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第3話
唐揚げは美味かった。
鶏肉はぷりっとしており、味付けも濃過ぎず、衣はさくっと揚がっていて、悠生好みの唐揚げだった。あれならば、自分でもお金を出して買いに行くに違いない。添えられていたマカロニサラダと少し甘い卵焼きも、全てがバランスよく、大味でもなく、丁寧な「家庭の味」というものを表現していたと思う。
悠生は住宅街の脇道を歩きながら、先日のことを思い出していた。住宅街の塀から盛り上がるように、道路へと伸びる青々とした緑の木陰を辿りながら。
不意に背後から子どもたちの騒がしい声が響いて、プールの水色や緑、黄色のビニールバッグを振り回しながら、三人組の小学生が、悠生を追い越していく。揺らめく陽炎を踏みしめながら、走っていく眩しい小さな背中に目を細めて、悠生はイヤホンを耳から外した。
ヒメシャラの瑞々しい緑色が、堀越しに見える一軒の前で立ち止まると、イヤホンを外した鼓膜に、ささやかなピアノの音色が流れ込んでくる。悠生は古い門をゆっくりと開くと、玄関のポーチまで着てインターホンを鳴らした。ピアノの音が止んで、はい、と電子音越しに声が聞こえてくる。
「センセー、俺。悠生」
「あらあら、暑かったでしょう? 鍵空いてるから、入ってらっしゃい」
がちゃりとインターホンが切れて、言われるがままに鍵の掛かっていない扉を開くと、靴を脱いで日本家屋らしい軋む板張りを上り立つ。短い廊下の先には、扉が半分開いた台所が薄暗く見え、右側には縁側へと続く廊下が延びていた。日当たりの良いそこは、きらきらと日が注ぎ込んでいて、暑そうだが、大きく放たれた硝子の扉からは風が入り、水色の風鈴が細やかに揺れて、歌っていた。
「悠生くん、いらっしゃい」
右の廊下へと足を向けて縁側を進むと、奥の部屋から灰色に髪を染め上げた上品な女が顔を覗かせた。白い肌触りの良さそうな柔らかいグレーのシャツに、長い紺色のスカートを履いた彼女は上品に、悠生を見つければ優しく微笑んだ。
「お邪魔します、赤城 先生」
そう言いながら悠生は彼女の元へと向かう。
「いつも突然ねえ」
赤城先生、と悠生に呼ばれた赤城道子は、悠生を見止めると、踵を返して部屋の中へと戻って行く。悠生は赤城に続いて、部屋の中を覗き込み畳を踏みしめた。八畳はあるだろう和室には、大きく分厚い絨毯が敷かれており、その上にはグランドピアノが鎮座している。和室の割に天井が高いせいか、圧迫感はそれ程感じられはしないが、グランドピアノというその存在に、悠生はしばし圧倒されてしまう。いつでも気軽に使えるような楽器ではないから、と言う理由も大きいが、ただ見なれていない質量的なこともあるかもしれない。悠生は磨かれたピアノの曲線を指先でなぞりながら、
「今日生徒は?」
と、ピアノの前に腰を下ろした赤城に問う。赤城は楽譜を整理しながら、壁に掛けられた小さな古時計を見上げた。
「そうね、あと二時間位で一人目が来るわ」
「なあんだ、暇じゃないんだ」
「大学生の貴方の方が忙しいんじゃないの?」
揶揄うように赤城が言うと、悠生は軽く肩を竦めて、首を横に振った。
大学二年生の夏となれば、やる事は山積みのように思えるかもしれないが、青春を謳歌するぞ、と前後不覚に走れる程、悠生は子どもにはなれない。彼女という存在、友達と言う存在はいるし、それらとの約束はそれぞれあるけれど、心がめい一杯弾むような事でもない。
「別に。あ、でも最近すっげー良い感じのストリートピアノ見つけたんだ」
悠生は声音を弾ませて、グランドピアノに腕を預けて赤城の片付ける楽譜を覗き込んだ。
「こっから一時間半かかるし、駅舎は寂れてるし、ピアノの調律はちゃんとしてるわけじゃない。でもさ、なんか町がのほほーんってしてて、ピアノ弾いててもスマホ向けて勝手に撮られないし、聞いてたら拍手もくれる」
悠生は駅前でのことを思い出しながら、赤城へと身を乗り出した。悠生にとって、ピアノを弾く事が、彼女や友人と遊ぶ事よりも重要であるかのような声音に、赤城は薄く笑みを浮かべて、目尻の皺を増やした。
「あなた、本当にずーっとピアノね」
呆れているわけでもなく、感心したように赤城は悠生を見上げた。悠生はその言葉に、少しだけ拗ねた様に眉根を寄せると、背を向けてピアノに寄り掛かる。褒められているのか、呆れられているのか、よくわからない赤城の言葉に、どんな顔をすればいいのか分からなかった。
確かに悠生の人生は殆どピアノだった。それは、悠生自身も自覚している。
何となく五歳で始めたピアノ教室。赤城の元でその腕を磨いてきた。音楽は常に友人よりも親しく悠生に寄り添い、そして悠生の努力に対して正しく答えて来てくれた。
決して憑りつかれたように好きだったいう訳ではない。ピアノを始めてから、それなりに小学生なら友人と外で遊ぶ事、中学生ならゲームや恋愛事、高校生ならバイトや交友関係――それぞれに思春期に立ち会うべくして向き合ってきたことは色々あった。けれど、それはどれもが流れていく車窓の一部のように、大人に成長していく悠生の内側に、残る事はなかった。――そんな中、ずっと残り続けたのはピアノだけである。
中学二年で受験勉強を理由に、ピアノ教室は親の都合で塾へと変更させられてしまったが、中学高校は音楽室があり、ピアノを弾くという行為を辞める事はなかった。もっとうまくなりたいとすら感じていた。
プロになりたいとも思った事はあったが、普通に暮らす分には申し分ない程度の一般家庭で育った自分が、音楽大学に入る夢を見る事が、悠生にはできなかった。おそらく性分だろう。音楽に費やせる学費もないのに、音楽学校に行きたいなんて、親を困らせるメリットが悠生にはなかった。
「貴方なら音楽に進んでも良かったんじゃないかしらって、今でも思うわ」
「音楽系の学校って学費すんげーの。ウチには無理無理」
将来投資にしたって博打過ぎる。悠生はそう言って手を振った。赤城はそんな悠生を眺めてから、
「連弾する?」
と椅子を少し移動し、悠生の座る分を空けた。悠生は振り返ると、すぐに頷いて赤城の隣に躊躇いなく腰を下ろした。
赤城の家に訪れた目的の一つは、この慣れ親しんだグランドピアノと戯れる事である。
「悠生くんが決めていいわよ」
「トリッチ・トラッチ・ポルカ」
「珍しいわねぇ」
どちらかと言えば穏やかで静かなクラシックを好む悠生だが、連弾での場合は普段自分ひとりでは弾かないものを試したくなる。赤城は微笑みながら姿勢を正し、楽譜を置き直すと、長くほっそりとした指先を鍵盤に添えた。
しん、と空気が息を潜める。夏の陽射しが廊下に映し出した、庭木の影をやんわりと揺らした。二人の呼吸が重なり合うタイミングを見計らって先導を切ったのは、悠生の方だった。
アップテンポな始まりから、運動会のリレーを思い出させるような曲調が足早に連なっていく。悠生は自分の指先の外、赤城の奏でるメロディーや指先の軌跡をしっかりと見つめながら、気分が音楽の波と共に高揚してくる感覚を味わう。
血が騒ぐ。まさにその言葉に尽きると、悠生は何度も思った。
連弾は肉体が絡まり合うよりも、深い情愛を悠生の中に描く。赤城の指先が奏でる一音が、悠生の指先の生み出す一音とぶつかり、溶け合い、やがて完璧なメロディーを織りなす。その心地良さに、頭が熱くなってくる。
悠生の身勝手な指先に、赤城は寄り添った。それも堪らなく心地良く感じられる。悠生は赤城のピアノが好きだった、ずっと幼い頃から。
――しかし、それ程長い曲ではないので、鼓膜に音楽が馴染む頃に、曲は終焉を迎えてしまう。
わずかな物足りなさを残しながら、とろ火に晒された悠生の欲が、腹の底で燻る。悠生はピアノを弾く欲を、人間が供える本能に似ていると思った。もっとピアノを叩きたいのに、終わってしまったメロディーラインの続きを弾きたくて堪らない。けれど、もうこの曲に先はないのだ。
悠生は燻る衝動の目標の鍵盤から、隣に居る赤城へと移した。まるで助けを求めるような眼差しで、悠生は赤城を見つめた。赤城はその眼差しに気付くと、成熟を迎えた笑みを浮かべて、悠生を受け入れる。当たり前のように、若さだけが有り余る身体の内側から、欲望だけが溢れ出るそれを、受け止めるように、細い両腕で悠生を抱いた。
二人は雪崩を起こしたように、椅子から崩れてその場で抱き合った。
夏の陽射しは、明るく二人は照らしながら、容赦なくその影を焼きつける。床に、壁に、障子に、夏の記憶に。
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