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【5】
「近藤部長、プレゼン用に二通りのプランを作成したのでチェックお願いします」
梓は、パソコンに向かったままの近藤に声をかけ、デスクの傍らに書類を置いた。
「順調か?」
「今のところは、何も問題なく」
「プレゼンに参加する企業は、隙あらば他社のプランを狙ってくる。情報漏洩だけは気をつけろと、瀬里に伝えておいてくれ」
「はいっ」
チラリと視線を上げた近藤が、梓をじっと見つめる。その視線に気づき、梓は小首を傾げながら問うた。
「――どうか、しましたか?」
「いや……。変わるもんだな……と思ってな」
近藤の言葉で、梓はすべてを察した。それは、自身でも薄々気づいていた。やることなすことすべて空回りし、場の空気も読めない新入社員というレッテルを張られていた梓が、今ではプロジェクトメンバーの一員として立派に成り立っている。しかも、ひと月半という短期間で――だ。
瀬里の存在が、梓にどれほどの影響力を与えたかというのは、彼をよく知る近藤だからこそ分かることなのだろう。いや、近藤だけではない。同じ営業部内でも、梓の評価は確実に上がっていた。それを嬉しそうに話す瀬里の顔を見ると、梓もまた嬉しくなった。
それに、自分の居場所はないと思っていたこのフロアで、ちゃんと地に足をつけて立っていると実感できるようになっていた。営業マンなんて向いていない……。そう思っていたことが嘘のように、毎日が楽しくて仕方がない。最近では、瀬里とともに取引業者へ出向き、直接折衝する場面も多くなった。最初は緊張ばかりで、相手の顔もまともに見ることもできなかった梓だが、疑問に思ったことを率直に問えるまでになっていた。
余計なことを口走りそうになると、絶妙のタイミングで瀬里が助け舟を出してくれる。それによって、梓は何度も助けられ、そして……学んだ。
もう治ることはないと思っていた『空回り』という病を克服し、自分は変われるということを立証してくれた人……それが瀬里だった。
「――瀬里さんのおかげです」
少し照れたように、俯き加減のままそう答えた梓に、近藤は片方の眉をクッと上げた。叩き上げで、こと仕事に関しては妥協を許さない彼がわずかに微笑んだことで、梓はこの場所に自身の存在意義を見いだしたような気がした。
その反面、表には決して出すことのない憂いは、日に日に大きく膨らんでいた。瀬里を知れば知るほど、彼に惹かれている自分がいる。でも、上司と部下という、良好に築き上げてきた関係を壊す勇気はない。
それに、彼の過去に前島が関係していることを知った今、複雑に入り混じった感情が先走ってしまいそうで怖かった。何より、プレゼン会場で彼と再会する恐怖が、梓の気持ちを後ろ向きにさせていた。それはきっと、梓だけではない。瀬里も同じように、彼と対峙することに怯えている。
このままでは、こちらの欠点をすぐに見抜いた前島に、すぐに揚げ足を取られるのは目に見えている。そして、多くの人の前で貶められる。その時の屈辱を想像するだけで、足元が震えた。梓も瀬里も、彼のモラハラをトラウマとして引き摺っている。それに打ち勝つ手立てを見つけない限り、このプレゼンに勝てる気がしない。
近藤のデスクを離れた梓は、小さくため息をついた。気になっていることはそれだけではない。経理部主任である池松のことも引っ掛かっていた。あれから、何度もサーバールームに出入りする彼の姿を目撃している。それはきまって、プロジェクトチーム内で新たな動きがあった時だった。
プランの内容変更、プレゼンメンバーの選出、単価や取引業者の更新。瀬里をはじめとする他のメンバーに怪しまれないように、資料室に行くと理由をつけて四階に足を運ぶと、人の出入りが少ない時間を見計らうようにして彼が現れる。
今のところ、梓の存在に気づいている様子はないが、彼の行動には不信感しか抱けず、嫌な予感しかしない。決して勘がいいわけではないが、やけに胸がざわついて仕方がない。このことを瀬里に伝えたい。でも、多忙な彼に余計な心配はかけたくない。それに、現時点では池松がこのプロジェクトに関わっているという決定的な証拠はどこにもない。
梓の中で、様々な感情や問題が蓄積され、日を追うごとに膨らんでいく。このままでは、それが限界を迎えた時、以前のようにパニックを起こし、事態を悪化させかねない。どこかで吐き出さなきゃ……頭では分かっていても、上手く瀬里に伝えることができない。
自分のデスクに戻った梓は、ぼんやりとパソコンの画面を見つめていた。しかし、目の前にある液晶画面が、電源が切られたままであることに気づかずにいた。
「――筑野っ」
「え……? はいっ」
不意に聞こえた瀬里の声に、ハッと我に返る。キョロキョロと周囲を見回して、瀬里の姿を探すがどこにも見当たらない。ついに幻聴が聞こえるようになったか――と、梓が頭を抱えた時、すぐ後ろに人の気配を感じて、勢いよく振り返った。
「うわっ」
そこには、腕を組んだまま梓を見下ろす瀬里の姿があった。思わず出てしまった声を誤魔化すように、慌てて口元を押さえてみるが、不審な動きをくり返す梓の一部始終を見ていた瀬里には通用しなかった。
「瀬里さんっ! いつから、そこに?」
「かなり前から、ここにいたが……」
「え……? じゃあ、あれは幻聴じゃなかったのか……」
「幻聴? 筑野、疲れているなら正直に言え。今日は早く帰っていいぞ」
「あ、いえ……。そうじゃ、なくて……っ」
梓の異常な慌てように、瀬里がすっと目を細める。心に悪しき思いはない――だが、不安要素はパンクしそうなほど抱えている。それを見透かすかのように、瀬里の目が鋭さを増していく。
「――お前、俺に何か言いたいことがあるんじゃないか?」
「何もっ! 何も……ない、です」
そう告げた梓を後ろから覗き込んだ瀬里は、彼の耳元に顔を寄せると、唸るような低い声で囁いた。
「――俺は、ある」
「え……」
ゾクリと背筋が冷たくなる。それなのに、彼の息がかかった耳朶が熱くて仕方ない。心臓がものすごい勢いで早鐘を打つ。
「ちょっと、話がある。小会議室に来い」
「は、はい……」
どんな些細なことでも報告し、瀬里の指示を仰げと言われてきた。それを怠っている自覚はある。自分で勝手に判断し、行動することの恐ろしさは理解している。でも――梓が抱えているものは、そう易々と口に出していいことではない。下手をすれば、このプロジェクトから外され、瀬里に見放される可能性があった。
嘘は上手くない。でも、この危機を乗り切るには、嘘をついて誤魔化すしかない……。
重々しい足取りで、瀬里のあとを追いかけるように小会議室に向かう。スチール製のドアを開けると、そう広くないスペースに、折り畳み机と椅子が数脚置かれていた。瀬里は、腕を組んだまま机の端に浅く腰かけ、後ろ手にドアを閉めた梓をじっと見つめていた。
「筑野。単刀直入に聞く。何か、あったか?」
「いえ……。なにも」
「最近、やたらと席を外すことが多くなっていることには気づいていた。それに、ボーッとしている時間も増えた。何か、悩みがあるなら聞くぞ。仕事以外のことでも構わない。お前が抱え込んでいるものを吐き出せ。そうすれば、少しは気持ちに余裕ができる」
瀬里の眼差しはブレることなく梓に向けられている。それだけ、真摯に向き合おうとしてくれていることは、梓にも理解できた。しかし、自身の心の内に秘めた想いを告白するには、まだ何の準備もできていない。それに、プレゼン開催の日が迫ったこの時期に、こんな不謹慎なことを上司である彼に言えるわけがない。
以前の梓だったら、何も考えず口にしていたかもしれない。でも、今は違う。立ち止まって考えるというスキルを手に入れた以上、そう簡単に吐露することはしない。それに池松のことも、明確な証拠を掴むまで事を荒立てたくなかった。自分の勘違いということも考えられるからだ。思い込みだけで行動することの危険性も、瀬里に教えてもらった。
「筑野……」
「ちょっと、疲れているだけ……です。平気ですからっ」
瀬里の真っすぐすぎる眼差しが怖くて、思わず目を逸らす。それがいけなかったのか、彼はゆっくりと立ち上がると、梓の髪をぐしゃりと撫でた。
「――どうして、隠す? どうして……抱え込む? なぜ――」
「瀬里、さん……?」
不意に言葉を切った瀬里を見上げた梓は、眉間に深く皺を刻んだ彼の表情に小さく息を呑んだ。
「二年前――。駅のコンコースで、お前を見かけた。何かに耐えるように唇を噛みしめて……。それなのに、何かを欲しているその姿に、俺は我慢ができなかった」
「え……?」
梓の目が大きく見開かれる。そして、息をすることも忘れるほど、瀬里の顔をまじまじと見つめた。
「あの時、何があったのか、聞かせてくれるか? 俺は……衝動的に動いてしまった自分を……二年間、責め続けている」
顔を背け、自身の口元を手で覆った瀬里は、苦しそうに息を吐き出した。
「ど、して……。瀬里さんのせいじゃ、ない」
「何があった?」
「彼女にフラれて……。俺、どうすればいいか、分からなくて……」
初めての嘘。自身がゲイであることは知られたくない。でも、前島にフラれたことは間違っていない。瀬里のこげ茶色の瞳は、梓を咎めるように細められていく。瀬里が放つ威圧感に耐え切れない。しかし、短い沈黙を破ったのは瀬里の方だった。
「――嘘をつくな」
「え」
梓に動揺が走る。どうしようという不安が顕著に表れてしまい、無意識に視線が宙を彷徨う。それを即座に見抜いた瀬里は彼の肩に手を置くと、端正な顔をグッと近づけてきた。
「俺に、嘘をつくな……」
トクン……。心臓が大きく跳ねる。これ以上は許さないといわんばかりの目力に、梓は腹を括るしかなかった。彼に嘘は通じない。あの時、梓と前島の一部始終を見ていたからに違いなかったから……。梓は、ゴクリと唾を呑み込むと、きつく結んでいた唇をゆっくりと解いた。
「――すみません。彼女にフラれたというのは、嘘です。俺は……ゲイで、恋人だと思っていた男性に……別れを告げられました。俺の勘違い……だったんです。たった一度、セックスしただけで恋人になった気分になって……。でも、彼に気に入ってもらえるように頑張ったんですよ。それなのに……何一つ、認めてもらえなかった」
前島とのことを思い出すだけで、胸が締めつけられるように苦しくなる。あの時、心に負った傷が抉られるようで、思い出すことも躊躇っていた。現に、こうやって口にするだけで、ストレスのせいか、こめかみにわずかな痛みが走る。
「――何をやっても空回りで、空気が読めなくて……。俺、何人かの男性とつき合いましたけど、みんな決まってこう言うんです「イライラする」って――。好きだから……何かしてあげたいって思うの、間違ってますか? 好きな人に認めてもらいたいって思うの……ワガママですか? 承認欲求が強すぎるのは自覚あります。でも……どうすればいいのか、分からない。ただ、普通の恋がしたい……。それなのに、俺は……普通のことすらできない……」
梓は自身の胸を掻きむしるように手で掴むと、すぐそばにある瀬里を見つめて言った。
「後悔ばかりで、前に進めない。変わりたい……。その方法が……分からない。でも、あの時出逢った人に、変われる勇気をもらった気がしたんです。ずっと、ずっと……我慢して、自分の中に押し留めていたものを、解き放っても許される……そう思った。そしたら、涙が止まらなくなって……。つき合っていた人に「泣かれるのウザい」って言われてから、何があっても我慢してたから……。おかしいですよね……。俺、変ですよね……」
梓は、嗚咽を堪えながら声を震わせた。自嘲するように無理やり笑顔を作ってみるが、顔が引き攣って上手くできない。自身の想い人にこんなことを言うなんて、どうかしている。これじゃあ、ただの愚痴と変わらない。梓の愚痴を真剣に聞いてくれる賢者のような人など、どこにもいない。分かっていても、瀬里の前では自然と口が――いや、心に秘めていたものが漏れ出してしまう。
「すみません……。ごめん、なさ……い」
俯いたまま、何度も謝る。恥ずかしくて顔が上げられない。目尻から溢れた涙が頬を伝って床に落ちた。慌てて、袖口で乱暴に拭ってみるが、一度溢れた感情の雫は、そう簡単に止まってはくれない。
「――俺は」
瀬里の手が梓の髪を優しく撫でる。一度言葉を切った彼だったが、すぐ言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開いた。
「俺がしたことは……お前の力になった、のか?」
耳元で響いた低く掠れた声に、梓は睫毛に雫を纏わせたまま視線を上げた。
「お前を、救うことが……できたのか?」
「瀬里、さ……ん?」
「あの場所を通りかかったのは偶然だ。前島は人目を憚ることなく、辛辣な言葉を並べたて、お前を貶めていたことは容易に想像できた。別れ際に……一方的に暴言を吐かれていたのにも関わらず、お前は黙ったまま耐えていた。俺は――アイツから逃げた。支社への移動を申し出たあの日、俺になかった強さを……お前の中に見た。もう、許されてもいいだろって……思ったら、いてもたってもいられなかった」
苦し気に眉根を寄せ、澱を吐き出すかのように重々しく口を開く瀬里の表情に、梓は再び胸が苦しくなるのを感じた。それは、前島に与えられたストレスとはまるで違う、瀬里を想う気持ちが増幅した痛みだった。
「お前と再会したあの日。あの時のキスが……お前を、苦しませてきたかもしれない。俺が、お前の人生を狂わせた――そう思ったら……言い出せなかった」
「瀬里さん……」
「嘘をついていたのは、俺だ……。責めて、悪かった……。そして――」
瀬里の力強い腕が、梓の細い体を引き寄せた。スーツの上からでも分かる厚い胸板に抱き寄せられ、梓は瞠目したまま息を呑んだ。そんな梓の耳元に唇を寄せた瀬里は、一度だけ呼吸を整えると、甘さを含んだ低い声音で囁いた。
「あの日――お前に、強く惹かれた。強さだけじゃない。相手を想うどこまでもまっすぐな瞳と、穢れのない透明な涙と……」
声に混じって耳朶に触れた彼の吐息が、梓の鼓膜を痺れさせる。背中に回された瀬里の手にグッと力が込められた。
「キスしてほしい……。声に出すことも叶わない、前島への最初で最後の承認欲求。それを……俺が認めた。お前の全部を……俺が受け止めたから」
涙で濡れた梓の唇に、瀬里の薄い唇が重なった。あの時と変わらない、優しくて温かいキス……。啄まれるたびに唇が戦慄く。戸惑う梓の舌を強く吸われた瞬間、ピリリと舌先が甘く痺れた。その瞬間、それまで堪えていた瀬里への想いが堰を切ったように溢れ出した。
もう、嘘はつけない――。
空回りを続けていた歯車に確かな手応えを感じ、梓は自身の歯車が、ただ無意味に回転していたわけではなかったことに気づく。それはきっと、回転をくり返しながら、自分の歯車にピッタリ噛み合う歯車を探していたのだと……。
二年前、確かに感じた手応え。その歯車を持つ瀬里との再会……。偶然なんかじゃない。間違いなく運命が引き寄せた必然。
「瀬里さん」
「もう、何も我慢しなくていい。無理もしなくていい……。お前は、お前らしくいればいい。そうすれば、おのずと強さが味方してくれる」
「違う……。瀬里さんからもらった力が、俺を成長させた。あなたと一緒にいたい……。あなたのために頑張りたい……。そう思うと、自然と強くなれた。瀬里さんを好きだって気持ちが……俺を強くさせた」
「筑野……。お前……」
梓は唇を触れ合わせたまま、声を震わせて言った。
「あのキスが忘れられなかった……。あなたに惹かれていく自分を、抑えることができなかった。二年前のあの日、俺はもう恋に落ちていたのかもしれない。運命の人と……」
少しだけ背伸びをして……。噛みつくように、深く口づける。唇の隙間から忍んだ彼の厚い舌が、梓の歯列をなぞっていく。たったそれだけなのに、甘い疼きが全身に伝播して、腰の奥がキュッと痛んだ。小さな水音を立てて互いの舌が絡まり合う。どれだけ口づけても、二年間という時間は埋められない。それでも、梓はキスを止めることをしなかった。瀬里もまた、梓の体を強く抱きしめたまま、愛おしくて仕方ないと言わんばかりに、何度も薄い唇を啄んだ。
もう、隠すことも嘘をつくことも必要ない。想いを通わせた二人が向かう先は、自分たちを貶めた前島との対決の場所。そこで彼に打ち勝つことで、前島から受けた心の傷から解放される。
もう、どこにも逃げない。自分の意思を捻じ曲げない……。
「二人なら大丈夫だ……」
瀬里の力強い言葉に勇気づけられる。自身の頬を濡らした涙を、手の甲でグッと拭った梓は、まっすぐに彼を見据えて言った。その声音に、今までの憂いや躊躇いはどこにも見当たらない。
「頑張りますっ」
梓の声に応えるように、瀬里もまた口元を綻ばせると、もう一度深く唇を重ねた。
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