた記憶だった。
だが、今、それはもしかすると、何かの突破口になるやもしれなかった。
東雨は心を鎮め、
「蓮章様は、その……夕泉様のお顔をご覧になったことはありますか?」
唐突な問いに、蓮章は一つ、首を振った。
「いや……これでも、余計な揉め事を起こしたくない。それくらいは、わきまえて避けている」
蓮章の銀の目が、東雨を見た。
「夕泉の顔が、どうかしたのか?」
東雨は、わずかに緊張しながら、
「俺、前に一度だけ、偶然見てしまったことがあるんです。夕泉様は帳車の中にいらっしゃって、目元を、ちらりとだけ」
「それがどうした?」
「夕泉様の目の色……あの、若様と、同じだったんです」
しん、とした空白に、かすかに足音がした。
驚いて、三人は顔を上げた。
寝室の入り口の柱にもたれて、玲陽が、白い顔でこちらを見下ろしていた。
「今の話……」
玲陽は、苦しげに、
「東雨どのにも、そう見えたのですか?」
声はかすれて、乾ききっていた。
東雨は慌てて駆け寄り、玲陽を支えて長榻まで導いた。先ほどより、少しだけその歩みはしっかりとしていた。
落ち着いて榻に座らせながら、東雨は玲陽を覗き込んだ。
「もしかして、陽様にも、そう見えたんですか?」
玲陽は静かに首を縦に振った。
慈圓は腕組みして低く唸った。そこには、物事を曲解せず、客観的に判断してきた深い経験の思慮深さがあった。
「わしは宮中も長い。様々な噂も耳にしてきた。だが、夕泉様の目の色の話は聞いたことがない」
慈圓の真面目な顔が、玲陽をまっすぐに見つめた。
「当然、夕泉様の顔を見て許されるのは、宝順帝だけだ。だが、それでも疑問が残る」
蓮章は、注意深く、
「確かに、不自然だ。もし、宝順が夕泉と親王の目の色が同じだと気づいていたとしたら、何かにつけて話題にするはず」
玲陽は頷いた。
「私もそう思います。それが、何も言わなかった」
止めを刺すように、蓮章が言った。
「つまり、だ。理屈はわからないが、東雨と陽にだけ、夕泉の目が青く見えたと考えるのが妥当だな」
「でも、そんなこと、あるんですか?」
東雨が、素直に首を傾げた。
「若様だって、夕泉様は昔の陽様とよく似た、黒い目をしてるって言ってましたし……」
東雨の話を聞きながら頷いていた蓮章は、はたと動きを止めた。その目が、宙に浮かんだ見えない何かを追うように彷徨った。
「……待てよ」
言いながら、蓮章は、ある事実を思い起こしていた。
「これは仮説だが」
蓮章の頭の中で状況が整理され、一つの可能性が導き出された。それは直感と事実とを交えた、蓮章なりの思考の産物であった。
蓮章は注意深く口を開いた。
「かつて、似たような見間違いがあった」
「見間違い?」
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