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今日も隣で寝息をたてて #1
僕の一日は、世界で一番大好きな恋人である捺生の寝顔を見ることから始まる。
前日の夜にセットしておいたアラームがピピ、と鳴り出してすぐに目を覚ました。それ以上鳴ることがないように音を止めてちらり、とすぐ隣に視線を向ける。すやすやと寝息をたてたままの捺生はまだぐっすりと夢のなかだった。ふう、とちいさく息をこぼす。
捺生は朝があまり得意ではない。仮にアラームを鳴らし続けていたとしても、すんなりと起きるかどうか、なんとも言えないところであるくらいだ。彼と一緒に暮らすようになってから、彼を毎朝起こすのは僕の仕事のひとつになっている。
起きているときよりも幼気に見える寝顔をじっと眺める。寝癖によってあらわになっている額にちゅ、とキスを落とす。誰に見られているわけでもないのにすこしばかり照れが襲ってきて、そわそわしながらベッドから抜け出した。「キスをするときにいちいち確認しなくていい」と捺生に言われているから稀に不意打ちをすることもあるけれど、毎回僕の心臓はばくばくとうるさく鳴るのである。
捺生が僕のことを好きになってくれて、こうして一緒の部屋で生活をおくれるようになった。でも、僕にとって都合が良すぎる。
全部夢なのではないか。実家のベッドより一回りも二回りも大きいベッドで、彼と何十回も一緒に眠っているのに朝が来るたびに同じことを思ってしまっている。毎朝、しあわせそうに僕の隣で寝息をたてている彼の寝顔を目にしてやっと安心できるのだ。これは夢ではなく、現実なんだって。
顔を洗って歯を磨いて着替えを済ませ、キッチンへと向かう。基本的に朝食は朝に強い僕の担当だ。
今日のメニューは捺生のリクエストであるフレンチトーストである。鼻歌を歌いながら冷蔵庫からスープ用とサラダ用の野菜を取り出して、慣れた手つきで調理を進めていく。
捺生がおいしいと言ってしあわせそうに食べてくれるのが嬉しくて、彼と一緒に暮らすようになってからレパートリーが格段に増えた。手際もよくなっていると自負している。
サラダを作りながら、フレンチトーストの付け合せをベーコンにするかソーセージにするか考える。捺生はどちらも好きなようだからこそ迷ってしまう。今日はどちらの気分だろうか。
彼の気分を予想して、カリカリに焼いたベーコンにすることに決めた。ベーコンと卵を取り出す。大きい冷蔵庫にしてよかった、と料理をするたびにしみじみと感じている。
スクランブルエッグとベーコンを皿によそって、昨晩のうちに仕込んでおいたフレンチトーストをじゅわっと焼き上げて隣に添えた。うん、今日もなかなかおいしそうに作れた。
そろそろかな。ちらりと壁時計に目をやると、針は想定通りの数字を差していた。エプロンを外しながら寝室へと向かう。たぶんきっと、彼はまだ夢のなかにいるだろう。
「なっちゃーん」
彼の名前を呼びながら寝室へ入り、ベッドを見る。僕がベッドから出たときから変わらず、捺生は定位置で眠りについていた。
カーテンを開けながら「なっちゃん、朝だよー」と声を掛ける。薄暗かった室内に陽の光が射し込んで一気に明るくなった。
眩しいのか、捺生は「んん……、」とちいさく声を上げて身動ぎをする。彼の身体を覆っている掛け布団を捲りあげて肩を軽く揺さぶった。
「今日の朝ごはん、なっちゃんリクエストのフレンチトーストだよ。あったかいうちに食べてほしいなあ」
「フレンチ、トースト……」
いつもよりもかなりゆったり、むにゃむにゃとやわらかく紡がれる言葉はすこしくすぐったい。でも、もっともっと聞いていたい気持ちになる。普段しゃんとしていて格好いい捺生が、実は朝はこんな調子だと知っている人はそう多くないだろう。彼のこういった珍しい一面を見るたびに優越感を覚えてしまう僕は性格が悪いと思うけれど、止められない。
「なっちゃん、起きられそう?」
「……おきる、」
まだ脳は起ききっていないのだろう。ぽそぽそと小声で話しながら、もそもそとベッドから這い出る捺生に「リビングで待ってるね」と告げる。ベッドから離れて一足先にリビングに向かおうとしたタイミングで「みお」と呼び止められた。
「うん?なぁに」
声が聞こえたすぐ後ろを振り向く。ベッド近くに立っている捺生にちょいちょいと手招きされた。なんだろう、と思いながらも彼のすぐ近くまで引き返す。彼との距離が三十センチほどになってすぐに、するりと首に腕を回されてぐっと身体を引き寄せられた。次の瞬間、ちゅ、と音をたてて触れるキスをされる。
「……まだ歯磨いてないから、これだけ。おはよ」
「僕は全然気にしないけど……おはよう、なっちゃん」
「ん」と短く言ってから、彼は大きな伸びをする。欠伸を一、二回こぼしつつも、意識がはっきりとした様子の捺生が洗面所に向かうのを見送ってから、そっと自分のくちびるに触れた。
さっきのキスは他でもなく「僕を生かすためのキス」だと分かっている。けれど「そういう意味」だけでのキスではないと言うような、僕のことを愛しいと、大事だと思ってくれているのが痛いほど伝わってくるキスだった。彼とこういったキスをするたびに胸の奥がずきずきする。ああ、どうしようもなく好きだな。
捺生はとてもやさしい。
彼がどれくらいやさしい人間なのかを説明するには、僕と彼の過去の話が一番分かりやすいだろう。
僕と捺生はいわゆる幼馴染だ。昔から花屋を営んでいた僕の実家の隣の空き地に家が建てられて、そこに引っ越してきたのが捺生だった。
彼と初めて会ったのは僕たちが四歳の頃だ。同い年であり、親同士の交流もあったのでたちまち仲良くなった。──正確に言うと「仲良くなった」というより「僕が彼に懐いた」と言うほうが正しいかもしれない。
幼い頃の僕は身体が弱くて寝込みがちだった。
僕の母が淫魔であり、その血を引いているというのが大きな理由だったのだろうと今になっては思う。外で遊びたい年頃だろうに、捺生は「本、読むの好きだから」と言って僕の部屋によく遊びに来てくれた。彼のお気に入りの本の読み聞かせをしてくれたり、一緒に絵を描いたりと、たくさん僕に構ってくれたのだ。
身体が小さくて、あまり強く言い返せない引っ込み思案な僕を他の子から守ってくれたのも彼だ。
捺生は僕の一番で、誰よりも大切な存在になった。彼に向ける「好き」の気持ちが恋愛感情を含んでいるものだと気がついたのはいつだったか、実のところ覚えていない。けれど、そう自覚した途端にすとん、と心のなかで落ちる感覚がした。しっくりきた、という言葉が近いかもしれない。
それからの僕は、捺生とは一番の親友でいながらも近づきすぎないように気をつけて接するようになった。彼が誰よりも何よりも大事なのだ。彼を傷つけるのは僕であっても許せないし、彼にこの気持ちを知られて距離を取られたらと考えただけで消えたくなる。
捺生はたとえ僕が彼に好意を寄せていると知っても態度を変える人間ではないと分かっているけれど、それでも、絶対に知られたくなかった。この感情は墓場まで持っていって、いつか彼の結婚式で友人代表スピーチをすると決めていた。
ただの親友、ではなくなってしまったのは、僕が引いている淫魔の血による事故からだ。
小学校に上がる頃には徐々に身体も丈夫になって、普通の生活を送れるようになっていた。しかし、中学校に上がる頃からまた身体に力が入らなくなることが増えていってしまった。
母によると「精気不足」らしい。一番僕と相性がよかったバラの花から精気を貰ってなんとかそれまでと変わらない生活を送っていたものの、高校に上がる頃にはそれでは足りなくなってしまっていた。誰かに教えて貰わなくても分かる。ご飯をいくら食べても、お腹がすいてすいて仕方がないのだ。
それでも、誰かに迷惑をかけるのは嫌だった。
やつれていく僕を心配する家族に申し訳ない気持ちになりながらも、応急処置にしかならないバラを食んでなんとか命を繋いでいた。そんな「食事」をしていたところを、偶然捺生に見られてしまったのだ。
僕が口をつけた瞬間にしわしわと枯れていくバラを見られてしまったので、言い訳はできなかった。僕は隠しごとをしたりうそをつくのが下手だと、何度も捺生に言われているくらいだ。捺生のことがずっとずっと誰よりも大切で特別だという、一番の隠しごとは彼にバレていなかったから、そこまで下手ではないとは自分では思っているのだけれど。
観念した僕の説明を聞いて、疑うことなく「そっか、分かった」と納得した彼は「人間から摂る必要があるなら、俺からにすればいい」ととんでもないことを言い出したのだ。恋人同士でしかしない行為を僕とすることに対して、彼はなんとも思っていないのだと知ってしまった。あのときの僕の心はそれまで生きてきた中で、最もぐちゃぐちゃだったと思う。
彼にとっては「僕を生かす」というのが何よりもの優先事項であるだけで、そのための手段はなんだっていいという、彼からの無自覚な特大の愛であったことに気づいたのは彼から精気を貰うようになってしばらく経ってからのことだった。気づいてしまったら、もうどうにも逃げられなくなって、彼から精気をもらえなくなってしまった。
それから色々と遠回りしたこともあったけれど、捺生も僕のことが恋愛感情で好きだと告げてくれた。親友だけではなく恋人という関係性も新しく追加されて大学生になった今、彼と一緒に暮らしている。
僕は、彼自身を含めた誰よりも僕のことを優先してくれてしまう捺生がたまにとんでもなくおそろしくなる。彼を失いたくない。彼のことが一番大切なのに、他でもない僕が壊してしまいそうだ。触れてもいいのだろうか、と伸ばした腕を引っ込めることがある。大好きだから、大好きなせいでこんなにも苦しい。
なっちゃん、ごめんね。こんな僕に気がつかないで。
ベッドを軽く整えてからリビングへと向かう。まだ寝癖がついたままの捺生が、マグカップふたつ分のミルクコーヒーを淹れてくれているのが目に入った。
「みお、おはよう」
「おはよ。目覚めた?」
「んー……、うん」
「今日はいつもよりもねぼすけさんだったね」
ここのところ、レポートや実習が重なっているようだったので忙しいのだろう。捺生はよく「大丈夫」だと言うし、実際涼しい顔をしながらこなしていくタイプだ。けれど、疲れが溜まらないわけがない。今日は早く休んでほしいと思っている。
ダイニングテーブルに向かいあって座って「いただきます」と言葉を重ねる。彼が淹れてくれたコーヒーは、今日も僕好みのミルク濃度と熱さだ。
「ね、なっちゃん。今日ってバイト?」
「いや、今日は休み」
「そっか。よかった」
「何かあったっけ」
「ううん。今日はゆっくり休んでね」
「ありがとう。みおはバイトだったよな。ラストまで?」
「うん、今日はラストまで。でも、締め作業は僕じゃないからそこまで遅くならないと思う」
一口サイズに切ったフレンチトーストを口に運ぶ。じゅわ、と甘さが染み出して口の中に広がった。うん、なっちゃん好みの甘さに出来てる。
ちら、とすぐ向かいに座っている捺生の顔を盗み見ると、ちょうどフレンチトーストを食べるところだった。気づかれないようにそっと視線を向け続ける。彼が味わうように咀嚼しながら口角を上げているのを目にして、短く息をついた。
「今日の夜ご飯、何食べたい?朝食食べてるのに気が早いかもしれないけど」
「うーん……」
二人で暮らし始めるときに決めたそう多くない約束事のひとつが、ご飯についてだ。と言っても難しい約束事ではなくて「できるだけ一緒に食べること」と「手があいている方が作ること」だ。朝食はほぼほぼ僕の担当になっていることに彼は申し訳なさを覚えているようだけれど、毎朝彼の寝顔と僕が作ったご飯をおいしそうに食べる顔を見られるという大特典があるので気にしていない。
今日は僕がバイトで彼が休みだから、夕飯担当は捺生だ。彼が作ってくれるものであればなんだっておいしいと感じるので「何でもいい」が本音だけれど、そう言われるのが一番困ると僕自身も重々承知している。あまり労力なく簡単に作れるもの……と脳内でレシピを探して「あ、鍋とかどう?確か、豆乳とお野菜あったよね」と検索結果を口にした。
「いいな、豆乳鍋。肉と魚はどっちがいい?」
「なっちゃんが好きなほうでいいよ。こないだは僕のリクエストで決めてもらったし」
「うーん……じゃあ、スーパー行って見てから決める」
「はーい」
フレンチトースト、ちょっと作りすぎちゃったかな……と思っていたものの、捺生の皿を見やるとぺろりと完食してくれていた。作った側としては、きれいになったお皿を見ると誇らしい気持ちになる。彼の皿にだけ盛り付けた生クリームもすべてなくなっていた。
「みお、今日一限からだろ?お皿は俺が洗っておくから」
「ごめんね、ありがとう」
彼の言葉に甘えて、ひとり先に家を出る準備を整える。一緒に登校したかったけれど、今日は僕だけ履修している講義が一限からある日だ。本来であれば、捺生はまだ寝ていてもいい時間である。
「起きなくても、起きるまで起こして。一緒にご飯食べたい」と言われているので、この曜日も毎朝いつもの時間に彼を起こしている。けれど、毎回ちいさな罪悪感がトゲのように刺さる。痛みには気がつかないふりをしていた。
出発する準備を済ませて、ピーコートを羽織ってリュックを背負って玄関へと向かう。パタパタと足音をたてながら捺生が玄関まで追いかけてきてくれた。
「もう出る?」
「うん。行ってきます」
「みお」
名前を呼ばれて、目線で合図を出される。ごくり、と捺生に聞こえないように小さく唾を飲んでから、薄いくちびるにそっと触れた。
くっつけあわせるだけの可愛らしいキスに焦れたらしい捺生の舌で、ぺろぺろとくちびるを舐められる。口を開くとすぐに捺生の舌が僕の口内に侵入してきた。ぬるりと意思を持って動くそれを絡めとる。深いキスであっても長時間でなければ捺生に影響は出ないとこれまでの経験から分かっているものの、やっぱりまだ躊躇してしまう。
捺生はそんな僕のことはお見通しだというかのように、じゅるじゅると舌を吸われた。
なっちゃん、今、どんな顔してるんだろう。
清廉潔白とまでは言わないが、性の匂いが薄い彼が朝からこんな熱烈なキスをしているのは中々に倒錯的だ。キスによる「食事」の効果というよりも、僕しか知らない捺生の一面に触れているということに、脳がぐわんぐわんと揺れる。
「っは、なっちゃん、もう大丈夫、だから」
ちゅ、と音をたててくちびるを離す。捺生のくちびるからつう、と垂れてしまったそれを慌てて取り出したハンカチで拭ったが、彼は特に気にしていない様子で「ありがとう」と言う。今の彼の姿は非常に色っぽいということに、彼自身は気がついていない。
「本当?無理してない?」
「してないしてない!ありがと」
「おいしかった?」
「っう、ん。甘いよ」
「フレンチトースト食べたあとだからか」
「や、なっちゃんの精気はいつも甘いよ」
「え、そうなの?」
「うん。お母さんも、お父さんの精気は甘いって言ってたし」
「そういうものなのか。甘いものが苦手だと大変だな……」
真面目な顔をして考え込んでしまった捺生にくすくすと笑いをこぼす。淫魔の母曰く、両思いの相手の精気はとんでもなく甘くて極上だそうだ。捺生以外から精気を貰ったのはもう遠い記憶の彼方のことだが、空腹が少しばかり満たされるだけで無味無臭だったような気がする。
「あ、みお、時間」
「あっ、もう行かなきゃ!行ってきます!」
「気をつけて」
「はーい!」
まだ捺生とくっついていたいし話していたかったが、もうそろそろ家を出ないと電車に乗り遅れてしまう。腕のなかの体温が離れてしまったせいでぴゅうぴゅうと吹く北風がいつも以上に冷たい。今夜の鍋を楽しみに、どうにか一日をやり過ごそうと思いながらとぼとぼと歩き出した。
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