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第1話

 村の外れにある祠は人を喰らう蛇神が祀られている。そのせいで村の人間からは恐れられ、誰も近づこうとはしない。けれど朝陽と朝凪の双子の兄妹は毎日かいがいしく祠の世話をしていた。  朝陽は着物の泥を払い、手櫛で短い黒髪を整えてから祠に手を合わせた。  (今日も一日平和でありますように)  ゆっくりと瞼を開け、祠に目を向けた。  祠は山の木を切って朝陽が作り直した。大工仕事は初めてで勝手がわからず、祠自体歪んでしまっている。でも長年の雨風に晒され続け腐っていたものよりはましだろう。  中にある蛇を模した木像は本来の姿がわからないほど黒ずんでいるが、どこか嬉しそうに見えるのは朝陽(あさひ)の欲目だろう。  「お勤めご苦労様です、兄様」  「朝凪(あさなぎ)も来たんだ」  「はい。そこの川で洗濯をしていたので祠のお掃除をと思いまして」  「今日は僕の番だから大丈夫だよ」  「ふふっ。兄様は蛇神様をお慕いしているんですね」  「それは朝凪も同じだろ」  いまから十二年前ーー七歳のときに両親を亡くした朝陽たちは、まだ死を理解できなかった。両親は山菜取りに出かけているのだと思い、朝凪と山に入って遭難したことがある。  そのとき白い大蛇が村まで道案内をしてくれたのだ。あれは神の使いだと村で言いまわったが、誰も信じてくれなかったけれど。  その恩もあり、二人にとって蛇は敬うべき存在になっている。  「本当に蛇神様は来るのでしょうか」  「亜門はそう言ってるけど、僕にはわからないや」  この村には昔からの言い伝えで生娘を贄として蛇神に捧げる風習があった。  なんでも蛇神に選ばれた女のところに文が届くらしい。  ここ最近、不自然なほど日照りが続いていた。村の中心にある川は枯れ、こうして山の麓まで出向き水を汲まなければならない。  朝陽が丹精込めて育てている畑も水不足のせいでやせ細ってしまっている。  大人たちは天変地異の前触れだと恐れ、目を血走らせていた。  贄に選ばれる条件は「美しい生娘」であること。近隣の村からも一等美人として名高い朝凪が選ばれるだろうと誰もが思い、同性からは同情の目が向けられていた。  けれど朝凪は亜門を幼い頃から慕っている。二歳年上の亜門は涼やかな目元が特徴的の誰もが見惚れる美男子だ。村長の長兄であるにも関わらず、朝陽たちと友人のように接してくれている。そんな彼を慕うのは当然だ。  また亜門も気立てのよい朝凪を好いてくれている。  二人が相思相愛なのを知っているからこそ、  朝陽は心のうちに強い決意を固めていた。  日が昇ると同時に目を覚まし、家の前の畑に向かうのが朝陽の日課だ。朝凪はまだぐっすりと眠っている。  音を立てないように引き戸を開けると夏の気配が濃い土草の匂いが朝陽の鼻孔を擽る。山間から太陽が顔を出し、突き抜けるような青空が広がっていた。今日も雨が降る気配はない。  朝陽は引き戸を閉め、うんと背伸びした。  大きく息を吸い込むと土草の中に香の匂いが混ざっている。  (なんで、香の匂いが?)  注意深く辺りに目を凝らしていると畦道から大蛇がにょろりと顔を出し、朝陽は驚いて悲鳴を上げそうになった。  黄金色の瞳と雪のように白い大蛇が朝陽の様子を伺っているようだ。  子どものときに助けてくれた大蛇によく似ている気がした。  朝陽は草履を脱ぎ、ゆっくりと大蛇に近づいた。蛇は警戒心が強く、物音にも敏感だ。  だが大蛇は人を恐れないのか逃げる素振りもなく、舌をちょろちょろ出して朝陽が来るのを待っている。  蛇の鱗が見えるほどの距離まで近づき、朝陽はその場に膝をついた。  「おはよう。蛇は夜行性だと聞いたことがあるけど、きみは早起きなのかい?」  思わず稚児と接するように声をかけてしまい、頬が熱くなった。蛇に言葉なんてわかるはずもない。  だが大蛇は朝陽の問いに頭を上下させた。  「……僕の言葉がわかるの?」  また大蛇は首肯するような動きをした。なんて賢い蛇なのだろう。  「もしかして子どものときに助けてくれた子?」  だが今度は朝陽の問いには応えず、蛇は身体を反転させて草の中に消えてしまった。  まるで夢の続きのようだ。蛇と会話ができたなんて信じられない。朝凪が起きたら教えてあげよう。  そう思って振り返ると戸口前の草に白い和紙が置いてあるのに気がついた。  丁寧に折りたたまれた和紙は日の光を浴び、艶を帯びている。仄かに香る香の匂いにはっとした。  (亜門の仕業だな)  昔、想い人に和歌を送る風習があったらしく、雅な亜門ならやりそうなことだ。もしかして結婚の申し込みか。  「兄様……? どうされたのですか?」  戸口が開き、まだ眠気眼の朝凪が顔を出した。  「これを見てごらん」  朝陽が文香を渡すとぱっと朝凪が顔を輝かせた。亜門からだと思ったのだろう。破れないよう丁寧に開き、朝凪は一心に読み始めた。  「亜門からの結婚の申し込みかい?」  だが美しい朝凪の顔は段々と歪められ、しまいには手から文が落ちてしまった。  「この匂い……まさか」  「朝凪?」  胸を掻き毟る朝凪の顔は恐怖に歪められていく。  だがすぐ糸が切れるように朝凪はその場に倒れてしまった。  「朝凪!!」  揺さぶっても声をかけても朝凪は指先一つ動かない。完全に気を失ってしまっている。  ふわりと香の匂いに釣られ、朝陽は地面に落ちた文を拾い上げた。  『あなにやし、えをとめを。じき、きたりけり』  美しい乙女よ。迎えに行くと達筆な字で綴られている。  どう読んでも亜門の結婚の申し込みに違いない。だが朝凪の様子から違うのだろうか。  「……一体なにが起こってるんだ」  朝陽の疑問に答えてくれる者は誰もいなかった。  「……兄様?」  「目が覚めたかい? よかった」  どうにか家の布団まで運び寝かせていると朝凪はすぐ目を覚ました。  「お医者様を呼ぼう。亜門にも知らせないと」  「待って」  朝陽が立ち上がろうとすると朝凪に腕を取られてしまった。  「朝凪が贄に選ばれました」  衝撃的な言葉に朝陽は呼吸を忘れて、愛する妹を見返した。朝凪は泣くのを堪えるように顎を引いている。  「文香は贄に選ばれる娘の元に届くそうです。以前、亜門様に聞きました」  朝凪は布団を握りしめるとぎゅっと瞼を閉じた。宝石のような涙が一滴落ちる。  「文香が来たらすぐに燃やしなさい。無視し続ければ蛇神様も飽きるだろう、と仰ってました」  きっと朝凪を思っての言葉だろう。亜門も想い人をみすみす生贄に捧げたくない気持ちもわかる。  だが朝凪は蛇に恩があった。  朝凪はどうすればいいか決断できないまま、今日という日を迎えてしまったのだろう。  妹が苦しんでいることを気づかずにいた自分を恥じた。  「蛇神様のところに行きます」  「待って」  いまにでも出て行きそうな朝凪の腕を引っ張り、布団の上に座らせた。  かねてから決めていたことを朝陽はようやく口にすることができる。ふうと深く息を吐きだした。  「僕が蛇神様のところに行くよ」  「それは無理でございます。だって」  「この文香には宛名が書いていないだろ? 僕の可能性だって否定できない」  「娘、と言い伝えがあるのですよ」  「……僕たち双子でしょ?」  じっと朝凪を見返した。  黒くて艶のある髪とふっくらした頬。睫毛はくるりと上を向き、瞳は満点の夜空よりも美しい。  朝陽と瓜二つの顔だ。  「大切な妹を贄になんてさせない。亜門と幸せになって欲しいんだ」  「それは朝凪も同じ気持ちでございます。兄様には毎日笑ってて欲しい」  「朝凪の幸せが僕の幸せだよ」  自分より少し小さい手をぎゅっと握りしめた。  両親が死んで辛いこともあった。けれど朝  凪と手を繋ぎ、お互いを励まし合いながら生きてきた。  朝凪がそばで支えてくれたから自分はいまここにいるのだ。  「それに村の人たちにやっと恩返しができるんだ。これ以上幸せなことはないよ」  小さい子ども二人で生活するのは大変なものだった。畑仕事どことか水汲み一つできない。  だが亜門を始めとした村の人間が教えてくれ、助けてくれた。  その恩に報いるときがきたのだ。  「兄様っ」  「亜門と幸せになってね。ずっと見守っているから」  朝凪の涙を胸に受け、朝陽はぐっと奥歯を噛んだ。  その晩のうち、朝陽は亜門の屋敷へと向かい事のあらましを説明した。  亜門は大層驚いた様子で目を見開いている。  「無視をすればいいと朝凪に伝えたはずだが」  「そんなことできないよ。僕たちは蛇に感謝をしているんだ」  「だが」  子どものときの遭難の話は亜門も知っている。二人が蛇に恩があるのもわかっているだけに、言葉が続かないようだった。  「いいんだ。朝凪と話し合って決めたことだ。で、悪いんだけど確か白無垢じゃなきゃいけないんだよね? 亜門の家にあったりするかな?」  本来なら婚礼を前にした家以外にあるはずがないだろう。だがぼろ雑巾のような着物で行くわけにはいかず、こうして亜門の屋敷を訪ねたわけだ。  「近々、朝凪に結婚の申し込みをするつもりで用意してある」  「悪いんだけど僕にくれる?」  「……まさかおまえが着るとはな」  亜門は泣き笑いを浮かべ、友人のやさしさに胸がいっぱいになった。  白無垢に着替えさせてもらい、化粧も施した。  紅を引いて絹帽子を被れば、どこから見られても朝凪だ。  「すごい、さすがだ」  「特に腕の立つ者にやらせたからな」  「これならすぐに気づかれないだろう。あとは上手くやるよ」  朝陽はにっこりと笑って見せたが亜門は下を向いて肩を震わせている。から元気なのが痛々しく映ったのかもしれない。  「朝凪のこと、頼むね」  「任せろ。生涯愛すると誓う」  親友の力強い言葉に頷いて、朝陽は駕籠に乗った。祠までは亜門の使用人が運んでくれる。  規則的な揺れに朝陽の心臓は嫌な音を鳴らし続けていた。  一歩、一歩死に向かっている。たった一人の家族のため、村の人のために身を捧げることに迷いはない。  けれど幾重にも着込んだ白無垢がずっしりと肩にのしかかり、朝陽の決意を飲み込もうとしていた。  「きっとひと思いに食べてくださる」  蛇は捕食するとき丸飲みをするから人間も同じよう食べてくれるはずだ。そうすれば痛みは少ないだろう。  『朝陽様、着きました』  「ありがとうございます。亜門によろしくお伝えください」  『……わかりました』  駕籠を降ろされ、従者たちが走り去る足音が聞こえた。もうここには自分しかいない。  駕籠に乗ったまま迎えが来るのを待つ。  夜の帳が降り、梟の鳴き声が不気味に響く。妖の気配が刻一刻と濃くなる丑三つ時。  ざあと強い風が一陣吹き、駕籠がわずかに揺れた。  しばらくすると竹簾の隙間から眩しいほどの光が差し込んできた。かさり、と小さな足音がする。  『文香をお持ちですか?』  蛇神の迎えなのだろうか。鈴のように愛らしい声音は子どものようだ。  朝陽は文香を竹簾の隙間から使いの者に見せた。  「確認いたしました。ではこのまま運びます。揺れますが、動かずにお待ちください」  「わかりました」  ふわりと駕籠が浮いた。そしてそのまままっすぐに進んでいく。  籠はたがたと左右に激しく揺れ、朝陽は外に投げ出されないように縁を掴んだ。  しばらくすると揺れはおさまり、また地面に置かれたようだ。  『着きました』  竹簾を開けてもらい外に出ると黒い兎が立っていた。二本足で立ち、朝陽の腰くらいの背丈しかない。黒豆のように澄んだ瞳が愛くるしい。  「風鈴と申します。夜刀様のお世話をしています」  風鈴は恭しく小さな頭を下げるとぴんと長い耳を伸ばした。  「う、兎が喋った!?」  朝陽の反応に気分を害することなく、風鈴はくつくつと笑った。  「天界では兎が神の使いなのです」  「そうなんですね。すいません、大声出してしまって」  「いえ、驚かれても仕方がありません。人間界の兎はもっぱら食糧ですもんね」  冗談なのか嫌味なのかわからず苦笑いで返した。  「朝凪様、でよろしかったでしょうか」  「……はい」  朝凪の振りをしているのでゆっくりと頷いて見せた。  風鈴は満足した様子に鼻をひくひくとさせ、「中へご案内します」と歩き出した。  朝陽が降ろされた場所は寝殿の門前だ。門柱には天に昇る蛇がいまにでも飛び出してきそうなほど迫力がある。  土塀は目を凝らしても先が見えない。一体どこまで続いているのだろうか。  寝殿に入るとくすみ一つない木目の長い廊下が続き、美しい池の庭園も見えた。桜の木が並び、風に煽られて花弁を散らしている。  (こんな穏やかな場所なんだ)  てっきり暗い洞窟なような場所に連れてこられ、有無を言わせず食べられるのだとばかり思っていた。  だが風鈴や屋敷の様子から優雅な時が流れているのを感じる。  (それにいまは夏のはずなのに変だ)  毎日汗だくになりながら畑仕事をしていたのに、ここの気温は過ごしやすい。  「天界では神の好きな季節にすることができるのです」  朝陽がじっと桜を見ていて気づいたのか風鈴が説明してくれた。  「天界?」  「神様がいる世界のことです。いまいるここですね。朝凪様がいらっしゃった世界を人間界と呼んでいます」  神様の世界と人間の世界は二つに分かれているが、行き来は可能らしい。けれど人間が無闇に来れないように秘匿とされているそうだ。  「こちらがこの屋敷の主、夜刀様のお部屋でございます」  風鈴が立ち止まった襖には銀色の蛇が天に向かい、幾重にも重なり合っている絵が描かれている。引手には花角木瓜が使われ、豪奢な絵に合っていた。  朝陽はごくんと唾を飲み、座った。  「夜刀様、お連れしました」  『入れ』  風鈴が襖を開けてくれると床の間を背にした男が鎮座していた。  黒羽二重五つ紋付を羽織り、胸元には蛇の紋が描かれている。  陽光を浴びた銀髪は畳に届くほど長く、光の粒子を放っていた。涼やかな両目は黄金に輝き、肌は新雪のように汚れがない。  鼻から下は白い布で覆われてしまっているが、かなりの美男子だ。  あまりの美しさに呆けていると夜刀は眉間に小山をつくった。  「お初にお目にかかります。朝凪でございます」  朝陽は指を揃え、深くお辞儀をした。  夜刀の視線が絹帽子のてっぺんに注がれているのがわかる。冷や汗が背中を伝う。もしかして朝陽と気づかれてしまったのかと思うと、怖くて顔を上げられない。  「顔を上げよ」  ゆっくり上半身を起こすと肘置きに肘をのせた夜刀は瞬きもせずにこちらを見ている。まるで朝陽の心意を探るように鋭い。暑くもないのに額に汗が浮かぶ。  「もう一度名を申せ」  「朝凪でございます」  朝陽が繰り返すと夜刀の両目がわずかに見開かれた。  「文香を持っているな」  「はい」  袂から文香を出すと夜刀は首を傾げ、風鈴を呼びつけた。  二人は耳打ちし合い、風鈴は小さな手を口元に置いた。離れたところにいる朝陽には二人の声が聞こえない。  そのままじっとしていると風鈴は戻って来た。  「申し訳ありません。あの……人違いだったみたいで」  「人違い?」  ここまで連れて来といて人違いなんてあるのか。  朝凪の元に夜刀からの文香が届いた。駕籠に乗る前に風鈴にも見せて確認してもらっているから間違いない。  (もしかして贄もいらないほど蛇神様はお怒りなのだろうか)  夜刀は部屋に入ったときから終始不機嫌そうに眉を寄せていた。それほどの怒りをおさめるためには食べるだけでは足りないのかもしれない。  「ですので、一度お戻りいただいでよろしいですか? 本当は規律違反なのですが、こちらの不手際ですので」  「困ります!」  朝陽はばっと顔を上げた。  「どうかぼ……わたくしを食べて、怒りを鎮めてください」  朝陽は額を畳に押しつけながら深く頭を下げた。  このまま戻されてしまったらみんなの気持ちを裏切ったことになる。朝凪や亜門、幼いときから支えてくれた村の人間の顔を順に浮かべ、朝陽は奥歯を噛んだ。  心の片隅でほっとしている自分に気づいてしまった。  このまま返されれば、朝凪と亜門の婚礼を見ることができる。二人から産まれた稚児を抱くことができる。  あれこれと心残りが泉のように浮かんできてしまい、朝陽は慌てて栓をした。自分がここに来た役目を忘れるなと叱咤する。  涙が込み上げそうになり、ぎゅっと喉に力を入れた。  そのままじっと耐えていたが夜刀からの反応がない。目線だけ上げると黄金色の瞳は大きく見開かれていた。  「私が、人の子を食べるだと?」  「日照りが続き、川が干からび野菜がやせ細っています。蛇神様がお怒りのせい……なのですよね?」  「莫迦らしい。なんだ、その言い伝えは」  夜刀はふんと鼻を鳴らすと白い布が少しだけふわりと浮いた。  「私は人の子は食べない」  「ですが、村ではそう言い伝えられています」  「人の子の記憶などあやふやなものだ。どこかで齟齬がでても不思議ではない」  「ではお食べにならないのですか?」  「くどい。そう言っているだろ」  夜刀の言葉に身体が小刻みに震えだし、涙が溢れてしまった。堪えていた恐怖が後から後から続いてくる。  「なにを泣いている?」  「死を覚悟してきたので……その、ほっとしてしまいました」  正直に吐露すると夜刀は面食らったように眉を跳ねさせた。  死ぬのは怖くないと言い聞かせていた心が緩んでしまった。えっぐえっぐと子どものような嗚咽が止まらない。  風鈴が背中を撫でてくれ、そのやさしさにも涙が頬を伝う。  「本当にお返ししてよろしいのですか? 朝凪様も充分器量あるお方のようですよ」  「だが」  風鈴の説得に夜刀は渋面をつくった。どうやら彼の真意ではないらしい。  しばらく静寂な空気が張りつめていると夜刀がようやく顔を上げた。  「儀式は延期する」  「神力はどうするのですか?」  「まだ猶予はある」  朝陽は二人のやり取りを呆然と見つめた。なにが起こっているのかさっぱり理解できない。  疑問に答えるように風鈴が説明を始めた。  「神力とは神の力のことでございます。花を咲かせ、雨を降らせ、生命に力を与えるものです。ですが、夜刀様の神力は弱まり、すべての力は使えないのです」  「どうすれば強くなるのですか?」  「人の子からの夜刀様への信仰心です。夜刀様が守護する朝凪様の村は、その……あまり」  風鈴が言い淀む理由を察し、朝陽は顔を伏せた。  「村では蛇神様は恐れられていました」  村の人間は誰も蛇神を祀る祠に近づこうとすらしなかった。腐り果てていた祠を直したのも朝陽と朝凪の二人だけだ。  「いまから信仰心を集めるのは無謀です。他に手を考えませんと」  風鈴の問いかけに夜刀はまたしても考え込んでしまった。  食べられずに済んだが、これでは村の干ばつは進む一方だ。一日でも早く雨を降らせたい。  朝陽はもう一度深く頭を下げた。  「死ぬ覚悟をしてきた故、なにをされても恨みません。どうか村をお救いください」  「私とまぐわうことも厭わないと?」  「まぐわっ……」  湯が沸けそうなほど朝陽の顔は熱くなった。  閨の知識どころか経験もない。夜刀を満足させるような手練手管もないが、死ぬよりましだろう。男だと気づかれてしまう可能性は高いが、神力が集まり村を救える御の字だ。  夜刀は朝陽の真意を探るように両目を細めた。切れ長の目に睨まれると迫力がある。逃げ出したくなる身体を叱咤して、瞬きもせずに目を合わせ続けた。  「ご期待に添えられるかわかりかねますが、精一杯応えたいと思います」  一息で返すと夜刀は息を止めた。  「……変な女だ。だがそのまっすぐさも似ているのだな」  「え?」  夜刀の声が小さくて聞き取れなかった。だが彼はもう一度繰り返してはくれず、くるりと背を向けた。  「しばらくここに留まらせろ」  「かしこまりました」  そう言い残すと夜刀は奥の部屋へと引っ込んでしまった。  とりあえずこの場はおさまった、ということだろうか。  「これからよろしくお願いしますね、朝凪様」  「神様に不躾な真似をして申し訳ありません」  「夜刀様は慈悲深い方ですから大丈夫でしょう。それにあんなこと仰ってましたが獣のように襲う度胸はないので大丈夫です」  「は、はい」  主君に対し随分ないい草の風鈴にはらはらしたが、それだけ親愛が籠っているのだろう。  「ただ伝承が異なっているのが気がかりですね。本来は蛇神様に嫁ぐという名誉あることなんです」  風鈴の話によると文香が届いて神界に招かれることを嫁入りと呼ばれる。百年に一度、人の子を神に嫁がせ、神力を溜め、村を繁栄させる大事なお役目らしい。それは神界と人間界を守るために必要なことだ。  (だから白無垢を着なくちゃいけないんだ)  朝陽は自分の姿を思い出し納得した。食べられるだけなら着飾る必要はない。  「もしや先代が」  「先代様がいらっしゃるのですか?」  「いえ、なんでもありませぬ」  風鈴は小さな頭を左右に振った。  「つまりいまの朝凪様は夜刀様の婚約者ということになります」  「婚約者!?」  素っ頓狂な声をあげると風鈴は力強く頷いた。  「神に見初められるとは朝凪様は随分と器量な方とお見受けします。どうぞ、夜刀様の御心を包んでください」  深々と頭を下げられてしまい、朝陽はしばらく途方に暮れた。 

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