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01.ここはどこ? オレは誰?

 乙女趣味な花柄の、精緻な刺繍に埋め尽くされた柔らかな布たち。重厚なフリルが幾重にも連なり、巨大なリボンが垂れ下がる。それらに今、前後左右上下斜めを死角無く囲まれてしまっている。何だこれ。さながらレースの牢獄だ。  窓から朝陽が射し込んでいる様子は窺えるが、何せ布越しなので薄らぼんやりとしか見えない。  さらにそこはかと無く漂っているこの得も言われぬ良い香りは一体? 花のような、森のような、フルーツのような。甘さと爽快さに鼻腔がくすぐられる。  そう言えば腹が減った。何か口にできるならば、フルーツよりもガッツリとした肉や米が良いのだけれど。 「おはようございます、ミラ様」  食欲へと意識が向かいかけたとき、右手側より滑舌の良い男の声が聞こえてきた。声の主は薄いレースの向こう側で、姿勢正しく直立している。 「気持ちの良いお天気ですよ。この分なら午後からもきっと晴れますね。本日はセティアス様がお越しになる日ですから、お靴が汚れてしまわれずに済みます」  一向に状況を把握できずにいるこちらのことなどお構い無しに、彼はいそいそと目の前の布を開け放った。それが天蓋付きベッドのカーテンであったのだと、やっとのことで認識できた。自分は何故、こんな場所で眠っていたのだろう。  彼は若草色のスーツに身を包み、首もとに真っ白なリボンタイを結んだ少年だった。いや、童顔ではあるが青年かもしれない。人懐こい真っ直ぐな視線が、その誠実な人柄を証明しているかのようだ。 「ミラ様、どうかなさいましたか? お飲み物をお持ちいたしましょうか?」  不思議そうに首を傾ける彼の顔は、もちろん初めて見る。彼だけでなく、先ほどから目をチカチカさせているこの派手がましいベッドも、カーテンの奥に覗く無駄に広々とした豪奢な部屋の光景も。高い天井に光っているのはシャンデリアか? 陽の光を眩しく反射させている。 「……ミラ様? ミラ様!」  呆けているうちに彼の語気は強まり、眉根がしかめられた。心配してくれていることだけは伝わってくる。だがいかんせん、置かれている事態が何一つ分からないのだ。何と返答すべきか見当も付かない。 「お体の具合が優れないのですか? 魔法医の先生をお呼びしますか?」  ……マホーイ。聞き慣れない言葉だ。そもそもミラサマというのも初耳である。  若草色を纏った彼は、すぐ眼前にまで顔を近付けてきた。丸い輪郭がやはり幼さを感じさせるものの、しっかりとした物腰は信用に値する。瞳も丸いが少しだけ目尻が上がっているのかな、などとつい見入ってしまって気付いたのだが、彼はかなりの美男子だ。いわゆるかわいい系男子とでも言うのか。 「ミラ様っ!!」 「お……、おっ、おあ、あああ……」  掴まれた両肩をガクガクと揺さぶられて、初めて口から声が漏れた。だが、自分の声は果たしてこのような音だっただろうか? どこか他人のもののように感じるのは何故だろう。 「ミラ様っ!! ミラ様ああーーっ!!」  整っているはずの彼の顔は、次第に喜劇へと変わっていった。目も口も鼻の穴までもが大きく開き、焦燥に支配された彼はベッドに片膝を埋め、覆い被さるように必死の形相で大騒ぎしている。  そんな姿につい吹き出してしまったのは許して欲しい。 「んははは! ヤベーぞそれ、変な顔!」  彼は一瞬にして固まり、瞬きもせず、息すら止めてしまった。青ざめたと言うべきかもしれない。変な顔、はいくらなんでもまずかったか。謝るべきだろうか?  だがその前に、聞きたいことがある。 「……てゆーか、あのさ」 「…………」  まだ金縛りから解けないらしい彼をそのままに、満を持して問いかけた。未だ違和感の拭えないこの声で。 「……ここってどこ? おまえ誰? ミラサマっていうのは……ひょっとして、オレの名前?」  広い部屋に、窓の外に、もしかしたら敷地全体に響いたかもしれない絶叫が、鼓膜を突き刺すように通り抜けていった。 「ギャアアアーーーッ!! 誰かあああーーーっ!! ミラ様があああーーーっ!!」 ◇ ◇ ◇  整理する。ミラサマというのは、やはり我が名であるらしい。フルネームを、ミラ=オーン=シュレインと言うそうだが、どうもピンと来ない。 「ではミラ様は、ご自分のお名前もこれまでのことも、一切何も覚えておられないということですか?」  寝室から移動し、柔らかいソファに座らされたミラ=オーン=シュレインは、返事の代わりにただ首を傾けた。  今ミラに問診をしているのは長い髭を蓄えた老人だ。マホーイ、つまり魔法医だと名乗った。魔法使いと言えばやはり髭だよな、などと思うこの知識はどこから来たものなのか、ミラ自身にも分からない。 「なあなあ、それより魔法ってどんなの? 空とか飛べる? 変身したりすんの?」  目を輝かせるミラとは打って変わって、魔法医の表情はみるみる険しくなってゆく。隣に立つ先ほどの若草色の青年に至っては、ずっとハンカチを目に当てて泣き腫らしている始末。  気の毒に、などと思うのは責任転嫁なのだろう。彼の嘆きの元凶はミラにあるのだから。  次第に周囲には、ズラリと人垣が築かれてしまった。青年と同じく目元を押さえる者、信じられないとばかりに首を振る者、憐れみの目を向ける者も少なくない。誰もが現状のミラの様子にただ愕然としている。 「覚えておられることはありますか? お家のこと、薬のこと、セティアス様のことは?」  また魔法医に尋ねられた。薬と言われても心当たりは無いが、セティアスなる単語には聞き覚えがある。今しがた、隣の青年が口にしていたはずだ。 「……ああ、コイツもさっきそんなこと言ってたな? セティアスがどうのこうのって」 「ミ、ミラ様っ?!」 「ミラ様っ!!」 「いけませんミラ様!!」  問われたから答えたのに、あちこちから非難の声が上がってしまった。キョロキョロと辺りを見回し、バツが悪そうに口を尖らせるミラ。何か良くない発言をしてしまったようだ。  魔法医も青年ももはや、青ざめを通り越して色の抜け切った顔色をしている。 「……ミラ様、婚約者様に対してそのようなおっしゃり方はなりません。そもそもセティアス様は……」  努めて冷静に言い聞かせようとしている魔法医の言葉を遮り、ミラはソファから身を乗り出して叫んだ。右手の拳をグッと握り締めながら。 「え!! オレ婚約してんの?! マジで?! ヤッターラッキー!! どんな子? 美人なんだよな? 巨乳? それとも爆乳?!」  バタリ、とすぐそばから音が聞こえた。青年が気を失って倒れた音だ。それで終わりではない。バタバタと人垣を瓦解させるように、男も女も何人もがその場に崩れ落ち始めた。  魔法医はその目の奥に、ミラに対する戦慄の念すら滲ませている。それほどまでに悪いことを言ったつもりは無いのだが。  最後に聞こえてきたのは、絶望に似た男の濁り声だ。部屋の入口ドアにもたれかかる中年男性が、今まさに意識を失う中年女性を抱き止めたところだった。 「ミラ、一体何が起きたのだ……!」 ◇ ◇ ◇  ミラはすっかり恐縮しきっていた。果たして何人の人間を倒れさせてしまったのか、数えてはいないがさすがに申し訳なさは感じている。あまりの事態だと人払いされたため、ひとまずギャラリーはいなくなった。  小さな氷嚢のようなものを額に当てた若草色の青年と、小刻みに髭を震わせる魔法医、そして眉間の皺を取ろうともしない中年男性の3人に至近距離で取り囲まれ、ミラはうつむいた。 「何も記憶が無いだと? この恥晒しが!」  中年男性は憤りを隠さなかった。汚いものを見るかのような目でミラを見下している。  この男性が我が父親であるということを、ミラは数分前に教えられた。ついでに、父の腕に倒れ込んでいた中年女性は母親らしい。数人がかりで運ばれて行ったっきり戻って来てはいないけれど。  引き続き涙を拭う青年の名は、オンサ。ミラの側近であるとのことだ。 「ミラ様、何故このようなことに……、おいたわしい……」  魔法医から渡された手鏡で、おもむろに自分自身の顔を確認してみる。ペタペタと頬に触れてみても、これが本当に自分なのかとまだ半信半疑だ。  しかし顔の作りは悪くないのではなかろうか。いや、むしろ良いぞ? とても良い。美男子だと思っていたオンサよりもさらに美形が映っていたため、思わずうっとりとしてしまったのは自意識過剰だろうか。  全体的に色素が薄いのだろう。陶器のような白い肌に滑らかな銀髪、切れ長で奥二重の目を縁取る長い睫毛、透明感のある瞳の虹彩にも銀色が混じって深く煌めいている。  付き人がおり、天蓋付きベッドで眠り、様付けで呼ばれている以上、ミラにはある程度の身分が与えられていることは間違い無い。しかも稀に見るこの美形だ。加えて既に婚約者までいると来れば。これはもう、今後の人生イージーモードでぶっちぎれるのではないか?  こっそりとニヤつくミラには気付かず、魔法医はつらつらとミラの身の回りについての説明を続けている。  薬、と言っていたのは我がシュレイン家の家業を意味していた。魔法薬術とやらを生業としてきた貴族の家系であるそうだ。ミラも幼少の頃から魔法薬術を学んでいる身であり、軽い怪我や感冒くらいなら癒せる術は習得しているのだとか。  だが今のミラには何もかもがさっぱりだ。魔法? 薬? そんなもの、何をどうすれば何がどうなるのか見当も付かない。  父は盛大な溜め息をついた。 「……ただでさえシュレイン家の出来損ないだったおまえが、よもやこれよりまだ下へ落ちようとはな」  ムッとして父を睨み上げるミラを庇うように前へ立ったのは、オンサだ。 「お待ちくださいグアロ様! ミラ様はおそらく一時的な記憶喪失なのでございます! きっと……、きっとすぐに、いつもの慎ましやかでお美しいミラ様にお戻りになるはずです!」  グアロとは父の名であろう。シュレイン家の当主に違いない。  慎ましやかでお美しい、という形容はどうにもくすぐったかったが、父と違ってオンサはミラの味方であるようだ。  それにしても嫌な父親だ。仮にも実の息子の非常時に出来損ない呼ばわりは酷い。そもそも上からねめつけるような視線も気分が悪い。魔法医や人垣たちには少なくとも心配しているらしい気配はあった。だが父の目からは軽蔑すら感じられる。  そんなミラの不服を知ろうともせず、父グアロは続けた。 「今日はセティアス様がお見えになる日であろう。このような状態ではとてもではないがセティアス様の御前になど出せぬぞ!」  そう、セティアス。この謎の単語こそが、なんと自分の婚約者の名であるということを知らされ、ミラはまたしても浮かれてしまっていた。  不遜の塊のような父でさえ様付けで呼ぶところを鑑みるに、シュレイン家よりもかなり格上の家柄なのであろう。 「逆玉か……、んへへへ……」  つい締まりの無い口角のまま顔を上げてしまった。途端にグアロに叱責される。 「みっともない声を出すな! おまえは今から一歩も部屋を出てはならぬ! 記憶が戻るまで誰にも会うな! セティアス様には私のほうからお断りを入れておく! おまえの記憶は……!」  しかしグアロが命令を告げ終わるより早く、ミラの部屋の空気は冷たく鋭く一変したのだ。 「記憶、とは?」  低い声だった。まるでそこから凍りついてゆくかのように、底冷えする威圧感。ミラの見やった先には、厳めしい黒の甲冑に黒のマント、黒く尖ったブーツの黒髪の大男が部屋の入口を塞いで立っていた。 「セッ……、セティアス様っ……!」  グアロが冷や汗を浮かべて口に手をやる。オンサも狼狽えて思わず後ずさった。 「セティアス様っ……! 本日お越しのご予定は、午後からでは……?」 「使用人の分際で私の行動に口を挟むな」 「はっ……、申し訳ございません!」  床に膝を落とし、オンサは前に揃えて組んだ両腕を掲げるようにして頭を下げた。震えている。だが黒い男はオンサを一瞥もせずツカツカと部屋の中央まで歩を進めた。 「挨拶が遅い。相変わらずノロマで無能なクズだな、ミラ」  男はミラに氷のような目を向けた。瞳までもが夜の闇のように黒い。抑揚の無い声が部屋の温度をさらに下げているのを感じる。  ミラはしばしその真っ黒な物体を呆気に取られて見上げていた。  ミラの中で父グアロは、横柄で嫌味で薄情で、「ムカつくランキング1位」に先ほど認定されたばかりであった。それがこうも短い時間内に、あっという間の順位変動が起こるとは。 「……あ?」  鼻の上に皺を寄せ、でき得る限り眉を吊り上げて、ミラは無礼極まりないこの「ムカつくランキング新1位」に君臨した黒い男を睨み付けた。 「なんだテメー、ケンカ売ってんのか! 人の部屋に挨拶も無く入り込んできたクズはテメーのほうだろ!」 「…………」  黒い男は沈黙した。  勝った、とほくそ笑むミラの体に、突如オンサとグアロ2人分の重みがのし掛かってきたのはあまりにも不意打ちである。 「ギャアアアーーーッ!! 違うんですセティアス様違うんです!!」 「御無礼を平に!! 平に!! ご容赦平にいいいーーー!!」  ギャアギャアと喚き散らす側近と父に全体重をもって押さえ込まれ、ミラは「ぐえぇ」という醜い呻きを漏らしながらもがいていた。  その間も2人は考え得る限りの言い訳を並べ立てているし、黒い男は沈黙したままだ。 「ミラ様はあっ!! お体の具合が急にいぃっ!!」 「愚息の戯言はお忘れくだされえ!! 本日はどうにも頭がおかしく……っ、いや急病で! 急な急病でえぇ!!」 「…………」 「ちょ……、重、……おい待て、どけ……!」 「違うんですセティアス様あ!!」 「どうかお忘れをお!!」 「…………」 「痛いって! 重……、クソジジイが特に重……」  何とか顔を出そうとするも、オンサの両腕に頭ごと抱え込まれ、グアロの出っ張った腹に背中から潰され、ミラは狭い範囲で手足をパタつかせるだけで精一杯だ。 「…………」 「…………」 「…………、本日は、引き上げる。……ひ、日を、あらためる」  たっぷりと沈黙に時間を費やし、黒い男はマントを翻して冷えた空気ごと去って行った。ブーツの奏でる大仰で重厚な靴音がまた不愉快だったけれど。  まだ2人分の体重を引き受けたままで、ミラは沸々と沸き上がる怨み節を連ねた。 「ムッカつくなあー……何なんだアイツ! 面と向かって無能とか言うか普通? あの野郎のせいで部屋寒くなってんじゃん! 冷酷な性格が空気を凍らせてんだなあれは。アイツ絶対嫌われ者だぞ」 「ヒッ……」 「ミラ……」  オンサとグアロは涙ぐんでいた。 「ミラ様……、あの御方がセティアス様です……。ミラ様の、婚約者様でございます」 「……えっ!!」  そうか、言われてみればあの男は何度もそう呼ばれていた。セティアス、それはミラの巨乳(仮)の婚約者の名であったはずなのに。  オンサの言葉にミラはこれでもかと大きく口を開いた。吸い込めるだけ息を吸い込み、目を見張り、美形も形無しに顔を歪ませて。  これはミラ=オーン=シュレインの心からの悲鳴である。 「オレの婚約者って……、男なのかーーーっ!?」 ◇ ◇ ◇

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