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【2】
二年後――。
大学を卒業した梓は、建築資材の流通・開発を手掛ける商社、アルテック総業株式会社の営業企画部に配属され、建材流通ルートの確保に携わっていた。
営業マンは足で稼げ――という言葉のとおり、先輩社員とともに取引先を回ることが主な仕事だったが、新規取引先企業の調査やデータ入力、雑務なども新入社員である梓に任されていた。しかし、同僚たちは梓の言動に難色を示していた。
「おい、筑野! 入力を頼んでおいたデータの数値が違っているんだが、ただの入力ミスか?」
「いえ。今後見込まれる数字も合算してあります。その方が見通しを立てやすくなるかと思って……」
「――ったく。現状把握だから、予測できない数字を入れられても困るんだよな。仕方ない……俺が直すか」
聞こえよがしに梓の仕事を否定する者もいれば、会議室のセッティングを任されるたびに上司に小言を言われる。これはみな、梓の独断で良かれと思ってとった行動が裏目に出てしまったことが原因だった。しまいには「やれと言われた仕事以外、余計なことをするな」と言われる始末。
頼まれた仕事でも、自分のやり方を崩したくないために余計な時間がかかり、締め切りに間に合わないという事態までも引き起こしている。焦れば焦るほど自身を追い込み、これを終わらせなければいけないという危機感に苛まれていく。そのため、書類などを見直す余裕もなくなり、入力ミスを犯したままのデータが客先に流れ、混乱を招くことが多々あった。
営業という仕事自体、自分に向いていないのではないかと思う反面、早くこの環境に慣れ、戦力としてこの会社を盛り上げていきたいというやる気だけは人一倍ある。しかし、その頑張りが周囲に認められず、結果、迷惑ばかりをかけてしまっているのだ。
パソコンの液晶画面を見つめながら、渡されたデータをただ入力していく。その時間が、梓にとってはムダなことのように感じられて仕方ない。だが、独断で勝手なことをすれば、また上司に怒られる。
やりたいのにできないもどかしさ。そして、やったのに怒られる理不尽さ。二年前につき合っていた――正確には、梓が一方的に恋人だと思っていた前島が毎回イラついていた原因は、おそらくこのことだったのだろう。どれもこれも、自分の空回りが原因だという結果に落ち着いてしまう。あの時、自身は変わらなければいけないと思った。でも、変えられる術は未だに見つかっていない。
そんな日常が続いていたある日。営業部のフロアに見知らぬ男性の姿があった。彼はフロアに入るなり、戸惑う様子もなく窓際に並ぶ役員デスクに歩み寄った。そして、営業部長である近藤 に深々と頭を下げた。
彼と近藤が話す様子を盗み見る。近藤は始終上機嫌で、にこやかな笑みを湛えている。これほど穏やかな近藤を、梓は今まで見たことがなかった。原因は自分にあると分かっていても、あまり気分のいいものではない。これほど近藤に気に入られているところを見ると、相当優秀な営業マンに違いない。だが、梓が入社して数ヶ月が経つが、社内で彼の姿を一度も見たことがなかった。
梓が彼らの話に耳をそばだてていると、外回りから戻ってきた営業スタッフが驚いた様子で、庶務係の女性に駆け寄るのが分かった。
「――おい。あれ……瀬里 さんじゃないか? 本社に来るなんて珍しいなっ」
「部長命令で、本社に呼び戻されたらしいですよ」
「じゃあ、あのプロジェクトを本気で取りにいくつもりだな。瀬里さんぐらいのやり手じゃなきゃ、俺たちじゃ太刀打ちできないもんな……」
入社四年目、営業成績を伸ばしている先輩社員が羨望の眼差しを向ける。その視線の先には、瀬里と呼ばれていた男性の姿があった。
「――プロジェクトの件は聞いていましたけど、新入社員の面倒を見るなんて聞いてませんよ」
「まあまあ、そう言わずに。経験者であるお前にしか頼めん。俺たちじゃもう、どうにもならないんだよ」
「経験者って……。俺だって、好きであんなことしてたわけじゃないですからね。自分がどうやって克服したかなんて覚えていませんよ」
「そこを何とか思い出してくれ。プロジェクトの方は、先方にプレゼンテーションに参加する意向を伝えてある。人手がいるようなら、いつでもそちらに回す。状況が好転するようなら、彼を使っても構わない」
近藤の言葉から何かを察したのか、瀬里が不意に振り返った。その瞬間、彼の視線から逃げることが叶わず、バッチリ目が合ってしまった梓は、気まずさに慌ててパソコンへと視線を向けた。……が、時すでに遅し。彼らを盗み見ていたことがバレてしまった。
瀬里の肩越しに梓を見た近藤が、大仰なため息をついた。
「とにかく、プロジェクト優先で頼む。どちらも、お前にしか任せられないからな」
「部長の無茶ブリが、今も健在で安心しました」
「なんだ、それ。イヤミか?」
「古巣に戻れたってことだけで、気持ちが全然違います。とにかく、やれるだけやってみます。失敗したら目を瞑ってくださいね」
「俺のクビがまだ残ってたらな」
他愛もない話で盛り上がっている二人だが、それを聞いていた梓の心中は穏やかではなかった。心臓がものすごい勢いで高鳴っている。盗み聞きがバレたということだけで、これほど緊張することはない。マウスを握っていた手が汗ばんでいる。口の中が乾き、呼吸も心なしか荒くなっていた。
梓はもう一度、肩越しに近藤のデスクに視線を向けた。そこに立つ背中は、二年前に見たものと酷似していた。失恋し、打ちひしがれていた梓の心を癒してくれた優しい気を纏った広い背中――。
スーツの色は違えど、その姿はあの時とほぼ変わっていない。鼻筋の通った端正な顔立ち、自然な形でセットされたこげ茶色の髪。そして、梓を射抜いた黒い瞳は穏やかでありながら、どこか野獣のような部分を隠しているようにも見える。
(あの人だ――!)
梓は無意識に、自身の唇に触れていた。あの時のキスの感覚が、感触や甘さとともに鮮明に蘇る。ずっと憧れていたものを初めて手にしたような嬉しさと照れくささがこみ上げ、体がムズムズする。
不自然に抽斗の開閉をくり返し、わざとゴミを落として拾う仕草をして何度も確認する。梓の記憶に鮮烈な軌跡を残した彼を見間違えることはなかった。
平静を装おうと、液晶画面に表示された資材リストを見つめる。しかし、梓の頭の中には何も入ってこない。それどころか、彼の挙動不審な動きに周囲の者たちが気づき始めた。
「おい、筑野。どうかしたか?」
「あ……いえ。なんでも、ない――です」
「先走りすぎて、リストのデータを消すんじゃないぞ!」
これ見よがしに言った先輩社員の言葉は、予想以上にフロアに響いた。あちらこちらでクスクスと忍び笑いが起こる。辱めを受けることは、今に始まったことではないし、日常茶飯事だ。だが、梓の動揺はそんなレベルではなかった。
落ち着きなくマウスをクリックする。カーソルの位置も定まっていないのに、むやみにクリックしてしまう。
(俺、何をやってるんだろ……)
軽いパニック状態に陥っていた梓の右手を、大きな手が掴んだ。
「ヒィッ!」
思わず出てしまった変な声。額からは嫌な汗が噴き出している。その手は梓の手首を掴み上げると、握っていたマウスからゆっくりと遠ざけた。それはまるで、爆弾を処理するかのような慎重な動きだった。おそらく、これ以上操作をさせるのは危険と判断したのだろう。
「――落ち着け」
「えっ」
頭上から降ってきた低い声に、梓は恐る恐る顔を上げた。梓の傍らに立っていたのは、近藤と話しているはずの瀬里だった。彼は大仰なため息とともに梓の手を離すと、目の前の液晶画面をのぞき込んで安堵した。
「これなら、まだ修正は可能だな。お前……一体、何をするつもりだったんだ?」
「わ……分かりません。頭が真っ白に……なっちゃって」
「お前の話は聞いている。――紹介が遅れたな。今日から本社勤務に戻された瀬里 雅史 だ」
「瀬里……さん? 戻された?」
「支社営業部の統括を任されていたんだが、大手ゼネコンが請け負った工事の資材調達プロジェクトのために呼び出された。ついでに……新入社員教育もな」
瀬里が身じろぐたびに、柔らかな香りが揺れる。決して背伸びをしていない、それなのに大人びた心地よい香りだ。梓は間近にある彼の顔をまじまじと見つめた。二年前に会った時は気づかずにいたが、整えられた眉の下の双眸はよく見ると鋭く、黙って立っていれば怒っているようにも見える。強面の営業マンは、何かと不利なことが多い。きっと彼も苦労しているに違いない――などと、余計なことばかりを勘ぐってしまう。
「一応、主任という肩書きにはなっているが、そう呼ばれるのは好きじゃない――って、さっきから何を見ている? 俺の顔がそんなに珍しいか?」
訝るように梓を見下ろした瀬里は、それでもなお見つめている彼に呆れ、落胆するように大袈裟に肩を落とした。
「こりゃあ、かなり苦戦しそうだ……」
ボソリと独りごちた瀬里に、それまで黙っていた梓が突拍子もない質問をぶつけた。
「以前、お会いしたことありますよね?」
「は?」
「俺の顔、覚えてませんか?」
不思議そうな顔で梓を見つめた瀬里だったが、ゆっくりと首を左右に振ると「初めて見る顔だ」と唸るように答えた。見間違い――まさか、そんなはずはない。空気が読めないと言われようと、会話が噛み合わないと怒られようと、人の顔だけはハッキリ覚えている。梓にとって、唯一自慢できる能力だ。一度目にした人は、通りすがりの人であっても記憶に残っている。まして、自分にキスをした男の顔を忘れるはずがない。
「よく見てください! 俺、あの時の……っ」
梓はいきなり立ち上がり、背伸びをして瀬里に顔を近づけた。しかし、瀬里の黒い瞳がすっと細められると同時に、あからさまに逸らされた。そのことに気づいた梓は、今になって自身が出過ぎた真似をしたことに小さく息を呑んだ。
(これだから、空気が読めないって言われるんだ……)
「す、すみません……っ」
ヘナヘナと力なく椅子に腰かけた梓は、自分の失敗に頭を抱えた。探し続けていた彼にやっと出会えたのに、このままではまた嫌われてしまう。つい暴走してしまう自分の言動をセーブしなければ、今までと何も変わらない。
「――今日から、お前の上司は俺だ。困ったことがあれば相談に乗る。ただし……」
「え?」
「俺が出す指示以外のことはしなくていい」
近藤をはじめ、他の先輩社員から何度も言われてきた言葉。でも、その約束を守れたためしがない。すぐにやらなくちゃいけない、急いで仕上げなければいけない……という、脅迫概念にも似た焦りに囚われ、つい短絡的な行動をとってしまう。分かっていても治せない病気のような言動に、梓は俯いたまま拳を握りしめた。
「――はい」
自信はない。だから返事も必然的に小さくなる。急に消極的になった梓が気になったのか、瀬里は長身を屈めて彼を覗き込んだ。
「さっきの勢いはどうした?」
視線だけを上げ、梓は瀬里を見つめた。
「俺、病気なんです……」
「え? 病気?」
「努力しても治らない。頑張れば頑張るほど空回りする……病気。人に迷惑ばかりかけて……。きっと、瀬里さんにも迷惑をかけることになる……」
ボソボソと話す梓の声はか細く、そばにいる瀬里さえも耳を澄まさないと聞こえないほどだった。それでも、顔を近づけて声を聞こうとする彼に、今まで自分と関わってきた人たちと違う部分を見つけ、少しだけ安堵した。
「迷惑? 社会の右も左も分からない新入社員が、気を遣うことじゃないだろ。上司ってのは、部下の迷惑を被るためにいるんだよ。もしも、お前に人の心があるんなら、そういう上司にちょっとだけ同情してくれればいい」
「瀬里さん……?」
「露骨にイヤな顔する奴もいる――例えば、近藤部長なんかはいい例だな。あの人だって、お前と同じ時期があったはずなんだよ。上司にさんざん迷惑かけてきた時代が……。でも今はデスクでふんぞり返って、部下に無茶ブリばかりをしてる。場数を踏めば、誰でも図々しくなれるんだよ。いい意味でな……」
瀬里の大きな手が、梓の頭にポンと乗せられた。柔らかい栗色の髪をぐしゃりと撫でた瀬里は、口角を片方だけ上げて微笑んだ。
「余計なことは考えなくていい。ただ闇雲に突っ走るんじゃなくて、今は周りに甘えることを覚えろ。人間、一人じゃ何もできない。特にお前は、社会人になったばかりなんだから、何もかもできると思うな」
一見、新入社員をディスっているようにも聞こえる瀬里の言葉だが、彼なりの冗談をまじえ、梓が重く受け止めないように気を遣っているのが分かる。冷静になれば、彼の言うとおりだ。梓は、社会人になって数ヶ月しか経っていない。いきなり踏み込んだ大人の世界で戸惑うのはしごく当たり前のことだし、失敗もあって当然だ。最初から完璧にこなせる新入社員など、どこにも存在しない。もしいるというのであれば、その極意を伝授願いたい。
(俺は、何を焦っていたんだろう……)
ストン……。今まで考えもしなかったことが、違和感なく腑に落ちた。
「俺に言わせれば、新入社員研修なんて一般常識と変わらない。実際に、配属された先で役に立ったって言う奴なんか皆無だと思うぞ」
確かにそのとおりだ。研修時、営業内部の知識など何も教えてもらってはいない。おそらく、梓だけではないはずだ。今年入社した同期社員は皆、今の部署で必死に足掻いているに違いない。
「善処します……」
「あぁ、それもしなくていい」
「え?」
「無理して自分を捻じ曲げるのも逆効果だ。ただ素直になれば、それでいい」
トクン……。梓の心臓が大きく跳ねた。恋をして、相手に嫌われないように背伸びして……。別れる時も、相手にウザがられると思い、泣くことさえも我慢してきた。それは全部、自分の意思を捻じ曲げてきたことに通じるのだろう。
こうじゃなきゃいけない、こうあるべきだ。凝り固まった概念が、梓を身動きできなくさせていた。嫌なものは嫌と言い、好きなものに触れた時は自然と笑顔になる……。いつしか、そんな当たり前のことができなくなっていたことに気づく。
俯いていたはずの梓の顔が、無意識のうちに上向いていた。それは、瀬里の話に興味を抱いたせいだったかもしれないが、梓の中で何かが変化した証拠でもあった。
「――っと。こんなところで無駄話をしてると、部長に何を言われるか分からないな」
苦笑いを浮かべながらチラリと近藤を見やった瀬里は、梓のデスクを眺めてから思慮深げに腕を組んだ。そして、言葉を選ぶように言った。
「プロジェクト推進チームは、フロアの端にあるミーティングルームを使わせてもらうことになっている。今日から、そこが俺たちの城だ」
「城?」
「誰にも邪魔されることなく、ただ一つの目的に向かって邁進できる場所。お前のデスクもそこに移動しろ」
「え……。でも、部長がここだって……」
狼狽える梓に、瀬里はまた大仰なため息をついて見せた。
「お前の上司、誰だって言った?」
「瀬里さん……です」
「じゃあ、上司権限でデスクの移動を許可する。それで、いいだろ? そうと決まれば、さっさと引っ越しの準備をしろ。資材リストの入力なんて、暇そうな誰かにやらせておけばいい」
「でもっ」
「でも……じゃない! お前はプロジェクトチームの一員だぞ。余計なことはしなくていい」
瀬里の勢いに圧されるように、梓は慌てて立ち上がると、データを保存してパソコンの電源を切った。デスクを使い始めてまだ数ヶ月。そう大したものは置いていない。引っ越しも、段ボール一つで事足りそうだ。
「――はいっ」
不思議だ。このフロアに自分の居場所はないと思っていた。それがどうだろう……。瀬里が現れた途端、梓に新たな場所が与えられ、チームの一員として、一緒に大きなプロジェクトに携わることができる。
二年前のあの時と同じだ。梓に『変わらなきゃいけない』と思わせた彼。あの彼と瀬里が同一人物なのかは、まだハッキリしない。でも、梓の中にはゆるぎない確信があった。
少しだけ、前向きになっている自分がいる。この仕事が楽しいものだと思えるワクワク感が生まれている。ひとりでは絶対に見いだせなかったものが、瀬里によって見えるようになる期待感に胸が躍る。
同時に、大きな期待や過信は禁物だ――と、暴走しそうになる自分を戒める。梓に背中を向けた瀬里に、先ほどまでの笑みはない。気難しい顔で同僚たちに挨拶を交わす彼を見つめた。
手放しで走り出そうとして、ふと……立ち止まる。古巣である本社に戻ってきたというのに、なぜそんなに険しい顔をする必要があるのか。梓に見せた笑みは、警戒されないための作りものだったのだろうか。
彼のことを、もっと知りたい――。梓が知る、ほんのひと握りの表情。その奥にある、もっとたくさんの顔を見てみたい……。
たった一度のセックスで、恋に落ちていた今までとは違う。失敗ばかりの恋愛に終止符を打ち、今度こそ本物の恋であるか否かを見極める力を手に入れたい。願わくば――二年前のあの日、彼に言えなかった『ありがとう』を伝えたい。
梓は、廊下に消えていく瀬里の背中を見送りながら、逸る胸をグッと拳で押さえつけた。
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