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第2話
『今日学校休みだよね? 暇なら映画行かない?』
朝の九時前に送られてきた彼女からのメッセージに、
『ごめん、無理』
と一言だけ返すと、悠生はデニムのポケットの中にスマホを突っ込んだ。
都心へと向かう電車とは逆方向に向かう車内は、通勤ラッシュという言葉を忘れてしまったかのように空いており、ゆったりとした時間が流れている。それが特に、都心から海方向へと進む、マイナーな在来線ともなれば尚更の事だった。ゆったりと一時間半も電車に揺られていれば、スーツを着た人を見る事さえほとんどなくなってしまう。
高いビルや陸橋が徐々にがなくなっていき、密集した住宅地が過ぎ去り、田畑の風景が広がっていく。家と家の間隔が広がり、東京から随分遠くまで来てしまったと思う頃に、悠生の目的としている駅名のアナウンスが流れた。
車窓を眺める夢でも見ていたのかと思うくらい、ぼんやりと夢見心地の一時間半を経て、悠生は電車を降りた。
電車を降りた瞬間に、全身に夏の体温が纏わりついてくる。悠生は少しだけうんざりしながら、手で庇を作り、ホームから流れるように去って行く電車を見送り改札口へと向かった。日陰に入れば、体感温度、三度は低くなる気がして、安堵の溜息が零れる。自動改札機をスマホの電子決済で通ると、
「あれ、あの時のお兄ちゃん!」
駅員室の小窓ががらりと開いて、先日と同じ駅員が驚いたように声を掛けてきた。
「また来たの?」
「はい。誰もいないし、やり易いんで」
男はそうか、と何処となく嬉しそうに破願してから、
「いくらでも弾いていきな」
と悠生に手を振った。悠生はそれに小さく会釈をすると、改札横にある小さなステージへと足を向ける。
あれ以来、自分以外にこのピアノを使った者はいるのだろうか。そんな疑問を持ちながら、つい二週間前になる、それ程遠くはない記憶を引っ張り上げ、鍵盤蓋を開いた。
あの時悠生は、合計七曲引いて、切り上げた。本当は三曲くらいで満足するだろうと思っていたのだが、演奏している最中、駅周辺で商売をしている人が覗きに来ては、悠生のピアノに小さな拍手を送って、他にも弾いて欲しいと強請ってきたのだ。そして促されるままに四曲追加で披露する事となってしまった。
おそらく都内のストリートピアノでそんな事をすれば、スマホのレンズを無断で向けられることだっただろう。しかし、入れ替わり立ち代わり訪れる年配の聴衆は、そんな事は一切せず、悠生のピアノだけを聞きに来てくれた。
それが悠生にはひどく新鮮で、心地良いものだったのだ。久し振りに肩の力を入れず、のびのびと弾けたような気がする。誰かに発表する場でもなく、見栄えを気にする訳でもなく、ただ好きなものを指で奏で、それを聞いてくれるだけの人が居る。
その当たり前が、悠生にはかけがえなく特別なものに感じられた。
「あらあら、また来てくれたの?」
今日は何を弾こうかと鍵盤の上で指を休ませていると、そんなふうに声を掛けられた。顔を上げれば、老女が愛想の良い笑顔を悠生に向けていた。ふっくらした白い頬や額には、汗の玉が滲み流れている。この前ウーロン茶を買った所の老女だ。
「こんにちは、暑いわねえ」
「そうですね、夏だし」
気の利いた返事ができずに口籠ると、老女は左手に下げていたビニール袋からコーラのペットボトルを取り出した。
「甘いのは大丈夫? 倒れないようにね」
差し出されたそれを、悠生は無意識に受け取ると、一瞬遅れて「え」と顔を上げた。老女はにこりと微笑むと、又聞きに来るわ、とそのままあの商店へと歩き出した。ぱっと開いた水色の日傘が、上機嫌に彼女が歩く度左右へと揺れている。
「ありがとうございます」
去って行く背中に声を掛けてから、少しぬるいそれのキャップを開いて、ひと口だけ弾ける甘い炭酸を咽喉に通す。炭酸が抜けないように、赤いキャップをしっかりと閉めて、足もとに置くと、悠生は指先を鍵盤に置いた。
ひやりとした心地良い温度が、指の腹に触れる。
ふと視線を駅前の時計台へと流すと、短い青い草が僅かな風になびいて、きらりと光りを反射していた。悠生は水面に反射する光の煌めきを連想して、指先に軽く力を込めた。ちらちらと瞬くような光が転がり続ける水面のように、音階が流れ出す。
ドビュッシーのアラベスク第一番。
指先を離す時は鍵盤を撫でるように、滑らかに手を持ち上げ、丁寧に何度も弾いてきたメロディーラインを辿る。
悠生は涼し気なこの曲の流れが、昔から好きだった。夏になると何となく弾きたくなり、また自分以外の演奏でも聞きたくなる。だからスマホのお気に入りリストの中には、この曲が伴奏者違いで幾つも入っていた。
愛らしい陽だまりから、木陰で一休みするような静寂に入り、また風の流れのまま、漂うように陽だまりの中を、光の粒子となって夏の空気を漂う。
そんなイメージを頭の中に思い浮かべながら、一曲弾き終わると、一人分の小さな拍手が聞こえてきた。音の聞こえる方向へと顔を向けると、そこには手首に白いビニール袋を下げた少年がいた。年頃は二十歳の悠生とそう大きくは変わらないだろう風貌であるが、身体、形を象る線は細く威圧感は全くない。むしろ、存在感は薄めだ。
彼は一度も染めた事のないような、黒く長い前髪の奥から、大きな双眸を煌めかせて、悠生に拍手を送っていた。
「ありがと」
拍手に対して、礼を呟き小さく頭を下げると、彼もまた同じように小さく頭を下げる。
「すごいですね、初めて聞きました」
穏やかな優しい声音が、心地良く悠生の鼓膜を擽った。悠生は良い声だな、と何となく思いながら、足もとのペットボトルを手に取る。
「三島さんから聞いたんです。ピアノ弾く人が来てるよって」
三島さん? 悠生が疑問を持ちながら視線を彼に戻すと、慌てたように「商店のおばあちゃんです」とすんなり教えてくれた。悠生は恵比須顔のにこやかな老女を思い出した。
「ああ、あそこの?」
ウーロン茶を買った商店を指さすと、彼はそうそう! と首を縦に振った。
「今の曲はなんて言うんですか?」
「ドビュッシーのアラベスク第一番」
「ドビュッシーのアラベスク……」
彼は何か呪文でも授かったように、悠生の言葉を丁寧に口の中でなぞると、ポケットからメモ帳とペンを取り出して、その曲を書き留めた。悠生はそのアナログなやり方に少し面食らいながら、彼の腕に掛けられたビニール袋を見つめる。ビニールには「弁当キッチン・ふじもと」とオレンジ色の丸文字で表記されていた。どうやらこの近くに、弁当屋があるらしい。意識すると、その袋から揚げ物特有の、食欲をそそる香ばしい匂いが洩れている事に気付いてしまう。
そう言えば朝めし食ってなかったな、なんて思いながら、何となく袋から目が離せなくなっていると、
「……良かったら食べますか?」
「え?」
思わず驚いて顔を上げた。彼は悠生と眼が合うとほろりと蕾を開くかのように笑った。解けるようなその笑い方に、悠生は一瞬だけ目を奪われる。それから白いビニールを差し出されると、思わず流れで受け取ってしまった。
その瞬間、え? と自分で戸惑いながら慌てて顔を上げる。何受け取ってんだよ、俺、そう自身を叱咤して、
「でもアンタのでしょ?」
そう袋を彼に向ける。けれど、その少年は悠生の手を押し返して、にこりという音が出そうな笑顔で首を横に振った。
「大丈夫。ここ、俺の働いてるんだ。だからタダも同然、貰って下さい」
そう言いながら彼はメモ帳を見下ろした。
「素敵な曲教えてもらったし……、また聞かせて下さい」
そう言うと、彼は日陰の駅舎から白い日向へと出て行ってしまう。悠生は郵便局の脇道に入っていく彼を見送ってから、袋の中を覗き込んだ。その瞬間、袋の中に溜まっていた温かい空気が、弁当の匂いと共に悠生の顔を包み込む。
大ぶりの唐揚げが四つに、白米と漬物、小さな卵焼きとマカロニサラダが入った大きめの弁当を見下ろした。
悠生は少し躊躇いながらも、今更返しに追いかけるのも変な気がして、有り難くいただく事にした。腐らない内に、とまずはお茶を買いに「三島さん」がいる商店へ、お茶を買いに腰を上げ、日向へと歩き出した。
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