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 帰宅を急ぐ人たちの足音が、押し寄せる波のように聞こえる。駅のコンコースを行きかう人々は、時間を追うごとに増えていく。  通路の中央に並んだ太い円柱の陰に立っていた筑野(ちくの)(あずさ)は、通りすぎる人の肩や鞄がぶつかるたびに「すみません」と何度も頭を下げた。  約束の時間はとうに過ぎている。待ち合わせというより、待ちぼうけになりそうな予感をひしひしと感じながら、スーツの波をぼんやりと見つめていた。  今どきの大学三年生にしては小柄で、母親譲りの顔つきのせいで幼く見える梓は、肩に掛けたスクエアリュックを体の前に引き寄せながら、恋人である前島(まえじま)隼人(はやと)が現れるのを待っていた。  彼は、梓より六つ年上の社会人で、建設資材を扱う商社に勤務している。時間を自由に使える梓とは違い、営業職である前島の都合はその日によって変わるため、こうやって長い時間待たされることは常となっていた。  久しぶりのデート。いつも前島に任せきりにしている梓は、自分なりのプランを考えてきていた。居酒屋で軽い食事をしたあと、ラブホテルへ直行するばかりのテンプレに変化を持たせようと思ったからだ。決してマンネリだとは思っていない。だが、少しでも前島と一緒にいたいと思う恋人としての欲が、梓をその気にさせた。  しかし、却下される可能性が高いことは覚悟している。以前も「ショッピングをしたい」という梓の意見をバッサリ退けた経緯がある。前島の機嫌は、その日の気分によって左右される。時にはモラハラまがいの暴言を浴びせられることもあり、つき合うには正直難しい男だ。でも、体の相性は悪くないと思っていた。  行きかう人の波をかき分けるように、紺色のスーツを着た長身の男性が近づいてくる。ハードシェルタイプのビジネスリュックを背負い、険しい顔でネクタイを緩めるその姿は紛れもなく前島だった。梓の前で足を止めた彼は、眉間に皺を刻んだまま抑揚のない低い声で「行くぞ」とだけ告げた。  仕事で何か嫌なことがあったのだろうか。今日の彼には逆らわない方がいい――そう分かっているはずなのに、梓は思い描いていたデートプランを口にしていた。 「あのっ。今日は、俺が考えたコースでデートしませんか?」 「は?」 「少し足を延ばして、湾岸エリアの商業施設に行ってみませんか? 最近、リニューアルして新規出店のショップも増えたみたいで……」  話題のスポットをインターネットで検索し、どうすれば効率よく動けるかというルートまで調べていた梓は、自信に満ち溢れた表情で前島を見つめた。きっと喜んでくれる……そう信じていた梓の期待は、次の瞬間見事に打ち砕かれた。 「――何言ってんだ、お前。大学生の分際で、この俺に意見するとは上等じゃねぇか」  眉間に刻まれた皺がより深さを増す。すっと目を細め、見下ろすように梓を睨んだ前島は、彼のシャツの襟元をグッと掴み上げると、整った顔を近づけてこう言った。 「お前さぁ、何か勘違いしてない? デートって、つき合ってる奴らがすることだろ? 俺ら、つき合ってねーし」 「え?」  驚いたように目を見開いた梓に、前島は鼻を鳴らして意地悪く唇を歪めた。 「お前は、俺の言うとおり脚を開いて、気持ちよくさせてくれればいいんだよ。そのために飯も奢って、ホテル代も出してやってるんだ。セックスして、自分も気持ちよくしてもらって、何が不満なんだ?」 「不満は……ないです。でも、いつも前島さんに……その……っ」  前島に喜んでもらいたい。少しでも前島に認めてもらいたい――その一心で、今まで努力してきた。彼のために髪型も変え、いつでも呼び出しに応えられるように友人たちとも距離をおいた。でも……毎回、話すらも聞いてもらえない。今もそうだ。梓が言いたいことを冷酷な笑みで受け流し、蔑むような目で見下す。  こんな男のどこに惚れてしまったのか、自分でもよく分からない。本気になったら自身が辛くなるのは目に見えている。そんな、リスキーで刺激的な関係を求めていたわけでもない。ただ、ハッテン場で声をかけられて、セックスしただけ……なのに。 「あのな。今までずーっと我慢してたけど、もう限界だわ。お前のやることなすこと、全部イラついてしょうがないんだよ。遊びなれた感じがなくて、ちょっとは尻の締まりがいいかなって程度でセックスしただけなのに、恋人にでもなった気分でいた? ゲイのクセにおこがましいと思わないのかね。あぁ、空気読めないヤツだってこと忘れてた」  周囲にわざと聞こえるように声を上げた前島は、小馬鹿にしたように身を屈めて下からから覗き込んできた。 「セフレって言葉、知ってる?」  スクエアリュックを強く抱えたまま、薄い唇を噛みしめていた梓は、彼の問いかけに小さく頷いた。 「大学生なら、そのくらいは分かるよな?」  彼の手が梓の髪を乱暴に乱していく。その光景は、誰が見ても『褒めている』ようには見えない。ぐしゃぐしゃになった前髪の間から前島を見上げる。それに気づいた彼は小さく舌打ちすると、梓の髪を掴み上げた。 「痛いっ」 「今、俺を睨んだだろ? ホントに使えないガキだな……。セフレならセフレらしく、俺の言うことだけ聞いてりゃいいんだよ。あー、気分が悪い。お前の顔見てると、一週間分のイライラが増幅される。もう、顔も見たくない……」  掴んでいた髪を突き放すように手を離した前島は、梓に背を向けて周囲を見回すと、スッと息を吸い込んだ。そして――。 「おーい。誰かこいつの相手してやってくれない? ゲイのネコちゃん。尻の締まり具合は、俺が保証するぜっ」 「前島さんっ」  咄嗟に彼のスーツの袖を掴んだ梓だったが、前島の声に反応した人々の視線から逃れるように俯き、力なく手を離した。ゲイであることは、友人はもちろん両親にも打ち明けていない。それを、見も知らぬ他人に公言してしまった前島に怒りをおぼえた。彼のモラハラは今に始まったことではない。しかし、なぜ自分がここまで貶められなければならないのか。  梓は、怒りと悔しさ、そして自分の愚かさが複雑に混ざり合った感情をどう処理すればいいのか分からずにいた。ただ、黙ったまま俯き、薄い肩を震わせることしかできない。 「――もう、二度と連絡してくるなよ。ハッテン場で会っても、絶対に声をかけてくるんじゃねーぞ。お前の名前、スマホから消しておくから。じゃあなっ」  少し前まで期待に胸を膨らませながら待ち焦がれていた靴音が、雑踏に呑まれていく。その音は冷たく、梓の耳に残る間もなく消えていった。  また、空回り――。いつもそうだ。良かれと思ってしたことが、全部裏目に出てしまう。恋愛に限ったことではないが、梓はそんな自分を変えたいと思っていた。しかし、それを変える術が見つからない。  いろんな色の洋服を着た人たちが折り重なるように、彼の背中をあっという間に見えなくさせる。梓があとを追うことができないように、事前に申し合わせていたみたいだ。  リュックを抱きしめたまま円柱に凭れた梓は、ぼんやりと上を向いた。フラれることには慣れている。でも、別れはいつも突然で。梓の心を抉るように突きつけられる。決まって自分が悪いように言われ、弁解の余地は与えられない。 「これで、何度目だろ……」  相手の気持ちを考えず、一方的に本気になった自分がいけないのは分かっている。でも、好きになったら本気になるのは自然なことではないのか。そのたびに、自分が嫌いになっていく。何度ひどい目に遭っても学習しない自分、空気が読めない自分、そして……誰からも愛されない自分。  頑張っても報われない。それならば、せめて最後の時ぐらい労いのキスをくれてもいいのに……。見上げた先にある照明が少しずつ滲んでいく。その時、梓の視界を黒い影が遮った。 「え……?」  不意に重なった冷たい唇が、梓が発した声を吸い込んでいく。緊張で乾いていたはずの梓の唇が、しっとりと濡れていくのが分かった。啄むようなキス。そのあとで、厚い舌が唇の隙間から忍び込んで、梓の歯列をゆっくりとなぞっていく。  心臓が煩いほど高鳴っている。前島に別れを告げられた時の何倍も速く……。こめかみが脈打ち、優しく吸われた舌先がピリリと痺れた。その瞬間、それまで堪えていた涙が一筋、梓の頬を伝った。  優しくて、温かくて……甘い。別れ際、相手に求めても貰うことができなかった労いのキス。梓は、張りつめていた糸が切れる――という感覚を、初めて知ったような気がした。  滲んだ視界に入り込んだ照明の眩しさに目を閉じる。それを合図にするかのように、その唇はゆっくりと余韻を残したまま離れていった。大きな手が梓の頬を伝う涙を拭う。その手の主を見ようと、梓が濡れた睫毛を数回瞬かせた時だった。先ほど前島の手で乱された髪を梳くように、優しく梓の頭を撫でたその人物は、少し戸惑うような声音で言った。 「――キス、してほしそうな顔してたから」  俯き加減で前髪が落ちてはいたが、その顔をハッキリ見ることができた。ブルーグレーのスーツに、黒いビジネスリュックを背負った長身の男性。前島の言葉を真に受けて梓に近づいたのかと一瞬戦慄したが、申し訳なさそうに顔を背けている彼の表情からは、下心らしきものは見受けられない。  梓は、まだキスの余韻が残る唇をキュッときつく結んだまま、彼を見つめた。鼻筋の通った端正な顔立ちに、無造作にセットされたこげ茶色の髪。何より、梓を見る黒い瞳には一点の曇りもなかった。 「ごめん……」  小さくそう呟いた彼は、少しずつ梓から距離をおくようにして人込みに紛れていった。その後ろ姿を見送った梓は、まだ治まらない心臓をグッと押さえ込んだまま、その場にしゃがみ込んだ。  前島の背中とは違う。今までに見たことがないくらい優しい気を纏った背中……。それに縋るように伸びてしまう手を胸元に押し当てて、梓は声を上げて泣いた。  梓の前を通りすぎていったニセモノの恋人たち。フラれても泣くまいと誓い、それまで堪えてきた想いが一気に溢れ出した。梓が我慢に我慢を重ねて張りつめていた糸を、たった一度のキスで切り去っていった彼。もう二度と会うことは叶わないかもしれない。でも、唇が重なった瞬間の感覚は忘れたくない――そう、空回りばかりしていた心の歯車が、初めて手応えを感じたキスだから……。

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