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今日も隣で寝息をたてて #2
「お疲れさまです!お先に失礼します」
「おーお疲れ。あ、試作品のケーキ持ってくか?」
着替えを終えて帰宅前に店長に挨拶をすると、思いついた様子の彼にそう言われた。僕がバイト先についたときにはすでにケーキはすべて売り切れてしまっていたのでうれしい。
「え!いいんですか?」
「うん。お前の恋人、うちのケーキ気に入ってくれてるんだよな。今回も二人分の感想よろしく」
「任せてください!店長のケーキ、おいしいっていつも目を輝かせてますよ」
「そうか」
「あ、フレンチトーストのレシピもありがとうございました。早速今朝作ったんですけど、すっごくふわふわでおいしいのが作れました」
「それはよかった。ほら、持って帰りな。お疲れさま」
「ありがとうございます、お疲れさまです!」
店長にお礼を言って、手渡された白い小さな箱を持って浮かれ気分で店をあとにする。
僕のバイト先であるカフェは、店長手作りのケーキが特に評判の個人店だ。なんでも、元々は有名店でパティシエをしていたらしく、夕方前にはすべて売り切れてしまうことが多い人気ぶりだ。奇跡的にまだ残っていたらお土産に買って帰りたいな、と思っていたのですごく嬉しい。
大学から近いという理由でなんとなく始めたバイトだが、店長を始めとした他のバイト仲間も常連さんもいい人たちばかりだ。思いのほか楽しくて、僕の性に合っている。
ケーキを崩してしまわないように注意を払いながら家路を急いだ。
はやる気持ちを抑えきれなくて、ガチャガチャと騒がしい音をたてながら家の鍵を解錠する。店長と捺生の話をしたせいで、早く彼の顔が見たくてたまらなかった。
「ただいま!」と解錠できたと同時にドアを引き開けながら大きな声で言うと、玄関までお出迎えにきてくれていたらしい捺生が「おかえり。外、寒くなかった?」と声をかけてくれた。なんだか新婚さんみたいだ。数十回目になる感動を噛み締めながら、左腕でぎゅっと捺生を抱き寄せる。
「……コート、つめたい」
「わ、ごめん!」
「はは、別にいいよ。早く部屋で暖まって。先にご飯にする?」
あ、そうだ。と呟いたあとすぐにちゅ、と音をたててキスをされた。
不意打ちのそれに気持ちが追いつくよりも先に「こっちのご飯じゃなくて、鍋のほうな。こっちでもいいけど」といたずらっぽく言われて、顔にボッと熱が集まるのが分かった。俺をからかっているときの捺生は、優等生がしていい顔ではなくなっている。ずるい。そんな顔もできるなんて。
「っ鍋!鍋を食べます!」
「分かった。準備してくるから、手洗ってきて」
「ありがと!あ、なっちゃん、これ店長からどうぞって。試作品のケーキらしいよ」
「え」
「感想聞かせて~だって」
「俺なんかの感想でよければ……」
あ、この感じ、またレポート書いてまとめそう。「助かるけど、もっと気楽な感じでもいいよ~って店長言ってたよ」と言いながら白い箱を手渡して自室へと戻る。
自室でリュックを下ろしてコートを脱いで洗面所に向かい、手洗いとうがいをすませてリビングへと急いだ。リビングに足を踏み入れてすぐに、暖かい空気に乗っておいしそうな匂いが鼻腔を擽る。
淫魔の血が流れている影響で人間から精気を貰わないと生命維持をするのが困難だが、僕には人間の血も流れているので一般的な食事からもある程度は栄養が摂れる。というか、人間の食べ物も摂取しないと力が出ないのだ。
面倒なこの身体のせいで、捺生にはずっと迷惑をかけてしまっていた。いつだって申し訳ない気持ちでいっぱいだけれど「気にしなくていいから」と捺生に怒られてしまうので、なるべく考えないようにしている。
「わ、おいしそうな匂いがする!何か手伝えることある?」
「じゃあ、飲み物準備してくれる?」
「はーい。あ、鍋敷きも置いとくね」
「助かる」
料理をしてくれている捺生の邪魔にならないように注意しながら、二人分のコップに飲み物を入れてダイニングテーブルに並べる。鍋敷きをテーブルの中央にセットしてカトラリーと取皿を並べていると、あつあつの鍋を持った捺生がキッチンからやってきた。
「冷蔵庫にあったポテサラも出していいやつ?」
「あ、うん。ありがと」
「いえいえ」
飲み物を用意しているときに見えたポテトサラダを冷蔵庫から取り出して、パックからお皿に移す。僕も捺生もお気に入りの惣菜屋さんのポテトサラダだ。そういえば今日特売日だ、と頭のなかのカレンダーをなぞった。
「いただきます!お腹ぺこぺこだ~」
「いただきます。みお、バイトお疲れさま」
「なっちゃんもお疲れさま!……あ、お魚にしたんだ」
「特売日だったから。たくさん入ってるよ」
「やった」
捺生は見かけによらず、食欲旺盛だ。どれだけたくさん盛られていても涼しい顔をしてぺろりと平らげる。僕の実家で一緒に夕飯を食べるときには「捺生くんはおいしそうにたくさん食べてくれるから作り甲斐があるよ」とお父さんがにこにこと笑いながらよく言っていた。毎日食卓を共にするようになって、その気持ちが痛いほどよく分かる。
こんもりと盛られた鍋の具がどんどんと彼の胃袋へと消えていく。捺生に見つからないようにそっと、食材が次々に吸い込まれていくそのくちびるに視線を向けた。
彼の薄いくちびるの奥の温度を僕は知っている。その温かさを思わず思い出してしまいそうになって、ぶんぶんと首を振った。
「みお?」
「ごめん、なんでもない。なっちゃんって、明日バイトだっけ」
「休みにしたよ」
「え、おやすみ取れたの?僕もおやすみにすればよかったな……そしたらデートできたのに」
口を尖らせてそう漏らすと、捺生はちいさく笑った。明日はいつも通り遅番でバイトを入れてしまっている。平日よりは一緒に過ごせる時間は長いけれど、丸一日おやすみのときよりは短くなってしまう。もっとたくさん一緒にいたい。
「こないだ、十字路のところに新しいパン屋ができたらしいって話したの覚えてる?」
「あ、うん。一昨日そこの道通ってきたよ。おしゃれだねぇ」
「店内も広くて、中で食べられるらしいよ。ゆっくり起きて、ブランチにでも行こう」
起きられたら……と続ける捺生に今度は僕が笑った。
今日は待ちに待った金曜日、ふたりで夜更かしをする日だ。休日、気持ちよさそうに眠る捺生を起こさないようにアラームを止めてそのまま寝かせてあげてしまいがちな僕は、時刻を認識した彼にじとっとした視線で見られることが度々ある。……今日は眠る前に、あのパン屋さんの営業時間を調べておこう。
「ごちそうさまでした」
黒胡椒とチーズをたっぷりかけた締めのうどんも食べきって、満腹で夕飯を終えた。捺生につられて食べすぎたかもしれない。外の気温のせいで爪先まで冷たかったのに、いつの間にか全身ぽかぽかだ。
「みおもお茶飲む?」
「あ、僕淹れるよ」
「じゃあ、お言葉に甘えようかな」
「お任せください、お坊ちゃま」
「……ふ、何それ」
「こないだドラマで見たやつ」
「ああ、あったね。そういうの」
キッチンに立って電気ケトルでお湯を沸かしている最中に茶葉を準備する。うーん、今日はほうじ茶の気分かな。
暇なときに店長に教わるようになってから、様々なドリンクを淹れるスキルが上がったと自負している。
断熱のティーポットに茶葉を淹れてお湯を注ぐ。あとで飲めるように多めに作っておこう。蒸らしてからマグカップに注ぐと、香ばしい匂いがキッチンじゅうに広がった。
「なっちゃん、どうぞ」
「ありがとう」
同棲を始めるときに一緒に買った、色違いのマグカップの片方を捺生に手渡す。買った当初は僕の夢の象徴のようなそれを使うのがすこしばかり恥ずかしくもあったけれど、今ではどのカップよりも手に馴染んでいる。
「ほうじ茶だ」
「口のなか、さっぱりするかなって」
湯気がたつマグカップにふうふうと息を吹きかけてから口をつける捺生をそっと盗み見る。ごくり、と飲み込む音と連動して喉仏が動くのが目に入った。
「ん、おいしい」
「よかった~」
満足気な表情の捺生にちいさく息を吐いてからマグカップに口をつけた。口のなかに残っていた、こってりとした鍋の味を喉の奥に流し込む。
「豆乳鍋にうどん、やっぱりぴったりだねぇ」
「うん。リゾットもいいけど、今日は白米も食べてたし」
「さすがにお米とお米は重いよね……」
今度また作ろう、と話す捺生は上機嫌だ。おいしいものを食べるのが好きな彼の料理スキルは日々めきめきと上がっていると感じている。今のところ、お茶を淹れるスキルと甘いものを作るスキルはまだ僕のほうが勝っていると思う。
彼が僕から離れるのをためらってくれますように。そんなことを考えながら研鑽を積もうとしている僕のことは、一生気づかれたくない。
「マグカップ貸して。片付けてくるね」
「俺も手伝うよ」
「でも、今日の片付けは僕の担当だよ」
「お茶淹れて貰ったし、料理だって準備手伝ってくれただろ。それに、二人でやったほうが早いし」
僕より先に立ち上がって、キッチンへと向かった捺生を慌てて追いかける。捺生に休んでいてほしい気持ちはあれど、こうやって二人でキッチンに立つ瞬間が好きだ。一緒に暮らしているのだと強く感じる時間のひとつだった。
「お皿洗い終わったらお風呂入ってくるね」
「分かった。映画の準備しておくよ」
「観たいのある?」
「気になってるのがいくつか。でも、動きがあまりない作品だから眠くなるかも」
「そしたらそのまま寝ちゃお」
「みお」
「うん?」
「いや……、今日一緒にお風呂入る?」
「えっ!?」
「あ、泡つくよ」
「うわっ、ごめんありがと……」
急に投げかけられた豪速球に、思わず腕をずるりと滑らせてしまった。手からこぼれ落ちてしまった泡まみれのスポンジを拾い上げて、すぐ隣に立っている捺生に視線を向ける。僕が「なっちゃんにも着てほしいな」とやや強引に押しつけた、手触りがいいふわふわなパジャマに身を包んでくれている彼はどこからどう見てもすでに入浴を済ませている。何度見てもやはりよく似合っているパジャマは、主に金曜日にしか着られることがないのがすこし残念だが見られるだけで嬉しい。
「……なっちゃん、もうお風呂入ったでしょ」
「ばれたか」
「ふやふやになっちゃうよ」
「まあ、そうだね。じゃあ、また後で入れて」
「うん?」
はい、これで終わり。彼のその言葉ですべて片付けが終わっていることに気がついた。彼との会話に集中しすぎていたらしい。
「今日の入浴剤、ラベンダーのやつにした」
「紫色のだ」
「そうそれ。ゆっくり温まってきて」
そう言う声はひどくやさしい。どこかくすぐったい気持ちになりながら、捺生とお揃いのパジャマを手にしてお風呂場へと向かった。
ほかほかと白い湯気を立ち上らせる風呂場を後にして、がしがしとタオルで髪の毛についた水滴を拭いながら冷蔵庫のドアを開ける。牛乳パックを取り出してガラスのコップに注いだ。
「みお、出た?」
「あ、うん。いいお湯でした」
リビングから顔を覗かせた捺生がじ、と僕の顔を見つめる。何かついているのだろうか。
「なっちゃん?」
「髪、ちゃんと乾かさないと風邪引くよ」
そう言う捺生はリビングから消えてしまった。すこし経ってから戻ってきた彼の手にはドライヤーが握られている。冷たい牛乳を喉の奥に流し込みながら彼の行動を視線で追っていると、ソファに座った捺生がぽんぽんと足のあいだを叩いて「みお」と名前を呼ばれた。乾かしてくれるらしい。
シンクにコップを下げて、心を弾ませながら捺生の側へと向かう。彼の足のあいだ、ご丁寧にクッションが置かれてあった床に膝を抱えて座り込む。
カチ、とボタン音が鳴ってからすぐにごうごうと大きな風の音が静かなリビングに響いた。温かな風が頭に当てられる。
ゆっくりと丁寧に髪をかき混ぜる手つきはとても心地がいい。まぶたを閉じる。真っ暗な世界に「熱くない?大丈夫?」という捺生の声が落ちた。声色はやさしくて、胸の奥がじんわりと熱くなる。「大丈夫、ありがと」と返すと、頭を撫でるようにわしゃわしゃと髪をかき混ぜられた。捺生に頭を撫でられる度に心が跳ねる。何度だって撫でてほしい。
ずっと続けばいいのに、と思う時間ほどすぐ終わってしまうのが世の常だ。
「はい、乾いた」
「ありがと。ドライヤー貸して、片付けてくるよ」
「ん」
手渡されたドライヤーを脱衣所のいつもの収納場所に戻してリビングに戻ると、部屋の照明が落とされて暗くなっていた。テレビから溢れる光を頼りに、定位置である捺生の隣に腰掛ける。
「なっちゃん、準備してくれてありがとう」
「どういたしまして。今日ケーキあるし……って思ってるんだけど、ポップコーンもいる?」
「なくていいんじゃないかな」
「了解」
「なっちゃん、リモコン」
「ありがと」
ぼんやりとテレビ画面を見やる。彼が観たいと言っていた映画に表示が切り替わった。知らない作品だ。
ゆったりした音楽と共に物語が始まる。少し前の作品なのか、はたまたそういった印象を与えることを目的としているのか、ノスタルジックな色合いの作品だ。たぶん、恋愛映画だと思う。
手持ち無沙汰になりながら、ちらり、とすぐ隣に視線だけを移す。彼は、チェリーパイを口に運んでいるところだった。ちろ、と口のあいだから覗いた舌に思わずよろしくない気持ちになりそうになって、手を出してしまう前に目を逸らす。そんなことをしてしまったら「映画、嫌だった?」と聞かれてしまうかもしれない。捺生に気を使わせたくはなかった。
スローテンポな音楽と共に、大変ゆっくりと話が進む。おそらく画面に写っているふたりは最後には恋人になって幸せに暮らしましたとさ、という予定調和で終わるのだろう。
幸せな話は好きだけれど、スローペースで進む話にゆったりとした音楽、それに適度な暗さと暖かさがある室内は非常に眠気を誘ってしまう。隣に捺生がいる安心感もあって、気を抜くとすぐに眠ってしまいそうだった。
なっちゃん、映画楽しめてるかな。
そう思いながら捺生の方を向くとばちり、と視線がぶつかって、ぱちぱちとまぶたを瞬かせた。
「……みお。映画、つまらない?」
「正直なこといっていい?」
「うん」
「……寝落ちしちゃいそうなんだけど、必死に起きてる。なっちゃんは?」
「俺がこれ観たいって言った手前、こういうこと言うのも何なんだけど……夜遅くに暗いところで観る映画ではなかったなと思ってる」
「あはは」
すぐ近くにあった捺生の手を取って繋ぐ。絡め合わせた指をにぎにぎと握って遊び始めた僕のことを咎めるでもない捺生は、そっと視線をテレビ画面に戻した。映画観るの、邪魔したら怒られるだろうか。
すこしばかり考えて、彼自身も集中力が切れている様子だからきっと大丈夫だろうと自分に言い訳をしながら、ぐっと捺生の腕を引き寄せた。あとすこしだけ顔を近づければ、キスできてしまう距離になる。
「ね、なっちゃん。キスしてもいい?」
「……いいよ」
すこしだけ沈黙が流れてから、ちいさく呟かれた彼の言葉がふたりきりの空間に落ちる。許可はもらえたものの、なんだかいけないことをしているような気持ちになった。あいていたわずか数センチの距離を詰める。ふに、と触れたくちびるのやわらかさに目眩がした。
「……っは、それだけでいいの?」
触れるだけのキスの合間に投げられたその声に煽られて、おずおずと捺生の口内に舌を差し入れる。迎い入れられた温かな口内はとんでもなく甘い。今まで口にしてきたもののなかで一番の甘さだが、甘ったるさは感じることはなかった。いくらでも舐めていたいと心から思う甘さだ。甘党の彼が「俺もその甘さ味わってみたい」と羨ましそうにこぼしているのを耳にするたびに頬が緩んでしまっている。
彼の口内の温かさと甘さを味わいながら、身を乗り出してそっと捺生の身体を押し倒した。ぎし、とソファのスプリングがちいさく軋んだ音をたてて、二人分の体重分ぐぐっと沈む。テレビ画面から流れ続けている劇伴はまるで僕たちの行為にあわせられているのではないか、と錯覚しながら捺生のくちびるをもぐもぐと食んだ。
「っふ、食べてもおいしくないだろ」
「なっちゃんはおいしいよ。どこもかしこも全部」
「……年取ったらまずくなるかも」
「そんなことないよ」
「分かんないでしょ。まずくなったらごめん」
捺生はそう言いながら僕の髪をゆっくりと混ぜた。なっちゃんが思い描く「いつか」に、僕もいさせてもらえるの?
すこしだけ口を開いて、すぐに閉じる。口と一緒にまぶたも閉じると、目の奥がじんわりと熱くなった。
「みお」
「……なあに」
「泣かないで」と言いながら目を細めた捺生に、濡れている目元をくちびるで拭うかのようにちゅ、ちゅとキスをされる。
「……まだ泣いてないよ」
「俺の見間違いか」
ごめんな、とこぼされた言葉を彼の喉の奥に押し込むようにキスをした。ぎゅうぎゅうと抱きしめて、捺生の体温を確かめる。くちびるを離して胸元に片耳を押しつけると、とくとくと血が巡る音が聞こえて安堵した。
「な、みお」
「……ん?」
「ベッド行きたい」
よしよしと僕を安心させるように髪をかき混ぜられる。ドライヤーで乾かしてくれるときのそれとは異なる手つきだ。
「……もう眠い?」
「そういう意味じゃないって分かってるだろ」
「だって、なっちゃん疲れてるでしょ」
「俺、明日やすみだって言ったの忘れちゃった?」
「覚えてるけど……」
「みおが気分じゃないって言うなら無理にとは言わないけど。安心できるまで、俺のこと全部確かめてよ」
「……いいの?」
「いいよ。澪斗の好きにして」
するり、と首に腕を回される。背を浮かせた捺生の身体をぐっと起き上がらせて抱きかかえた。
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