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「お前は、先走って余計なことをする傾向がある。何か行動を起こす前に、焦らずにまず考えることが必要だ」  思うように自身がコントロールできない梓にとって、瀬里の言葉は時に厳しくもあった。しかし、毎日のように言われ続けていれば、嫌でも身についてくる。  出勤したらパソコンの前に座り、まずは深呼吸をする。そして、今日一日のスケジュールを書き出して、瀬里に確認してもらう。梓が必要だと思っていた予定も、瀬里のチェックにかかれば不要なものとして削除される。そのおかげで無駄な残業も格段に減り、一つのことに集中して取り組むことができるようになっていた。  梓の手帳の隅に書かれた瀬里の言葉。 『急いでミスを増やすよりも、効率と精度を上げる近道を探せ』  躓きそうになるたびに、この言葉を反芻する。ミスが人を成長させるということは、決して間違いではない。でも、それを自分なりに理解して、納得したうえで改善していかなければ、仕事も恋愛も上手くいかない。  今まで、梓が無駄に使ってきた時間。それを今になって換算する気は毛頭ないが、瀬里とともにいる時間をより充実したものにしたいと思っていた。  瀬里の方はといえば、梓が考えていることの何十倍もの壁に直面していた。日を追うごとにプレゼンテーションに参加する企業が明らかになり、その顔触れに、強気だった近藤も焦りを隠せずにいた。それが瀬里へのプレッシャーとなり、彼を苦しめているのは間違いなかった。  元ミーティングルーム――プロジェクト推進チームの城内では、チームメンバーに配慮して明るく接している瀬里だったが、一歩部屋を出ると不機嫌な様相で、口数も格段に減る。梓にとって『饒舌な人』という印象が強かった瀬里が、実は寡黙で思慮深い人物だったことを最近になって知った。  フロアの面々も、新入社員である梓と話していることが意外だったようで、本社を離れている間に何かあったのか? と噂になっていたようだ。  二十九歳という若さで、支社営業部の統括を任されるほどの手腕を持つ瀬里。だが、それ故に、彼に圧し掛かる重圧は計り知れない。  仕事中、瀬里の方を盗み見た梓は、日に日に彼の眉間の皺が深くなっていることに気づいていた。彼を助けたい、力になりたい――という思いだけが膨らんでいく。でも、自分が余計なことをすれば、また彼の負担が増していく。何もできないもどかしさが自己嫌悪を生み、自己肯定感を確実に下げる。 「落ち着け……。落ち着け、梓……」  自身を制御する呪文。瀬里に教えてもらったものだが、逸る気持ちを抑えることに絶大な効果を発揮してくれる。  梓が目を閉じて深呼吸をした時、パソコンに向かっていた瀬里が、何かを思い立ったように勢いよく顔を上げた。 「――おい、筑野。今夜、何か予定はあるか?」 「ひぇ?」  突然声をかけられ、思わず変な声が出てしまう。慌てて姿勢を正した梓は、小さく咳ばらいをしてから瀬里に向き直った。 「予定は……ないです」 「じゃあ、一緒に飲みに行かないか? これは強制じゃない。断っても構わないぞ」  上司からの誘いを何かと嫌がり、断る部下が多い昨今。でも、瀬里からの誘いを断る理由はどこにもなかった。 「い、行きますっ」  瀬里の問いかけからそう時間をおくことなく返答した梓に、彼は苦笑いを浮かべた。 「無理してないか?」 「してません。瀬里さんと……飲みに行きたいです」 「そっか……。それならいいんだが。じゃあ、今日の残りのタスク。完璧に終わらせろとは言わないが、お前ができるところまで頑張れ」  瀬里は、決して梓を焦らせることはしない。目の前にニンジンをぶら下げられ、すぐにでも終わらせたい梓の気持ちを見越してか、自分のペースで作業するようにセーブしてくれる。それによってミスを防ぐことができ、落ち着いて集中することができる。瀬里が発する魔法の言葉は、安心感と、今まで見いだせなかった自信をくれる。 「はいっ」  いつも以上に心が弾んでいる。まるで、大好きな人と初めてデートの約束をした時の高揚感に似ている。こういう時は、また空回りする。それまで考えもしなかった展開が梓の頭の中を駆け巡り、駆け出そうとする自身を寸でのところで踏みとどまらせる。こんなことは一度もなかった。思い立ったら、いてもたってもいられずに突っ走ってきた梓だが、立ち止まって考えることの必要性も瀬里に教えてもらった。  そんな瀬里のことを、時々上司として見られなく時がある。彼の唇を見つめ『欲しい』と思ってしまう自分が堪らなく嫌だった。二年前、梓の心に小さな火を灯した彼との出会い。でも、彼の記憶の中に梓は存在していない。また、自分の勝手な思い込みでツラい思いをするのは嫌だ。それに、瀬里に迷惑をかけたくない。  この想いは、自身の心の奥底に留めておけば、何の問題も起こらない。それなのに、涙を堪えるより苦しくなるのはなぜだろう……。梓は、瀬里の眉間に刻まれた皺を見つめ、小さくため息をついた。  *****  空になった中ジョッキが、テーブルの上を占拠していく。片付けられた分も含めると、その数はもう十杯を超えている。 「瀬里さん……。ちょっと飲みすぎじゃないですか」  瀬里の暴走に、見かねた梓が声をかける。彼は、乱れた前髪を気怠げにかき上げながら、座った目で梓を睨んだ。 「今夜は、飲みたい気分なんだ」 「それにしても、ペース早すぎです。ちょっと、休んでから……」  酒は強い……とは聞いていた。しかし、オーダーをくり返すたびに、店員の困惑した顔が梓に向けられる。酔っぱらって店内で面倒を起こされては困るとでも言いたげに、無言の圧力をかけてくる。しかし、瀬里のペースは落ちるどころか、確実に上がっていく。  薄めのレモンチューハイのグラスを口に運んだ梓は、ジョッキを置いて不意にうつ伏せた瀬里に驚き、慌てて自身のグラスを置いた。 「瀬里さんっ」 「――落ち着け。落ち着いて、よく考えろ……」  彼の腕の中からくぐもった声が聞こえる。その言葉は、梓にとって自身を制御する呪文そのものだった。何においても自信に溢れ、余裕があるように見える瀬里。酔っているとはいえ、彼がこんな言葉を口にすることに驚きを隠せなかった。 「瀬里さん……?」 「アイツなら、どうする? どうやって乗り切る?」 「え?」 「汚い手を使って、他社のデータを手に入れる? それとも、誰かの手柄を横取りする……? 一体、誰の? 焦るな……。焦ったら負ける」  唸るような低い声。まるで、憤りを隠せない野獣が、必死に自我を保とうとする姿にも似ている。このまま昂れば、暴走して誰も手がつけられなくなる。でも、それを寸でのところで堪えているようだ。 「瀬里さん」 「――アイツは、どんな手を使っても勝つつもりだ。だがな……あの時の俺とは違う。アイツに利用されることはもう、ない……」  独り言なのか。それとも、梓に語りかけているのか判断に迷う。梓が固唾を呑んで見守っていると、勢いよく顔を上げた瀬里が野性味のある目を充血させて言った。 「これから愚痴る。付き合ってくれるか?」 「え? あ……はい」 「ウザくなったら、先に帰っていいぞ」 「いえ……。大丈夫です……多分」  部下に愚痴をこぼすのに、わざわざ許可を取り付けるあたりが瀬里らしいと思った。しかし、これほどの量の酒を体内に入れないと愚痴ることもできないのかと思うと、不憫で仕方がない。  梓のこんな姿を見るのは初めてだ。普段は、他人と深く関わることを避けるような彼。まるで、隙を見せないように武装しているように見える。そんな姿がかっこよくもあり、梓にとっては憧れだった。しかし、今はまるで違う。後ろに流していた長い前髪は乱れ落ち、彼の双眸はその隙間からしか窺えない。酔いのせいか、ただでさえ細く鋭ささえ感じる目が、余計に迫力を増している。 「筑野……」  低く掠れた声で名を呼ばれ、梓はビクッと小さく肩を揺らした。瀬里に注意されたことはあっても、怒られたことは一度もない。でも今は、いつ怒鳴られてもおかしくない空気感に、自然と肩に力が入ってしまう。 「怖いのか? 俺が……」 「い、いえ……」 「ビビッてるのは俺の方。怖くて、怖くて……仕方がない」  自嘲気味に口元を歪めた瀬里は、手元にあったジョッキをクッと一気に煽った。男らしい喉仏が上下するのをぼんやりと見つめていた梓だったが、飲み干したあとでなぜか苦しそうな表情を浮かべた瀬里から目が離せなくなった。 「どうしたんですか? 瀬里さんらしくない……」 「らしい……って、俺を過大評価しすぎだろ。俺だって……逃げだしたくなる時もある」 「プロジェクトのこと、ですか?」  ここ数日の瀬里の様子から、顔色を窺いながら思い切って口に出してみる。瞬間、彼の眉間に浅く寄せられた皺が、すべてを物語っていた。眉を顰めたのは無意識なのかもしれない。でも、まるで見当違いというわけではなさそうだ。 「プレゼンの参加企業リスト……お前も見ただろう?」 「ええ。聞いたことのある大手ばかりでした」 「児玉(こだま)ホールディングス……。うちのライバル会社だ。大手ゼネンコン相手に、少々強引ともいえる売り込みをすることで有名な商社だ。そこのプレゼン担当者は、元アルテック総業の社員だ」 「え? じゃあ、瀬里さんも知ってる……」 「俺の同期だ。しかも、同じ営業部で一緒に仕事もした……」  それまで一点を見据えていた瀬里の視線が、すっと逸らされる。そして、薄い唇を噛んだまま動きを止め、何かを言い淀んでいるようにも見える。 「じゃあ、状況によっては、向こうの動向を探ることもできるんじゃないですか?」 「無理だな。その逆はあり得るかもしれないがな……」 「その逆? どういうことですか?」  梓の言葉に間髪入れることなく返した瀬里は、近くにいた店員に新たなビールのオーダーを入れると、不思議そうな顔をしていた梓に向き直った。 「――俺はアイツに利用され、営業マンとしての実績もプライドも……自信さえも失った」  彼の口から出た思いがけない告白に、梓は言葉を失った。愛想のない店員が、泡のないビールジョッキを乱暴に置いていく。その背中にチラッと視線を向けた瀬里は、ため息混じりに続けた。 「とあるプレゼンがあってな。任された俺は何日も残業して、そのことに全情熱を傾けて準備していた。大口の案件で、プレッシャーを抱えていたせいもあったんだろうな。その焦りが全部裏目に出て、やることなすことミスを連発。そんな俺を助けるフリをして、あの男は……俺の努力を、全部自分の手柄に変えた」 「まさか……」 「俺が上の承認を得ずに、利益を見越して入力した単価をそのまま突き通したんだ。ありえない数字だった。だが……その契約が決まった。その年の売り上げはもちろん黒字。彼は、会社に貢献したとして昇格もした。だけど彼は、営業マンとしての能力を評価されて児玉ホールディングスに引き抜かれた。そして、アルテックをさんざん貶めるような噂をばら撒いた……。もちろん、使えない無能な営業マンがいることも――な」  ジョッキを口に運んだ瀬里は、露骨に顔を歪める。もう温かくなってしまっていたせいか。それとも……この話で、ビールの苦みが増して感じられたせいか。 「アイツはどんな手を使っても契約を取りに来る。負けることなんか怖いとも思わない。何が怖いって……俺の過去を知ってる、アイツと顔を合わせることが怖いんだ」  自分の弱さを部下に曝け出すことは、上に立つ者として他のどんなことよりも勇気がいる。酒の力を借りたとしても、そうそう軽々しく口にできるものではない。梓は、息を呑んだまま言葉を発することができなかった。 「あの時の俺は、冷静さに欠けていたと思う。自分は一生懸命やっているのに、周りからは認められない悔しさ。そのくせ、重圧だけは日を追うごとに増していく。それが重なって、空回りのスパイラルに陥った……。それに、アイツを信用した俺に……落ち度があった」 「それは違うっ」 「え?」  それまで黙って話を聞いていた梓だったが、怒りに体が震えた。感情の赴くまま咄嗟に声を上げてしまったことに気づき、慌て言い直した。 「――と、思います。瀬里さんは悪くない。だって……ちゃんと、仕事に向き合っていたんでしょ? 人の努力を……さも自分がやったかのようにして、周囲から賞賛されるなんて、おかしいっ」 「筑野……」 「一生懸命だったんです……。でも、その力がほんの少し強すぎたから、空回りしただけなんです。それを認めてもらえないなんて……悔しい。こうしたらもっと良くなる……それを頭ごなしに否定される。それほどショックなこと、ないですから……」  そう言いながらも、今までの自分と重なってしまい涙が溢れそうになる。それをグッと堪えて「すみません。言いすぎました」と小さな声で謝りながら、梓はチューハイのグラスを煽った。すでに氷が解けたチューハイは、レモンの味すらもしない。それを呑みながら「落ち着け」と何度も言い聞かせた。  梓がふぅっと息を吐いて上目づかいで瀬里を見上げると、彼を見つめるまっすぐな眼差しとぶつかった。眩しそうに細められた黒い瞳には、先ほどまでの激昂は見当たらない。 「――それ飲んだら、出るか」  グラスに口をつけたまま無言で頷いた梓は、少しだけ反省した。辞めた社員のこととはいえ、経験未熟な新入社員である自分が、上から物を言える立場ではない。それに、瀬里が怒るならまだしも、自分が激昂するのはお門違いなのでは……と思ったからだ。 「すみません」  小さな声でもう一度謝る。瀬里にちゃんと聞こえたかどうかは分からない。でも、一瞬だけ彼の口元が綻んだように見えたのは、きっとチューハイのせい。梓は、水滴に濡れたグラスを置くと、先に立ち上がった瀬里の背中を追いかけるように店をあとにした。  店を出ると、瀬里が暗い空を見上げて立っていた。そして、梓がそばに近づいたことに気づくと、いきなり髪をぐしゃりと撫でた。今の彼はかなり酔っている。さっきの愚痴も、こうした暴挙もすべて『酒のせい』にできる。 「タクシー、すぐに呼びますね。ちょっと、待っていてください」  上着のポケットからスマートフォンを取り出した梓の手を、瀬里が不意に掴んだ。驚いて見上げた梓の顔に、瀬里の端正な顔が近づいてくる。そして――唇が重なった。ビールの苦みとアルコール特有の匂いが梓の口内に広がる。それなのに、不思議と嫌悪感はない。それよりも、二年前の記憶が一気に蘇り、それまで堪えていた涙が溢れ出した。 「――愚痴、聞いてくれてありがとう」  唇を触れ合わせたままそう囁いた瀬里に、梓は嗚咽を堪えきれずに肩を揺らした。 「……しぃ」 「え?」 「悔し……い。ど、して……人一倍頑張ってるのに、認めてもらえないんだろ……。空気、読めないって……言われちゃうんだろ」 「筑野……」 「す……すみません。酔った、みたい……れす」  何度もしゃくりあげながら言葉を紡ぐ。これまで人に言うことのなかった弱音が、涙と一緒に自然と口をついて出てしまう。恥ずかしい。こんな情けない姿を瀬里に見られたくない……。そう思えば思うほど、涙が溢れてくる。 「俺……酔って、ます」  本当は酔ってなんかいない。頭の隅々まで冴えわたっている。でも、瀬里の弱さを目の当たりにした今、自分も誰かに縋りたくなってくる。誰にも言えず、たった一人で抱え込んできた。そうすることで、恋人との別れも乗り越えた。でも、その均衡を壊したのは……瀬里のキスだった。  梓は、瀬里の胸元を力任せに押し退けた。これ以上近づいたら、制御できなくなる……。 「ど、して……。瀬里さん……こんなこと、ダメ……」  先ほどまで瀬里が触れていた唇が震える。あの時の熱を呼び覚ましてしまった体はもう、彼しか求められなくなっていた。ゲイであることは知られたくない。しかも、たった一度のセックスで恋人になったつもりでいる、痛くて浅ましい男だと思われたくない。  瀬里の前では……素直な部下でいたい。  梓の歯車が、今まで以上の速度で回り始める。勢いをつけた歯車は空回りをくり返し、いずれ不幸へと向かって突っ走る。誰とも噛み合うことのない歯車に、少しの手応え。その感触を知ってしまったら、もう戻れない……。 「先に、帰ります……。すみませんっ」  梓は瀬里の手を振りほどくと、テールランプが瞬く大通りへと走り出していた。

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