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第1話

 一年ぶりに体感する、梅雨明け宣言直後の晴天は、容赦なく頭の天辺を熱線で攻撃してくる――そして、その手を緩めることはない。国松悠生(くにまつゆうせい)は、帽子と髪の間に籠った熱を取っ払うように、キャップを外してからぱたぱたと顔や頭を扇ぎ、再度それを被り直した。気休め程度に籠っていた熱が放逐されるが、またすぐにじくじくと熱は絶えることなく溜まり続ける。  人の少ない寂れた駅のホームから、スマホの決済アプリで自動改札口を通り抜けると、木造の小さな駅前を見渡す。  駅の前にはドーナツ型の小さなバスターミナルがあり、その中央には大きいとも言い難い時計塔が立っていた。時計塔を囲むように生えた草は、芝生を植えたというよりも、雑草を丁寧に切りそろえて、それなりに見せている、という風体である。しかし、夏の光を吸い込んで青々としたそこだけは、瑞々しく見えた。その他に駅前と言ったら、欠かす事のできないコンビニを探したが、あるのは郵便局と、クリーニング屋。それからコンビニとは言い難い小さな商店が、店先に風鈴を垂らして営業している。 ないよりマシ、というべきか。とりあえず、水分補給だ。  悠生は目についた商店へと足を向けて、手動式のガラス張りの戸を開いた。  いらっしゃあい、と機械音の音とは違う、間延びした女の声が小さな店奥の方から聞こえてくる。  こういうの、見たことある。田舎映画とかで。  悠生は電気の明るさが行き届かない、薄暗い店内で冷蔵ケースを探し当てると、ウーロン茶のペットボトルを手に取った。良かった、ちゃんと冷えてる。悠生は他に何かないかと、ぐるりと辺りを見渡すが、特に目ぼしいものは見当たらない。  雑多で物が溢れ、窓から十分に日が入って来ないせいか、店内は思った以上にひんやりとして、静かな空気が沈殿している。少しだけ埃っぽい店内を物珍し気に眺めて、悠生はレジカウンターへと足を向けた。 「いらっしゃい、見ない顔だねえ」  ペットボトルを差し出すと、店主と思われる白髪の丸々とした身体の老女が「百五十円ね」と言いながら、レジボタンを押す。悠生は赤子のような短くみっちりとした指から、縁起の良さそうな恵比寿顔の老女を盗み見てから、財布を取り出した。古びたレジ台の、会計金額を示す電子版の下に『現金のみ』と書かれている。 「初めて来ました」 「お友達でもいるの? それとも海水浴?」 「いえ」  老女の背後にある高い位置から、低く唸るような声で、年季の入ったクーラーが冷気を吐き出している。悠生は湿った冷風に顔を晒して、こめかみから汗が流れるのを感じた。 「……駅前にピアノできたから」  悠生は本来の目的である、SNS記事を頭の中に思い浮かべながら呟いた。老女は糸目の双眸を少しだけ驚いたように見開き、悠生を見上げた。 「お兄ちゃん、ピアノ弾くの」 「ああ、まあ……趣味程度ですけど」  老女はいいわねえ、いいわあ、素敵、と何度も頷きながら、悠生の指先から二百円受け取り、五十円玉を返す。店の軒先に吊るされていた風鈴の高く涼し気な音色が、悠生の鼓膜に少し触れて、流されていった。 「なかなか使われてなくてね、嬉しいわあ」  老女はそう言いながら、あげる、とレジ横にある五円玉の形をした、小さな個包装チョコを悠生の五十円玉の乗る掌に押し付けた。 「あ、ありがとうございます」 「暑いから気をつけてね」  老女に見送られて、会釈をしながら店を後にすると、むわりと分厚い熱気が悠生の身体を取り巻いた。重石をつけたみたいに怠くなる身体を引きずりながら、悠生は再び駅前へと戻って行く。 一つしかない小さな券売機、一つしかない自動改札機。この駅が今では殆ど利用されず、お飾り程度に設置されているのだろうなとよくわかる作りだった。悠生は日向から逃げるように日陰に入ると、ほうっと心の底から安堵の息を吐いた。 そして、小さな駅舎にしては大き過ぎる待合室と札の掛かった一画に、それはあった。 丁度改札口の真横にあるそれは、元は待合室として、きちんと個室だったのだろう。しかし今は、扉や一部壁が撤去され、ぽっかりとした空間ができていた。駅の外と内側を仕切る木造の壁には、駅のホームが確認できるように、大きく窓が取られており、まるで明るい一枚絵のように、夏の日差しを受けるホームが、そこにはめ込まれていた。悠生は少し躊躇いながらその場所に足を踏み入れ――そして、その小さな窪みのようなスペースに置かれた目的のそれに触れる。 それはグランドピアノが持つ艶やかな曲線のない、学校や家庭でよく見かけるような縦型でコンパクトな作りをしている、アップライトピアノだった。 誰かに長い間、使われる事もなかったのだろう。回収され忘れた粗大ごみみたいに、息を殺してその場に佇んでいる。悠生は鍵盤の横についてる腕木に指先で触れ、鍵盤蓋に手を掛ける。く、と軽い力を込めて蓋を持ち上げると、それはすんなりと開かれ、思った以上によく磨かれた、つるりとした白鍵と黒鍵が現れた。思わず悠生は「お」と小さく感嘆を漏らす。田舎町の誰にも使われないストリートピアノだろうから、薄汚れていると予想していた分、これは嬉しい誤算だ。悠生はピアノの前にある椅子に腰を下ろすと、足もとにペットボトルを置いて、長い指を鍵盤の上にそっと置いた。 ――お手並み拝見。 胸の内がさわさわと落ち着かなく騒めく。悠生はいくつかの単調なメロディーを指先で奏でると、その音に狂いはないかと確かめる。絶対音感があるわけではないが、幼い頃からピアノを嗜んできた身として、ある程度の狂いくらいは聴覚が覚えているのだ。 幾つか鍵盤を叩いたところで、調律師もいないだろうし、大きな狂いもないからこんなもんか――と、悠生はそう割り切る事にして、目の前の鍵盤を眺めた。多少気にはものはあるが、その音を叩いたところで、誰もが違和感を抱くようなメロディーラインにはならない。むしろ調律師がいない中、よく頑張っている方だと思う。悠生は「えらい」と褒め称えるように、指の腹で鍵盤を撫でた。 それから指の節々を伸ばすように、握ったり伸ばしたり、軽く骨を鳴らすと、悠生はそっと鍵盤に指先を置き直した。触れるか触れないか、産毛があればそれに触れる程度のところで手を止めてから、鼻から熱い酸素を肺一杯に取り入れる。 指先に軽い力を込めて押し込み、滑らかな音階から、ドミノのように、気持ちよく音が倒れていく。ピアノの音が熱気の強い空気を不安定に、陽炎のように揺らす。 悠生の慣れた指先が、夏の暑さを悲観するみたいな低い音階を辿り、やがてそれも一転――軽やかな高い音階へと転換し、小動物が躍動して水辺に集まるような明るさへと昇華する。水がリズミカルに跳ねるような心地で、指先で鍵盤を弾く。 悠生は関節のしなやかさを使いながら、軽い強弱で音に表情を施していく。指が覚えている音符を拾い上げて、鍵盤へと一音一音の魂を込めながら、鍵盤の上で指先を躍らせた。 悠生の心臓が音楽と見えない糸で繋がり合ったように、躍動し、気持ちが高ぶっていく。 孤独を背負っていたピアノが今、のびやかにその声音を小さな古い駅舎に響かせると思うと、心臓が震えて足元から何かが戦慄きながら、津波のように悠生の心に襲いかかる。 駅員室とプレートの掛かる小さな小窓から、初老の男が顔を覗かせ、悠生を眺めた。悠生は音楽の中に生きていた。人の目の気配など、もういない所にいる。 夏のきらめく日差しを纏った音色が、明るくその場を取り巻き、じっとりとした空気を幾分か爽やかなものへと変えていく。そんな空気が漂い始めていた。 悠生は頭の中にあるイメージだけを追い求め、初夏の熱気なども忘れ、指先を思いのままに動かす。軽い異世界へのトリップにも近い。  小さな駅前に響く音色は、駅舎以外にも届いたようで、クリーニング屋も何事かと扉を開き、顔を覗かせていた。  一帯がやんわりと音楽に満たされていく。  悠生は十分にも満たない一曲を、どっぷりとその世界観に沈み込みながら、形を指先で象る。  調律が定期的に施されていない分、甘い音程となった部分もあるが、外で弾けるという開放感があれば、そんな事はどうでも良かった。駅舎に反響する音をシャワーのように浴びながら、何処までも続いて行く窓の外の青空に目を向ける。  気持ちいい。  このまま音楽が終わらないで、弾き続けられたらいいのに。  そんな思いで指を動かしていれば、一曲の終わりがちゃんと見えてくる。名残惜しさを覚えながら、一曲を手放す覚悟をしながら、悠生は最後の一音まで、丁寧に紡ぎ終える。 空気に最後の音が消えていくのを見守ってから、一度瞬きをして現実に戻ると、悠生は大きく呼吸をした。夢中になっていて、呼吸が浅くなってしまうのは、毎度のことだった。  不意に疎らな拍手が聞こえて来て、顔を上げると、駅舎の中から顔を覗かせていた男や、クリーニング屋の前に立っていた女が、悠生へ向けて拍手をしていた。 「お兄ちゃん、うまいねえ」  駅員室から顔を覗かせている初老の男が声を掛けてきた。悠生は軽く頭を下げると、 「ありがとうございます」  と呟いた。 「たくさん使ってやってよ、あんま人来ないからさ」  その声掛けに「はい」と返事をすると、駅員は中へと引っ込んでいく。悠生は足元に置いておいたペットボトルを持ち上げて、それを一気に半分飲み干した。  よし、もう一曲いくか。  しっかりとキャップを締めると、結露で濡れた地面にペットボトルを戻して、悠生はまた柔らかく鍵盤の上に指を置いた。  次は何を弾こう、悠生がそんな事を考える間もなく、勝手に指先が躍り始める。悠生はそれに導かれるようにして、音楽の渦へとなだれ込んだ。  厳しい太陽が、少しだけ目を細めるみたいにして、優し気に微笑むと、空気が少しだけ柔らかくなる。ピアノの音色に瑞々しく浄化された空気が、廃れた駅前に漂い始める。  悠生はゆっくりと瞬きをして、天を仰ぎ、音で満ちた空気を、肺一杯に吸い込んだ。

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