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第3話 拒絶と、不変の誓い

1. 浸食する日常 基地を包む空気は、刺すような冷気から、 すべてを凍りつかせる真冬のそれへと変わっていた。 格納庫の中、直人はF-2の主脚に潜り込み、点検を終えて油まみれのグローブを外した。 かじかんだ指先が、自分の呼気で僅かに潤う。 「班長。これ、差し入れです」 振り返るまでもない。耳に心地よく響く、少し低めのテノール。 レオンが、湯気の立つ紙コップを二つ持って立っていた。 「……またお前か。訓練はどうした」 「先ほど終わりました。今日の機体、最高でしたよ。班長の整備した翼は、僕の意思を先読みしてくれる」 レオンは自然な動作で直人の隣に腰を下ろし、コーヒーを差し出す。 差し出された紙コップを受け取る際、指先が微かに触れた。 直人は一瞬だけ肩を揺らしたが、拒むことはしなかった。 いつの間にか、この「休憩」は二人の暗黙の了解になりつつある。 「……単なる噛み合わせだ。お前の勘違いだろ」 「勘違いじゃありません。体感です。僕の体の一部みたいに動くんです」 レオンは碧い瞳を細め、直人の横顔をじっと見つめる。 直人の頬には、拭き残したオイルの汚れが筋になっていた。 レオンは無造作にポケットから清潔なハンカチを取り出すと、 直人が止める間もなく、その汚れをそっと拭った。 「……ッ、おい」 「汚れていましたから。……班長は、自分のことには本当に無頓着ですね」 至近距離で交わる視線。 直人は、レオンの指先から伝わる熱に、喉の奥が熱くなるのを感じた。 以前なら「汚ねぇだろ」と一蹴していたはずなのに、 今はその指を払いのける理由が見つからない。 言葉を失い、ただコーヒーの苦味を飲み込む直人の「沈黙」をレオンは見逃さなかった。 2. 招かれざる「家族」の風景 数日後の土曜日。 駐屯地近くのスーパーの軒先で、直人は買い出しの袋を抱えたまま、 横殴りの吹雪に立ち往生していた。 「……参ったな。美月、離れるなよ」 「うん。でもパパ、これじゃタクシーも捕まらないね」 中学一年の娘・美月が、 白い息を吐きながら父の手を握る。 その時、雪のカーテンを割り、一台のSUVが目の前で静かに停まった。 「――班長。お困りですか」 運転席の窓が下がり、レオンが顔を出した。 「橘? お前、車出してたのか」 「ええ、買い出しです。官舎まで送ります、乗ってください」 断る間もなかった。 美月が「ありがとうございます!」と後部座席へ滑り込むと、 直人も苦笑して助手席に収まるしかなかった。 同じ自衛官官舎の敷地内、 駐車場に着く頃には視界が白く塗り潰されるほどの猛吹雪になっていた。 車を降りる際、美月が直人の袖を引いた。 「ねえパパ、レオンさんにお礼しなきゃ。……レオンさん、良かったらこれからうちで一緒にご飯食べませんか? パパの作ったお鍋、美味しいですよ」 「おい、美月」 「いいんですか? 実は、一人で食べる夕食には飽きていたところです」 レオンは碧い瞳を僅かに見開き、静かに、けれど深い喜びを湛えて微笑んだ。 直人の部屋は官舎特有の無機質な間取りだが、 二人の穏やかな生活の匂いが満ちていた。 キッチンで直人が手際よく準備を始めると、 レオンは自然な動作で袖を捲り、横に立った。 「班長、野菜のカットだけでも手伝わせてください。戦力にはなるはずです」 「座ってろと言っただろう、二尉」 「せめて、お手伝いをさせてください」 結局、レオンに白菜を切らせる羽目になった。 手慣れた包丁捌き。 直人は、狭いキッチンに他人が立つ違和感を抱きつつも、 どこか懐かしいような、賑やかな湯気の気配に毒気を抜かれていく。 食卓を囲むと、美月が楽しそうに学校の話を始めた。 直人は聞き役に徹しながら、娘の皿に手際よく具材を分けていく。 レオンはその様子を眩しそうに見つめながら、絶妙な相槌を打った。 「パパ、レオンさんってすごいね。お話も面白い!」 「……ああ、そうだな」 その光景はあまりにも自然で、 まるで欠けていたピースが埋まったかのような錯覚を直人に与えた。 食後、ソファーでくつろいでいた美月が、不意にスマホをレオンの方へ向けた。 「ねえ、レオンさん。これ、パパが昔、基地の開放日に撮った写真。……見る?」 画面に映し出されたのは、20代前半の直人。今より尖った表情をした、鋭い瞳の男。 「……っ」 レオンの瞳が、獲物を見つけた猛禽のように見開かれる。 美月はその反応を、じっと観察していた。 「パパ、自分の写真はすぐ捨てちゃうから、あまり残ってないの。……レオンさん、これ欲しいんでしょ?」 試すような、少女とは思えない鋭い微笑。 レオンは隠しきれない独占欲を瞳に宿したまま、ゆっくりと頷いた。 「……後で、こっそり送ってあげる。パパに内緒だよ。その代わり、これからもパパを助けてあげてね」 美月は、この美しいパイロットが父に向ける視線の「正体」を、 すでに楽しむ余裕すら持っていた。 ふと視線を感じて振り返ると、キッチンに立つ直人と目が合った。 レオンは美月には見せない、情熱を孕んだ重い視線を送る。 (……あなたが独りで守ってきたこの場所を、僕も一緒に守らせてください) そう無言で誓うような執着を感じ、直人は慌てて視線を逸らした。 だが、耳まで赤くなっているのを隠すことはできなかった。 レオンは、その直人の反応に、静かに勝利を確信した。 3. 雪夜の墜落 それから数日後の、ある夜。 格納庫の残業を終え、二人は静まり返った基地内を歩いていた。 音を吸い込む雪が、二人の足音だけを際立たせる。 「……班長」 レオンの声が、夜の静寂を震わせた。 直人は足を止め、振り返る。 街灯の下、舞い落ちる雪がレオンの碧い瞳を縁取っていた。 「どうした、二尉。……忘れ物か?」 「いえ。……ずっと、言いたかったことがあります。あの日、迷子だった僕を助けてくれた時から。そして、ここで再会して、あなたの隣で過ごすうちに確信したんです」 レオンは一歩、直人の「境界線」を蹂躙するように踏み出した。 逃げ場のない距離。 「僕は、あなたを愛しています。……付き合っていただけませんか」 直人は息を呑んだ。 目の前にいるのは、獲物を墜とすためだけに研ぎ澄まされた、 一人の男だった。 「……気持ちは、嬉しい」 直人は、震える手でレオンの腕を掴んだ。 「だが、俺には美月がいる。あの子を育てるのが俺の責任だ。……お前とは、生きる道が違いすぎるんだ」 「彼女のことも、含めて言っているんです。……直人さん」 初めて名前を呼ばれた。 その響きが、直人の耳の奥で爆音のように鳴り響く。 「……だめだ。今は、誰かと……そんな余裕なんて」 直人は、 縋るようなレオンの視線から逃れるように、力任せに手を振り払った。 一度も振り返らずに雪の中を歩く直人の背中には、 冷たい風ではなく、 レオンの重い視線が張り付いたままだった。 4. 凪いだ執念 「……余裕がない、ですか」 レオンの唇が、暗闇の中で微かに、歪な形に揺れた。 直人が立ち去った後の雪の上に、まだ彼が発した熱い呼気の残響が漂っている気がした。 拒絶されたはずの鼓動が、自分の掌の中で、心地よいリズムを刻み続けている。 あんなに震える声で、顔を赤くして。 鉄壁を誇る整備班長が、自分の一石にここまでかき乱されている。 (……『嫌いだ』とは、言わなかった) レオンは、自分の胸元に残った直人の指の感触をなぞるように、 ゆっくりと手を動かした。 自分を否定する言葉は、一言も紡がれなかった。 ただ、泣き出しそうな、あの切ない声で「余裕がない」と零しただけだ。 (美月が高校を卒業するまで。……あと、五年) レオンは、直人が消えていった闇の深さを愛おしそうに見つめた。 十五年も待った自分にとって、五年など瞬きをするほどの時間に過ぎない。 すでに、直人の「日常」には、自分という毒が走り始めている。 差し出されるコーヒー、 美月が自分の名前を呼ぶ声、夜の沈黙に混じる自分の名前。 それらすべてを積み重ね、直人の全方位を「橘レオン」で塗り潰していく。 気づいた時には、彼が自分という翼なしでは、真っ直ぐ歩くことさえできなくなるまで。 「待つのは、得意なんです。……十五年、あなただけを見てきたんですから」 碧い瞳に宿った光は、凪いだ冬の海のように静かだった。 それは、獲物が自ら網の中に沈んでいくのを、 何千日でも見守り続けるハンターの、底知れない忍耐。 「……おやすみなさい。僕の、直人さん」 レオンの囁きは、降り積もる雪に溶け込み、 誰に知られることもなく、逃げていく直人の背中を、 呪いのように優しく追いかけていった。

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