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第32話

 屋外でのロケを終えて、30分ほどスタジオでミーティングした後解散になった。  雪丸は道慈の家には帰らず、一人自室のベッドに腰掛けていた。たまの仮眠でしか使わない雪丸の部屋のベッドは、清掃員のサンヨルがいつもきれいにベッドメイクしてくれている。  仕事長引いてるから飯用意できねぇと道慈からメッセージが来ていた。了解のスタンプを押した後、少し考える。新しくできたスパ銭今度行きたい。片手で打ち込んでから、スマホをベッドに投げる。  道慈が帰ってくるのが遅いならと、グローブを手入れしてから帰ることにした。服が溢れて閉まらなくなっているクローゼットの奥から引っ張り出して、なんとはなしに手にはめてみる。  何回もはめているグローブは使ってもいないのに雪丸の手に馴染んでいた。もう中学生の時の道慈の手の形は残っていない。中の革はボロボロで、お世辞にもはめ心地がいいとは言えない。  そのままごろりと背をベッドにつけ、見慣れた黒い皮を見上げる。不思議な気分だ。いつもグローブを手入れする時は、切ないのと苦々しいのと、愛しいのが混ざったような複雑な気分になっていたのに、今はただ懐かしい。  目を閉じるとはっきりと思い出せる。白球を投げる感覚とこちらをまっすぐに見つめる目。そして乾いた音を立てるミット。  子どもの頃はそれだけのために生きていた。それしか縋るものが無かった。それが終わりを迎えたら、今度は道慈の言葉に縋った。なんでもないように言われた一言だけを大事に抱えて、死なないように生きていた。  そうやって人生の半分をいつも何かに縋って生きていたら、いつの間にか何にも縋らない生き方がわからなくなっていた。  そして今は道慈という存在に縋って生きている。  毎日好きと言わせて、この身体を愛させて、飢餓を感じないように満たしてもらいながら。  欲しい物を手に入れたら、今度は失う恐れがつきまとう。本当は道慈の目がどこにも向かないように、部屋の中に縛り付けておきたい。  そしていつでも好きな時に抱き上げて可愛がりたい。このグローブのように。  摩耗した皮を親指で撫でて、口付ける。生きるために借りたものが、今では汚い執着の証に変わり果てている。  そんなことを考えていると、だんだん瞼が重くなってくる。今日は一日中寒い中外で撮影していたので、少し疲れていた。雪丸はグローブを抱えたまま寝返りを打って丸くなった。  ベッドが軋んだ感覚に意識がぼんやりと浮上する。温かく大きな手に頭を撫でられる感覚に、頭を擦り付けてから、うすらと目を開く。 「ん、どうじ……? なんでいんの」  身体をもぞもぞと動かして肉厚な膝の上に頭を置き直す。 「スパ銭行くならこっちのが近いだろ」 「今日行くの?」 「行けそうだったから。飯食ったか?」 「食ってない……」 「あそこ飯屋もあるだろ」  右手で目を擦りながら尋ねる。 「今何時?」 「8時半」 「スパ銭よりエッチしたい」  道慈の腰に抱きつこうとして、左手の違和感に気づいた。やけに窮屈だと思ったら、グローブをはめたまま寝ていたらしい。  急速に目が覚めて飛び起きる。自身の左手を目で確認して、道慈の顔を仰ぎ見る。やさしい目をしていた。道慈は甘やかしてくれる時よくこういう顔をしている。  しかし今はその顔を見たくなくて、左手を背中に隠しながら目を逸らす。  痛恨のミスだ。 「……お前これまだ持ってたんだな」  しかも覚えているらしい。最悪だ。  道慈の手が我が物顔で左手を引っ張ってきた。勝手にグローブを外して自身の手にはめている。 「うわ、流石にもうボロだな」  道慈がグローブをはめている姿を見て、目が離せなくなる。14年もの執着の証を軽々とはめている。  しかし雪丸の頭にはその事実よりも、あまりに似合うその姿に吸い込まれるように魅入っていた。かけていたピースがはまるかのようにしっくりくる。 「雪丸、スパ銭やめてキャッチしよう」  お前結構前の草野球、グローブすら持ってこないでゲロだけ吐いて帰ったろ。絶対鈍ってるぞ。  道慈が楽しそうに笑った。その少年のような笑顔に見惚れてしまう。 「……ばか、誰に言ってんだよ」  ぽつりと呟く。  道慈は不思議な力を持っている。雪丸の薄暗い執着と欲望を、こんなふうにいとも簡単にその存在だけで溶かしてしまうことがある。道慈がそばにいると、重たいと思っていた物が急に軽くなる。明日も頑張れる気がしてくる。  これに幾度も救われてきた。  道慈は皮の表面を撫でながら口を開いた。 「俺はお前がこれ返しにくると思って待ってたよ。高校の寮にも大学の下宿にもミット持ってってた」  道慈の言葉にぎくりと固まる。初耳だった。 「お前何も言わずにいなくなったし、試合観にきても喋りもしねぇし、俺ばっかお前との野球に執着してたんだと思ってた」  道慈から執着という単語が出てきたのに驚いた。雪丸から見た道慈は、どちらかというと勝つことに執着していた。 「お前俺の気持ち考えたことねぇだろ」  道慈は苦笑いした。  確かに道慈の気持ちなんて考えたことがなかった。ただ全部がうまくいっている人間にしか見えていなかった。試合で負けていた時ですら、悔しげな顔が青臭い青春じみていて、雪丸は直視するのが居た堪れなかった。 「まぁ、今更言うことじゃねぇか」  道慈はグローブを取ってベッドに置き、頭をかいた。  部屋に沈黙が落ちる。 「雪丸、家帰ろう」  道慈が立ち上がる。雪丸は俯いたまま顔を上げられなかった。 「……だって、しょうがねぇじゃん」  ぽつりと泣き言に近い言葉が漏れる。だっていっぱいいっぱいだったんだ。全部無くして、ずっとそばに居た存在が遠くに行って、どう関わればいいかわからなくなって、でも生きなきゃいけないから生きているのに必死だった。  お前だって俺のこと知らねぇだろ、なにも。  反論は言葉にならなかった。 「なら今は? 俺の気持ち考えたことあるか?」  道慈の言葉に雪丸は顔を上げた。 「……今ってなに」  道慈は雪丸が言ったとおり、毎日好きと言ってキスして触れ合ってくれる。予定がない限り時間を作ってくれる。この三ヶ月、道慈は最初に決めたルールを忠実に守っていた。  それが息苦しいと言いたいんだろうか。そんなの許さない。雪丸を愛すのは道慈の義務だ。  しかしそう思っているのは雪丸だけだった。 「……嫌になったの?」  雪丸はそっと息をついて聞いた。 「ほら、まともに考えてねぇだろお前」  道慈が目の前に立って、顔を掬い上げてくる。道慈は呆れたような顔をしていた。 「毎日好きとかキスとかセックスとか、こんな面倒臭ぇこと好きなやつ相手じゃなきゃできねぇよ」  いつもの呆れ顔が、今度は観念したように笑う。 「俺はお前に言われたからっていうのもあるけど、言いたいから言ってるししたいからしてるよ」  道慈の両手が頬を持ち上げてくる。 「わかったか? 俺の気持ち」   言って聞かせるような声に胸の奥が柔く痛んだ。道慈はあんまり口が上手くない。だからいつも直球の言葉をくれる。  それが狂おしいほどに愛おしい。 「……うん」 「じゃあ、たまには俺に付き合えよ」  道慈が悪戯っ子のように笑った。    1月の夜中の公園は冷えていた。  鼻の奥が寒さでつんと痛む。息を吐くと空気が白くなった。  雪丸はダウンのポケットの中でボールを握りながら、その手に馴染まなさに少しモヤモヤしていた。  中学の時より若干大きい球を使っているのに、手の中にあると小さく感じる。  道慈はとんでもない奴だ。今だけじゃなく、過去に染みついた雪丸の渇きまで潤そうとしている。否、実際は道慈自身はそんなつもりないのかもしれない。きっと道慈は自分の過去の渇きを癒したいだけだ。その真っ直ぐな自己愛が雪丸は嫌いじゃなかった。  いつもならベッドで抱き合っている時間に公園にいる。不思議な気分だった。  ここら辺でいい、と道慈が街灯の下で足を止めた。ポケットから手を抜き、ボールを見つめる。  右手で頭上に投げてから、グローブでキャッチする。 「はは、穴あきそう」  年季の入ったグローブの鈍い音に、雪丸は思わず笑った。    距離を取った道慈に軽く投げる。ミットが音を立てる。指先がかじかむ感覚も、白球の冷たさも、全てが懐かしい。  返ってきた球を捕り、グローブの中心の薄さに僅かに不安を覚える。何度かボールを投げるうちに、ダウンジャケットの中で身体が次第に温かくなってくる。右手の指先に血が巡り出す。道慈が屈んだ。  地面を踏んで、振りかぶる。  乾いた音がなった。  

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