4 / 7

【4】

 その日、プロジェクト推進チームの城には、朝から多くの人が出入りしていた。それは、プロジェクトが本格的に動き出したことを意味していた。  梓もまた、電話対応や建材業者から送られてくる見積り書のデータ処理に追われ、息つく暇もない。周囲の動きに煽られるように、つい焦ってしまいそうになる。そういう時は決まって、瀬里の「落ち着け」という声が梓の脳内で繰り返され、手を止めて考える時間を作ってくれた。  そんな瀬里もまた、打ち合わせに訪れた業者の対応に追われ、部屋を出ていくことが多かった。自分の席に座る間もなく鳴り響く内線の呼び出し音。「またか……」と、うんざりした顔で電話に出るが、受話器を置く時には真剣な表情に変わっていた。 「筑野、これからOS産業から使用材料のデータが送られてくる。プリントして、俺のデスクに置いといてくれ。――っと、データは忘れずにプロジェクト専用サーバーに保存しておくようにっ」 「は、はいっ」  彼の勢いに圧されるように、梓の返事にも力が入る。部屋を出ていく瀬里の背中を見送った梓は、ホッと胸を撫でおろした。  正直なところ――今日はどんな顔をして、瀬里に接すればいいか分からずにいた。少しでも気を抜けば、昨夜の居酒屋でのことが思い出される。会社では、他人を寄せつけないオーラを放つ瀬里。そんな彼が、酒の力を借りて梓に見せた弱さ。そして……突然のキス。  会社にいれば、瀬里に関する噂は嫌でも耳に入ってくる。現在、恋人などはいない。だが、セフレは複数おり、一夜限り……ということもあるようだ。しかし、男性と関係を持っているという話は聞こえてこない。女性社員の間では、瀬里の相手が『男性である』という概念はないのだろう。  ノンケの彼が、自分から梓にキスをしてくることは考えられない。まして、二年前のあの日、多くの人が行きかう駅のコンコースで――なんて、ありえないことだ。そうなると、彼はバイセクシャルである。または、まったくの人違いであった……という結論に達する。  しかし、噂はあくまでも噂でしかない。思い込みから多くの失敗を重ねてきた梓としては、本人の口から直接聞くまでは、何一つ信じてはいけないと肝に銘じていた。たとえそれが、梓自身にとって不利になるような結果になったとしても……だ。  以前つき合っていた前島はバイセクシャルであったが、女性関係の方が派手だった。女性と会っていたことが分かる香水の匂いを嗅ぐたびに、梓は胸が苦しくなった。同じセックスでも、快楽の度合いは異なる。やはり、女性とのセックスの方がいいのか……と落ち込んだ時期もあった。  もし、瀬里がバイセクシャルであるというのであれば、彼に対しての接し方も変わってくる。梓が抱いている淡い想いは、このまま内に秘めておいた方がよさそうだ。そうすれば、誰も傷つくことはない。もちろん、自分も浅い傷で済む。  メールの着信を告げるチャイムに、ハッと我に返る。梓は、余計な思考を払拭するように軽く頭を振ると、深く息を吸い込んだ。 (今は、仕事に集中しなきゃ……)  デスクの脇に積まれた資料ファイルにちらりと視線を向けた梓は、背筋を伸ばしてパソコンの画面に向かった。  やるべきことはたくさんある。今は、それをこなすことが瀬里へ近づく一歩だと感じていた。  ***** 「何度来ても慣れないな……」  梓は、手に持っていたファイルを胸元にギュッと押し当て、薄暗い廊下を歩きながら独りごちた。  アルテック総業本社ビルの四階には、資料室や倉庫、サーバールームがある。『四』という数字を忌み嫌う日本人の習性からか、その階には業務フロアはなく、いわば雑多とした物置きとして使用されている。  紫外線による資料の劣化を防ぐため、窓はすべて目隠しパネルで覆われ、昼でも照明なしでは歩けないほど暗い。基本的に、社員以外の立ち入りは禁止されているエリアだ。滅多に足を踏み入れることがないと思いきや、意外と人の出入りは多く、フロアのメイン出入口や各部屋に設置されたセキュリティ装置は、社員証があれば開錠できるようになっている。ただし、サーバールームに関しては、SEと特別管理者以外立ち入ることはできない。 『第二資料室』と書かれたプレートが掲げられたドアの前で足を止めた梓は、腕に抱えたファイルを持ち直すと、ため息をつきながらドアを開錠した。人感センサーが反応して照明が灯り、部屋の中がパッと明るくなる。廊下とは比べ物にならない明るさに目を細めた梓は、それまでの緊張が嘘だったかのように肩の力を抜いた。  全部で五つある資料室内部は白い壁で統一されている。その中に設置されたスチール製の棚は、すべて可動式となっており、創業当時から詰め込まれた膨大な資料が眠っている。梓は、棚に貼られたインデックスをもとに、プレゼン主催者である大手ゼネコンとの取引資料を探した。過去に数回、取引があったことは分かっていたが、今回の工事では特殊な建材を使用する。海外からのルートも視野に入れ、建材の入手先や金額、輸送方法などを調べる必要があった。プレゼン用に、現時点で二つの案があがっている。この資料は、その裏付け作業に使用するのが主な目的だ。輸送コストを極力抑え、なおかつ良質の物を安く短期間で納入する。商社として相手が満足できるプランを提供できなければ、今後の信用問題に繋がってしまう。その場しのぎの嘘や誤魔化しは、あとになって自分の首を絞めることになりかねない。そのためにも、入念な調査に基づいた資料作りが必要となる。  このことに関しては、瀬里がもっとも力を入れていることだった。過去に、同期社員とのトラブルがあったことは聞いている。それ故に、彼が慎重になっていることは、手に取るように分かった。書類のチェックも二度、三度と目を通し、他のスタッフや業者が送ってくるデータはすべてプリントアウトし、ファイリングする徹底ぶりだ。  相手が大手に限らずとも、決して気を抜くことは許されない。企業と企業を繋ぐ架け橋である商社として、当たり前のことをしているだけだ――と言った瀬里の生き生きとした表情が印象的で、今も忘れられない。この仕事が大好きで、何より情熱を傾けていることが分かった。その仕事を、自分も好きになりたい……。その思いが、梓を突き動かしていた。  梓は、自身が持ってきたファイルをもとに、必要な物をピックアップしていく。室内に常設された台車を傍らに引き寄せると、手早くファイルを積み込んだ。予想以上の量に驚きつつ、台車を押して部屋をあとにしようとドアを開けた時だった。  隣りにある『第一資料室』から男性社員が二人、姿を現した。エレベーターホールまで重い台車を押していかなければならない梓は、廊下で接触する可能性がある。それを踏まえて、彼らが立ち去るのを待つことにした。開きかけたドアを閉めようと、そっと手を伸ばした時だった。 「――営業部の瀬里、戻ってきたんだってな」 「あぁ。大手ゼネンコンのプレゼン要員らしいが……。ここだけの話、そのプレゼンに前島も参加するらしいぞ」 「前島って……瀬里と同期だったヤツか? あの生意気な男……瀬里だけじゃなく営業幹部とトラブル起こして辞めたヤツだろ? どこかの大手商社に引き抜かれたって聞いたけど」  梓は小さく息を呑んで、伸ばしたその手を止めた。彼らの話を立ち聞きするつもりはなかった。でも、偶然耳にした名前に、梓の心臓が大きく跳ねた。 (前島……?) 「気に入った女性社員は片っ端から手ぇ出して、上司・部下関係なく、逆らう奴にはパワハラ、モラハラで徹底的に潰しにいく……。あんなヤツ、どこの会社に行っても使えないと思ってたけど。瀬里の手柄を横取りして成功させたプレゼンで、いたく気に入られて引き抜かれたって……」 「まあ、瀬里もあの時はいろいろ焦っていたからな。やることなすこと空回りして、営業部の面々からも冷たくあしらわれてたし。やる気は他のヤツらの何倍もあったし、やり手の営業マンだって業者からの受けもよかった。もちろん、顧客だって多く囲ってたし、信頼もあった。でもさ……前島にかかれば、瀬里の努力もみんなアイツの手柄になっちまう。悔しかったんだろうな……。前島が辞めて、すぐ移動の申請出して本社を離れるって言いだした時、あの近藤部長が何回も引き止めたらしいぞ。それでも断る瀬里に、支社の営業統括を任せたって話」 「二年ぶりの直接対決か……。瀬里も複雑だよな。また、人目を憚ることなく高圧的な態度で貶められるかもって考えたらゾッとするだろ」 「俺だったら耐えられない……」 「前島は、相手をとことん攻撃しないと気が済まない。それが生き甲斐みたいなところ、あるよな」 「ほんそれっ」  二人の姿を見ていなくても、その話し口調から苦笑いする顔が容易に想像できた。台車のハンドルを握る手が、嫌な汗をかいている。二つの靴音がゆっくりと遠のいていく。それを聞くともなしに聞いていた梓は、力なく壁に凭れかかった。 「前島って……まさか、だろ」  二年前、梓を貶めるだけ貶めた男と同じ名字。まさか、この場所で彼の名前を聞くことになるとは……。いや、まだ同一人物であると決まったわけではない。だが、梓が知っている前島と共通する点が多すぎる。  もしも、瀬里が話していた同期が前島だとしたら……。あの口調で、彼が貶められていたことを想像するだけで体が震える。  それはまさに、梓自身が身を以って経験したことだったからだ。 「落ち着け……」  台車のハンドルにしがみつくように、その場にしゃがみ込んだ梓は、項垂れたまま何度も深呼吸をくり返した。ことあるごとに梓を罵る彼の顔が浮かんでは消える。心に深い傷を負い、やっとその傷も癒え始めた今になって、再び彼のことを思い出すなんて……。  あの時の恐怖心から過呼吸気味になっていることに気づく。肩を上下させ、必死に深呼吸をくり返す。しばらくして、落ち着きを取り戻した梓は、ドアハンドルに手をかけた。いつもなら難なく回せるはずのハンドルが、ずっしりと重みを増している。  過去に囚われてばかりではいけない。そう思って瀬里の背中を追いかけてきたが、梓に与えられたダメージは予想以上に大きく、前島という男に対する怒りが沸々と湧きあがってくるのを感じた。  大きなものに打ちのめされたような無力感に支配されながら、台車をグッと前に押した。梓が部屋を出たのとほぼ同じタイミングで、突き当りにあるサーバールームのドアが開いた。そこから出てきたのは、長身で線の細い男――経理部主任の池松(いけまつ)だった。薄暗い廊下でも、その顔はハッキリと見ることができた。  どうやら彼は、梓の存在に気づいていないようで、何事もなかったかのように去っていった。梓は足を止め、首を傾げながら彼の背中を見つめた。サーバールームに出入りする権限を持っていない池松が、なぜ立入禁止とされている部屋から出てきたのか……。不思議に思うと同時に、強烈な違和感をおぼえた。  そして、もう一つ。入社以前の梓の記憶の中に、彼の姿が記録されていたことを思い出す。入社研修時、彼の顔を見た瞬間『初見ではない』と思った。以前、前島との食事中にふらりと現れた彼は、梓がいるにも関わらず彼を連れ出したまま戻ってこなかったことが数回あった。その時は何が起こったのか理解できなかった梓だったが、後日、前島にそのことを問うと、上手くはぐらかされてやむやにされてしまった。でも、二人の会話から察するに、かなり気心の知れた間柄であることは明確だった。だが、池松は梓の顔を覚えてはいなかった。  瀬里と再会した時のようなアクションは起こさなかったものの、何度か顔を合わせている梓に気づくかと思いきや、彼の記憶にはその痕跡すら残っていなかったようだ。 「池松主任がどうして……?」  前島のことでモヤモヤとしていた梓の頭が、池松の出現で一気に冴えわたる。台車を置いて、彼のあとを追いかけようとハンドルから手を離した瞬間、上着のポケットでスマートフォンが振動した。ビクッと肩を震わせた梓は、取り出したスマートフォンの画面に表示された名前に小さく息を呑んだ。 「もしもし――」  着信ボタンをタップし、ゆっくりと耳に押し当てる。そこから聞こえてきたのは、野獣の低い唸り声だった。 『筑野。お前は、どこまで資料を取りに行ってるんだ』  落ち着いた声音ではあるが、そこにわずかな怒気が含まれていることに梓は気づいた。 「す、すみません。瀬里さん! 今すぐ、戻りますっ」 『急がなくていい。大事な資料をばら撒かないように、慎重に運んで来い』 「は、はいっ」  瀬里の声を聞けば、もう池松のことなどどうでもよくなってくる。これ以上、瀬里の機嫌を損なうことはできない。梓は、慌てて台車のハンドルを掴みなおすと、足早にエレベーターホールへと向かった。

ともだちにシェアしよう!